03 花音の記憶Ⅱ







 寝ぼけるにも、ほどがある。

 自分の父親が死んだことを、忘れるなんて。


「どうしたの? お義父さんの夢でも見た?」

「え、どういうこと?

 母ちゃんも、まだ寝てんの?」


 逆に聞き返されて、ますます意味がわからなかった。


「……どうしちゃったの、陽太ようた

 お義父さんもお義母さんも……亡くなったじゃない」


 私が言うと、陽太はだんだんと困惑した表情を見せる。


「父ちゃんと母ちゃんが……死んだ……?」


 私をからかっているわけじゃ、ない。

 陽太がこんな冗談を言うとは、思えなかった。


「……5月の事故のこと、忘れちゃったの?」

「じ……事故……?」

「みんなでお義父さんの実家に帰る時、私と陽太も一緒に車に乗ってて……」


 陽太は口をぽかんとあけ、信じられないという顔を私に向ける。

 昨日までは、いつもの陽太だった。記憶がなくなった? でも、私のことはわかってる。


「今日……10月2日、なの? 2011……年の?」

「……うん、そうだよ」


 テーブルに置いた新聞を見て、陽太が呟く。


「ヤバイ、意味わかんない。

 俺、今日は7月……2010年の7月4日だと、思ってるんだけど」


 思わず、息が止まりそうだった。








 陽太の言葉を聞いて、すぐに病院に行くことにした。

 話を聞く限り、陽太は2010年7月からの記憶が全くないらしい。そんなことって、あるんだろうか。

 運転を任せるのがなんとなく怖くて、私の運転で病院に向かう。


「昨日店終わってから、花音と一緒にヤマトの誕生日プレゼント渡しにいって、そのまま家に帰ってきて……」

「そういうことがあったのは覚えてるけど……もう、1年以上前のことだよ。

 昨日の話じゃ、ない」


 私が言うと陽太は、ますます戸惑った顔を見せる。


「……どういうこと?

 俺、じゃあ、そのあいだ何してたの……?」

「普通に……暮らしてたよ。お店任されるようになって、結婚して、事故に……あって。

 それからまたお店再開して……」

「待って、待って。

 結婚? 俺、花音かのんと結婚してるの?」


 そうだ。

 去年の夏以降の記憶がないということは、私にプロポーズしたことも、そのあと私が在原ありはら家に住むようになったことも、知らないんだ。


「……じゃあ、父ちゃんと母ちゃんが死んだのも……ほんと、なんだ。もしかして、弟も……?」

「……うん。みんな……亡くなった」

「そん、な……」


 陽太はうなだれ、両手を握り合わせた。

 肩が少し、揺れていた。


「嘘、だろ……なんでそんなこと……死んだ、なんて……」


 堪え切れない様子で、陽太は泣きだした。

 車内に陽太の嗚咽が響き、私は唇を噛んだ。


「なんで……なん、で……!」


 可哀想で、見ていられなかった。

 事故から5ヶ月たち、やっと少しずつ、立ち直っていたところだったのに。








 病院で診察を受けようとすると、うちじゃ手に負えないからと、大きな大学病院を紹介された。

 そこで脳や脳波の検査、面談を行い、前向性健忘症ぜんこうせいけんぼうしょうという病名が伝えられた。


「恐らく、事故の後遺症によるものでしょう。

 その時の検査では異常はなかったようですが、ごくまれに遅れて症状が出る方がいます」

「でも彼は……事故の前の記憶もありません」

「そういう症例も、まれにあります」


 先生は、脳の模型を用いながらどういう病気かを説明してくれた。

 “前向性”というのはつまり、過去を後ろ、未来を前とした時に、後ろにある過去の記憶は保持できる。

 しかし。


「在原さんの場合、去年の夏までの記憶は今後も恐らく、保持できる。

 ただ……」


 先生は、言葉を濁す。本人に伝えるべきかと考えているのだろう。

 すると陽太は、身を乗り出して言う。


「先生、教えてください! 俺、この先どうなんのか、ちゃんと知りたい」

「様子を見ないと、はっきりしたことは言えませんが……

 もしかしたら、今後新しいことを記憶するのが難しくなるかもしれません」


 先生の言葉に、私と陽太は困惑の表情を浮かべた。


「ど……どういうことですか?」

「どこかで記憶がリセットされてしまって、また記憶が去年の夏に戻ってしまうかもしれない、ということです」


 先生は、ふ、とひとつ息を吐いて、陽太に尋ねる。


「今朝のことは、よく覚えていますか?」

「は……い、ちゃんと、覚えてます」

「じゃあ、在原さんの場合は少なくとも、10時間は記憶がもつ」


 私と陽太は、同時に時計を見上げた。起きたのが7時半、病院の移動や検査が長引いて、今は夕方の5時半。


「どれくらい記憶がもつ、というのははっきりとは言えない。

 しかし今回の症状が事故の後遺症によるものであれば、どこかでまた記憶がリセットされる可能性は高い」


 いまいち、実感が沸かなかった。

 昨日までの1年ちょっとの記憶をなくしてさらに、今この時間の記憶もなくなる?そんなことが、あるんだろうか。


「何年か前に、この病気を取り扱った映画もありました。

 その映画の登場人物は80分しか記憶がもたなかった」


 先生は、重い表情のまま言葉を続ける。


「たとえば、昨日会った人と今日また会っても、初対面に感じる……そういうことが、日常的に起こりうる。

 危険なこともある。どこかに1人で出かけても、突然、今どこにいるのかわからなくなる。帰り方もわからなくなる。鍵や財布をいつもと違う場所にしまえば、しまった場所がわからなくなる」


 だんだんと、陽太の肩が落ちていく。

 陽太にとっては、つい昨日まで元気に……事故に遭うこともなく、家族を失うこともなく、幸せに暮らしていたつもりだったろうに。


「……とにかく、今後の在原さんの様子を見ていくしかありません」


 病状を把握するために、何か変わったことがあれば逐一記録し、次の診察に持ってくるようにと言われた。

 症状がどの程度のものか、生活にどういう困難があるかを確認して、必要に応じて福祉サービスを利用していくことになる。

 帰りの車の中で陽太は、一言も言葉を発さなかった。







 家に着いてからも、陽太はぼんやりとしていた。


「つらいだろうけど、ご飯、食べて」


 陽太の好きな、麻婆豆腐。

 陽太ほど上手には作れないけど、昨日までの陽太は、おいしいおいしいと喜んで食べてくれていた。


「俺の知ってる花音の味じゃない、けど、うまい」

「……お義父さんが、教えてくれたの。陽太好みの味」

「そっか。うまい……、うん、ありが、とう……」


 一生懸命口にかきこみながら、陽太は声を上ずらせて泣いていた。

 その姿を見て、私まで泣いてしまわないようにと、唇を噛んだ。


 どうしたらいいのか、わからなかった。

 だけど私以上に陽太は、絶望的な気持ちだろう。いつ消えるかもわからない記憶。いつの間にか進んでしまった、時間。


 お腹が満たされると陽太は、なんか眠いやと、シャワーを浴びてそのまま眠りについた。



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