5 旅立ちと思い出

 三つの鞄を下げ、カミーユはローザハウスを振り返った。


 クローヴァーが、フルーツケーキの残りと子供たち用のおやつを鞄に突っ込んでくれる。


「行ってらっしゃい。手紙を忘れないでね。夜更かしはダメよ。起きたらまず身支度。カフェーも一日三杯まで。あと、ご飯の時に鼻をスンスンさせないこと。人に会った時もよ」

「えっ……」


 ショックだ。悪いクセは直したつもりだったのに。まだやっていたのだろうか。

 見送りに出た先生も、クローヴァーの後ろで苦笑している。

 小言のほとんどは先生の耳にも痛いはずだ。

 鼻はスンスンしないけれど、先生の場合はこれに、ちゃんとベッドで寝てください、が付け加わる。


「商業ギルドで私の名前を言えば、わかるようになっている。気をつけてな」

「はい。先生ありがとうございました。……急すぎて、皆に挨拶できないのが残念だけど、まあ、実の季節には帰ってくるし」

「仕方ないわ。出発に間に合わなくなっちゃうもの。さあ、行って」

「行ってきます! ありがとう!」



 手を振り、重い鞄を持ちなおして、丘を下る。

 ここからは、王都のすべてが見渡せる。


 王都は山と丘に囲まれた美しい街だ。山と山の間、遠く湖が青く光る。

 海から距離はあるが、街の中心を流れる河のおかげで発展してきた。

 今は花も葉もなく物寂しい風景だが、季節になれば芽吹いた新緑と、赤やピンクのローザの花で王都が縁取られる。


 カミーユのいるこの丘も同じだ。

 今は雪囲いをされているミラクルーズも、季節には丘を赤紫に染める。


 早朝に、なんの加工もされていない花の香りに包まれるのは、花摘み人だけの特権だ。

 調香術師を目指す者としても、代えがたい経験だった。

 

 抽出された香料を使って調合と付与だけをする調香術師もいるらしいが、カミーユは遠国の原料以外、できる限り自分で触りたい。

 フレッシュな原料を嗅いで、その匂いを感じるままに、時には分析しながら記憶する。

 そんな匂いの記憶は、景色や気温、音、味わい、手触りといった五感すべてで取り込んだものと併せて、調香のイメージ作りにとても役立っている。


「今度行く場所も、畑に近いといいな」


 ミラクルーズはここでしか見られないが、新たな原料との出会いが楽しみだ。

 

 一人で知らない土地へ行く不安は、もちろんある。

 でもそれ以上に、話を聞いたときから楽しみで、ワクワクとしている。

 重い荷物がなかったら、丘をスキップで駆け下りたかもしれない。


「なんとかなるっ! 前世では恋と仕事をセットで失ったけどさ。今回はまだ仕事だけ。……まあ、恋人も婚約者もいないから、失えないんだけど。まだ十七だもん。これから、これから。……これからだよね? 花の女神様、良き御縁をお願いしますーっ!」


 花の女神が縁結びをするかはともかくとして、天に向かって手を合わせたカミーユには、前世の記憶がある。

 記憶を得たのはちょうどこの丘にいた時で、カミーユは十歳だった。




 ◇



 

 あれは確か実の季節に近い頃だった。

 私はテオドール先生と一緒に、街に降りようとしていた。

 

 ふと届いた甘い匂いは、私の知らないものだった。

 そのはずだった。


「うわあ。ローザと同じぐらい、すっごくいい匂い! 先生、何かなあ」


 あれ? 知ってる気がする。

 たぶん、白い花。

 花を摘んだことがあるよね。

 朝は柔らかく軽やかな香りなのに、だんだん甘く、重くなって。

 そう、濃厚で、華やかで、エキゾチックで、アニマリックで。

 ああ、私は苦手だったような。

 そうだ。


 ビュウと突風が吹いて、匂いが飛び去った。

 

「……ジャスミン」

「おや、カミーユはジャスミナを知ってるのかね? もしかすると、幼い頃に嗅いだのかもしれないねえ」


 違う。ここじゃない。


?」

「ああ。白い、南で咲く花だよ。いい香りだろう? 花の王と呼ぶ人もいるぐらいだ」


 王様はローザじゃないんだ。じゃあ、ローザは女王様か、なんてことを最初に考えたのだけれど、香りと共に流れ込んでくる前世の記憶が怖くて、膝を付いた。


 記憶だ。この世界じゃない、別の場所の。


「なに、これっ……」

「カミーユ! いかん。暑気に当たったか」


 慌てた先生に抱き上げられたことは覚えている。


 真っ先に思い出した前世の記憶は、けっこう最悪だった。

 同じ化粧品会社に勤めていた恋人が浮気をして、その彼女に贈られた香水がジャスミンだった。地味な私には、こんな華やかな香りは似合わないでしょと、浮気相手と一緒に私をバカにして笑っていた。あの様子じゃ、浮気でもなかったんだろうけど。


 次に思い出したのは、私はフランスにいて、調香師養成コースを受けていた。ジャスミン嫌いを克服しようとしているから、たぶん恋人とのことがあった後のことじゃないかな。期末試験でオリジナルの香水を作り上げたところで、記憶は途絶えている。


 それからいろいろ思い出そうとしてわかったことは、前世の記憶は香りに関係することが多い。

 香水や調香はもちろん、飲み物や食べ物の香りのこともある。

 ただ、ポンコツな記憶で、松茸の香りとおいしさは甦ったのに、どこのレストランだったとか、誰と食べたのかが、あやふやなままだったりする。


 でも、それで良かったのかもしれない。

 元恋人や浮気相手の顔は、はっきりと思い出せなかったから。







 あの時、ジャスミナの香りを纏っていたのが、花の生産国サウゼンドの姫で、第二妃としてこの国に嫁入りしたばかりのヤスミーナだった。

 テオドールの教え子であったらしい。

 カミーユが倒れたところに遭遇したのだが、前世を思い出したカミーユだけでなく、ヤスミーナにとっても変化をもたらす出会いになった。


 カミーユにしたら、ヤスミーナとの世間話で、前世にあったものを話したに過ぎない。けれどそれはサウゼンド国の発展に繋がり、ヤスミーナの第二妃としての立場は強くなった。

 

 今、貴族の間には、王城を中心とした二つの派閥がある。

 この国の公爵家出身であるロージア王妃の派閥が、ローザ派。そして、隣国から嫁いできたヤスミーナ第二妃の方が、ジャスミナ派。


「ローザ派とジャスミナ派の対立とか、考えてもなかったし、全く興味なかったんだけどな」


 どんな思惑がヤスミーナにあったのかは知らないが、カミーユはヤスミーナの推薦で王立学院に進学した。

 採用取り消しとなった工房は、カミーユ自身ではなく、第二妃の後ろ盾が欲しかったのだろう。

 だから派閥の情勢変化で、簡単に捨てられてしまったのだ。


「まあ、それでもヤスミーナ妃殿下には感謝しかないわ。調香師になることが、前世からの夢だもの」

 

 記憶とともに、夢を思い出した。

 一人一人の個性に合わせた香水を調香できるようなサービスができたらいいな、と思っていた。

 魔法と魔術がある世界で、調香師の呼び名が調香術師となっても、それは変わらない。

 むしろ二生に渡っての夢になり、思いは強くなった気がする。


「よし! 次に、王都に来るのは調香術師になるときかなーっ! がんばろっと」


 カミーユは改めて自分に気合を入れ直して、丘を下った。

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