第44話 【十五年前】甦った記憶

 西国地方の北部に位置する御釈蛇ミシャクジ山は花崗岩層が多いもろい山で…崩れやすい。


 十五年前の七月。御釈蛇山の麓にある瑞城みずき町と岩見いわみ町を中心に大規模土砂災害が発生し、25名が土石流に呑み込まれて犠牲になった。行方不明者4名は今も見つかっていない。


 ―――――私は当時、中学二年生だった。


 通っていた東都とうとの中学校の友達の雰囲気に馴染めず、絵ばかり描いていた。交友関係のストレスで持病だった喘息が悪化し、学校に行けなくなった。そして、療養のためという建前で、母の故郷の西和せいわ県瑞城町に来て、朱鳥あけどり神社の神主だった祖母の元で生活することになった。


 ―――――私は岩城いわき中学校に転校した。


 東都とは違い、瑞城町も岩城中も楽しかった。この地には暮らしの中に神様や妖怪、幽霊、お化けが普通に存在していて、私は【不気味ブキミちゃん】扱いなんてされなかった。そもそも、私の祖母は神様のお世話係で、五歳の従妹いとこが【朱鳥さま】という土地の守り神になる予定だという特殊な家だった。


 あの日。


 ―――――祖母は御釈蛇山の西ノ山にある【朱鳥神社】で、水神を鎮めるための儀式をり行う予定だった。


 ところが、その年、東ノ山の一部を宅地化する計画が出ていて、東ノ山の森林が伐採され、一部を切り崩していた。そのせいで、川の流れが変わり、東ノ山を流れる川の水が西ノ山の川に注ぎ込み、川が氾濫したために、祖母は道の変更を余儀なくされた。膝の悪い祖母は【朱鳥神社】に近づけなくなってしまい、国道から少し上がった山道の途中で立ち往生していた。


「お祖母ばあちゃん」


 私は親戚の家で待つように言われていたのに、祖母のことが心配で後をけていた。


「…ゆうちゃん、なして来たんよ。いかんたら」


 祖母は緋色の巫女装束を着ていた。そして、真剣な顔をして、いつもとは別人のようだった。私はそんな祖母の様子も、ゴロゴロと渦巻く真っくらな空も、時折、バケツをひっくり返したように降り注ぐ雨も、とても怖くてたまらなかった。


「お祖母ちゃん、一緒に逃げよう」


 私がそう言った途端、雨風がますます強くなって、私達に吹きつけた。稲光が走ると共にバリバリと山全体を揺り動かすような轟音がとどろいた。


「おゆるしたまへ。このゆう神子みこじゃないんよ」


 祖母は叫ぶような大声で山に向かって訴えた。それは明らかに私に対しての言葉ではなかった。祖母は酷く怯えていた。「ミシャクジさまは…もう…」と呟くと、ぶるぶると震えながら天を仰ぎ、祓詞はらえことばの口上を述べた。


「…もろもろのまがごとつみけがれあらむをばはらへたまひきよめたまへとまをすことをきこしめせとかしこみかしこみももうす」


 …どうしよう。怖い。


 何も出来なくなり、その場で怯えながら固まっていた私を背後から呼ぶ声がした。


夏目なつめさん、やっと見つけました」


池田いけだ先生」


 それは黒いレインコートを着て、すっぽりとフードを被った【池田いけだ慎一朗しんいちろう】だった。私の転校した岩城中2-4のクラス担任だ。私は小さい頃から絵を描くのが好きで、岩城中でも美術部に入った。池田先生の担当教科は美術で、美術部の顧問でもあった。池田先生は優しくて誠実な良い先生で、皆から慕われていた。


「そちらは夏目さんのお祖母さんですか?」


「はい」


 池田先生は岩城中に移動になってから、まだ二年目で【朱鳥さま】や私の祖母が神主であることもよくわかっていなかったのだと思う。祖母の巫女装束を見て「何をなさってるんですか?」と、とても驚いていた。祖母の方は池田先生の姿を見て、ハッとしたようだった。


「夕ちゃん、先生と急いで山をりるんよ」


「お祖母ちゃんは?お祖母ちゃんも一緒に行こう」


 私が言うと、池田先生は祖母の腕をとって言った。


「お祖母さんも一緒に下りましょう」


「いんや。ワシは降ろさんと…」


 らちが明かないと思ったらしい池田先生は祖母を背負って、私に言った。


「この下の国道に私の乗って来た自転車があるんです。夏目さんは先に行って、それで学校に避難しなさい。山の下に向かって逃げてはいけない。林道を通って横に西に行きなさい」


「先生とお祖母ちゃんは?」


「後から行きますよ。夏目さんは先に行きなさい」


 銀縁眼鏡の下の目を細めて、先生は私を安心させるように笑った。


「年の順です。若い者が先なんですよ。そうしないといずれ滅んでしまう。あなたが行かないと、私もお祖母さんも行けません。それに、私は夏目さんの担任ですから」


 池田先生の言い方は穏やかで優しい。諭すような先生の言葉には逆らってはいけないような気がした。池田先生の背中にいる祖母の顔をうかがうと、何か吹っ切れたようで「先生の言う通りよ。はよ行かんかいね、夕」と、顔を上げた。私を安心させるためか、祖母は目尻に優しい皺を寄せて微笑むと、手にしていた巫女舞用の神楽カグラ鈴をシャンシャンと振ってみせた。


「本当に?後で来るのね」


 私の念押しには、池田先生が答えた。


「また学校で会いましょう」


「先生、お祖母ちゃんを宜しくね」


「はい、わかりました。そうだ、夏目さん」


 先生は急に真剣な眼差しで私を見た。先生の眼鏡のレンズについた雨の雫が流れ落ちる。


「夏目さんには才能がある。これから先、どんなことがあっても、ずっと描き続けて下さいね」


「先生?」


「あなたの絵のファンなんです」


 池田先生はにこりとした。


 それから後、私は無我夢中で西に逃げた。

 学校に着いた時、私がさっきまでいた御釈蛇山が断末魔のような叫び声を上げながら崩れ落ちた。辺り一帯を呑み込みながら…


 ―――――私は2-4の教室に倒れていた所をレスキューに来た自衛隊員に発見された。

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