名の無きケントゥリオンの物語

曽我二十六

名の無きケントゥリオンの物語 (本編)

 1123年の事である。時の皇帝インペラトールフラウィウス・ユリウス・ウァレンスより直々に百人隊長ケントゥリオンを拝命した男が居た。僭称者プロコピウスとの長い戦いの際、キリキアの門にてウァレンス帝を窮地から救った功によるものである。

 前任の百人隊長が短剣グラディウスで刺殺された、少々物騒な百人隊ケントゥリアである。男は不安を覚えながらも、その任を快諾した。部隊は早速戦地へ向かった。


 男が就任して3日目、早速大事件が発生した。今度は旗持ちアクィリフェルが刺殺されたのである。前任の暗殺事件も未解決であるので、ケントゥリアの中では相互不信が広まった。その対象は新任の百人隊長に対してもであった。

 暗殺された旗持ちの職には、高潔さが求められる。換言すると、部隊の全資産を管理する職であるのだ。しかし殺された旗持ちには、高潔さが無いと言われていた。その旗持ちを任命したのは、他でもない百人隊長ケントゥリオンであった。


 どこからともなく、不穏なる噂が広がった。

新隊長ケントゥリオンは、軍旗ウェクシルムを私物化している」

 軍旗の私物化は大罪で、死刑に値する。これは帝国市民シビス・ロマヌスにとって、最も低俗で、下等で、醜悪な行為なのである。しかしキケロの言うように、

市民を裁くのは帝都だけだシビス・ロマヌス・スム

 その真偽に関わらず、帝都ロームンに戻るまでは裁かれない。当然、兵士レギオーたちからの信頼は地に堕ちるが。


 勿論、誓って無実である。とはいえ男には、心当たりというものが無い訳ではなかった。男は現地での食糧調達に際し、軍旗を使った。これ自体は問題のない事である。しかしその過程が問題であった。当時食糧難にあった部隊には手続きが間に合わない、そう考えた男は独断で決定を下したのである。

 疑わしきは罰せず、被告人の利益に。とは言うが、そんなものは裁判での話。殺人現場で赤色に染まった上衣を着ている人間が居て、本当はそれが偶然の赤ペンキだったとしても、彼を無実と扱えるかという話である。


 事実関係は有耶無耶のまま、部隊は東へ進み続けた。東にはパーシデの国が存在する。「諸王の王レクス・レガム」を名乗る、帝国レス・プブリカとは不倶戴天の敵インフィデリスである。

 新しい旗持ちアクィリフェルには、前から部隊に所属する副隊長オプティオを任じた。ついでに言っておくと、国軍に於いてその序列は、隊長ケントゥリオン旗持ちアクィリフェル副隊長オプティオというように、旗持ちの方が上なのである。


 行軍7日目。アルメニアも近くなった所で、隊はひどく混乱した。

副隊長オプティオが前隊長や旗持ちアクィリフェルを殺した」

 これは事実であった。殺される直前に旗持ちが呼び出されていた事や、刺された短剣グラディウス副隊長オプティオのものだった事、現場に目撃者が存在した事、証拠が大量に挙がったのである。副隊長は綺麗さっぱりとこれを揉み消していたのだが、彼に反感を抱く者が暴いたのであった。

 男は決断を迫られた。副隊長は部隊に最も長く居る古参兵である。彼を処刑する事に、男には少し躊躇ためらいがあった。軍隊という組織に於いて、絶対なのは軍律である。軍律に抵触した者は容赦なく処分せねばならない。しかし男は、軍律を良く知らなかった。否、厳密に言えば、軍律を知ってはいたが、軍律の絶対性を知らなかった。加えて、男は彼に期待してしまった。彼に今度こそという機会を与えようとしてしまったのである。


 男は曲がりなりにも百人隊長ケントゥリオンである。上官の命令は絶対である。兵士レギオーは文句ひとつ言わず受け入れた。言わなかっただけであるが。


 先程アルメニアに近いと言ったが、ここは辺境である。いつパーシデ人が襲ってきてもおかしくない。その緊張感の中での野営である。増してや、副隊長オプティオの悪事の清算が終わっていないという、組織として最低の状況である。男に軍旗私物化の濡れ衣を着せたのも副隊長と分かり、一度は思い留まった処刑を再検討し始めた頃合いであった。

 野営地はパーシデ人に包囲されていた。逃げ場所を失った部隊は、トイトブルク森でウァルス将軍が3個軍団を消滅させたように、殲滅された。唯一、男はウァルスと違って生き残ったが、その他は全く同じであり、凄惨を極めた。


 逃げおおせた男は、三日三晩、森を彷徨った。男は銀鷲旗アクィラを折り畳んで隠し持つ事で何とか死守していたが、飲まず食わずで走り続け、遂に限界を来した。走れ百人隊長ケントゥリオンと言っても、もう無駄である。

 男は夢を見た。帝都ロームンに居た頃の事。女に振られ、嫌われ、生きる希望を見失った時の記憶である。男は社会資本を食い潰す自らの存在に嫌悪を抱き、軍隊に入った。暫くは一般兵レギオーとして働いたが、キリキアの門でウァレンス帝を助け、百人隊長ケントゥリオンとなった。男は女のためでなく、国のため、組織のために命を消費すると決めたのだ。滅私奉公である。


 男は意識を取り戻した。見るとそこは牢獄の中。アルメニア兵に捕まっていたのだ。当時のアルメニアは、パーシデとロームンの係争地にあり、侵略を受ける度に宗主国を変えてきた歴史がある。ついこの前まで、パーシデに占領されていたのだが、今は独立国となっている。

「お前には何ができる?」

 男にそう問いかけたのは、パパス王というアルメニアの王であった。男は百人隊長ケントゥリオンである。男はその矜持を示さねばならない。国の誇りである銀鷲旗アクィラを天高く掲げて言った。


「見よ、これは帝国ロームンの証だ! 貴公らが兵を差し出せば、帝国ロームンは金銭と市民権を与えるだろう。私が約束するユーラル・サム!」


 パパス王は男を気に入り、捕虜としてではなく、元のように百人隊長ケントゥリオンとして遇する事を決めた。アルメニア人からなる新しい百人隊ケントゥリアを率い、男は国軍の本陣へ使者を送った。異民族混成隊アウジリアスとして参加したい旨と、兵役後の金銭と市民権の約束のためである。

 本陣は快諾し、東方遠征軍には異民族混成隊アウジリアスが加わった。男は一部隊を壊滅させたが、軍旗を奪われずにこれを埋め合わせたため、特に責は問われなかった。国軍はパーシデ人に勝利し、参加したアルメニア人には、約束通り金銭と市民権が与えられた。


 男は、副隊長オプティオを処せずに部隊を壊滅させた。法治主義であらねばならぬ所に、情けを持ってしまったのである。そのために、金銭と能力による強引な解決を余儀なくされた。このような事は、国の各地で繰り返された事だろう。この5年後、北方のゲルマン人が大移動してくる事になるとは、誰も思わなかった。だがタキトゥスの警鐘は、277年後に現実のものとなったのだ。


 解説は明日投げます、完結済です。

 ちなみにこれはフィクションです。

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