無名

文乃綴

1st EP『夏星の国<In the Region of the Summer Stars>』

A-side:1

 ライブハウスが、私は好きだ。

 小さなライブハウスも大きなライブハウスも、音楽が始まる頃には徐々に静かになっていく。――静寂もまた、音の一つだ。誰かが咳をする。衣擦れる音がする。それも、ライブハウスの中にある音の一つ。音楽を構成する一つの楽句フレーズ

 だから――私は。キーボディスト・廣川克己は今もライブしている。今日はEL&Pのコピー。演目は『タルカス』。残った時間は客からのリクエストにこたえる――それだけ。

 タルカスは七つの曲で構成されている。二〇分を超えるその構成は当時、とてつもなく前衛的なものとして見られていた。

 客の数はそれなり。殆どの客は中年男性……私が活動するライブハウス『シルバーバレット』はプログレッシブ・ロックをメインにしている今どき珍しいライブハウス。キャパは多くなく、客層も普段からあまり変わらない。

 バンド名は『穢土』。私の敬愛するプログレッシブ・ロックバンド『エニド』のパロディ&オマージュだ。最初はエニドの完コピバンドを目指していたはずなのに、メンバーの変遷もあって、ある時はルネッサンス、ある時はフォーカス、ある時は……とにかく、節操なく色々なプログレ・バンドのカバーを演奏してきた。

 今いるメンバーは私含め三人。最初期から一緒に活動しているベース・矢野彰宏。途中加入のメンバーでドラムス・山崎貴志。この三人で構成されている――いわゆる、キーボード・トリオ。ちょうど今演奏しているEL&Pと同じ構成だ。しかし、場合によっては矢野がギターをやることもあるし、ボーカルは場面によって私だったり、矢野だったりする。私がフルートを使う時もあるし、今山崎はドラを鳴らすことも鐘を鳴らすことも出来る。……何であれ、物も金もない以上、工夫して演奏する。それが私達のやり方だった。

 今日は結局、タルカスの後にホウダウンをやって終わる。

「満足だ」

 そう。私は満足している。美しい音の旋律が、プログレッシブ・ロックの音色のみが聴こえる空間にいて、私自身がその音を構成しているその現状に……満足、している。

 客の顔を見る。彼らも満足している。……たった一人だけ、顔が見えない、どこかで見たような輪郭を持つ男がいるのを除けば、皆満足しているのが理解出来る。

 だからこそ、私も同じように考える。――私は、満足しているのだ。今の自分と、自分を取り囲む世界との、その両方に。だから今日も、シンバルはどこからも飛んでこない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る