第2話 トビーの話

 東と西の大陸に挟まれたこの縦に長い島国の東寄りにチタ州はあります。

大きな湖とたくさんの森がある自然豊かな土地で、北の山岳地帯では雪尾角ゆきおつの大暁おおあかつきなどの大型動物が闊歩し、南の平野部では湖から水を引いた農業が盛んです。

その平野に唯一の独立峰として聳えるクバ山に、祖父と僕は住んでいました。

 ご承知のように山々の頂には天上から神気が降ってきます。

山頂から下って川の流れのように、谷の底深くで地脈となって流れ出し、平野を潤し、やがて海に辿り着くとそこで拡散していきます。

こうして神気はその流れた先々で穢れを浄化し、この地に住む生物に健康と活力を与えてくれるのです。

ただ、連山ではあまり問題は無いのですが、クバ山のような独立峰になると、周囲一帯の浄化がこの山一つに掛かってきますから、神気の滞りや地脈の管理に神経を使わなければなりません。

連山と違って四方均等に神気を地脈に導くのはとても難しいことなのです。

 僕の祖父はクバ山の神官として、この神気の導き手を担ってきました。

灰猫は神気を扱うのに長けた種族なので、大方は神官としてあちこちの山上に住んでいるので、滅多に里に下りることはありません。

メリアンさんが僕を見て珍しいと言ったのには、こうした訳があったのです。

 僕の祖父は三尾みつおといって百五十年を生きた大神官なので、クバ山のような難しい管理を任されていたのです。

その祖父が半年前精霊に昇格しました。

長い間神気を体内に宿した者は精霊になると言われてきましたが、三尾になることも精霊になることも滅多に無いことなのです。

いつもは飄々としている祖父が、その日は真剣な顔で僕を呼ぶと、これから起こる事をしっかりと見届けるように言ったのでした。

そして神官の正装を身につけた祖父は、深夜になって祭壇の前に進むと、やおら肉体を脱ぎだしたのです。

 それは不思議な光景でした。

まるで蝶や蝉の羽化のように、今まで祖父であった肉体が前に傾くと、その背中から青白く輝く若々しい祖父の霊体が起き上がってくるのです。

僕はその様子に一瞬たりとも目が離せませんでした。

祖父の身体から霊体がどんどん離れて立ち上がる頃には、青白い光が祭壇に溢れてまるで白い闇に包まれるようでした。

 何か鋭く高い音が圧力を伴って周囲に満ちている気がするのですが、何も聞こえていなかったのかも知れません。

何も見えない、何も聞こえない、ただ存在の放つ圧力だけが感じられる状態がしばらく続いた後、聴き取れない音に変化が生じました。

ぼおん、ぼおんと空間が波打つように感じられ、その内に一定の抑揚を持った波音に変化していくのです。

目を瞑って、じっとその音の変化に集中していると、やがて意味の分かる音が聞こえてきたのです。

 その音は「トビー、トビー」と言っているように感じられます。

薄らと目を開けると、白い闇は次第に薄まっていき、祭壇の中心だけが強い光を放っています。

その光の輪郭が祖父のものであることは疑いようもありません。

さらに光が薄れ、祖父の姿がより鮮明になり、音もよりはっきりと言葉として聴き取れるようになってくると、どうやら祖父が僕に話しかけていたことが分かったのです。

祖父は精霊界にある身体を、なんとかこちらの世界に調和させようとしていたようです。

 「まだ出力の調整がうまくいかないのだよ」と祖父は言いました。

それは膨大な神気に満ちた世界で、こちらの世界に顕現するにはその量をスプーン一杯程度に抑えなければならないのだそうです。

もし調整にしくじってしまうと、神気の奔流が巨大な暴風雨のようにこちらの世界を蹂躙してしまうかも知れません。

それで今は、こちらの世界で体内に蓄積した百五十年分の神気だけを使って調整を試みているのだそうです。

 それでも昇格したての祖父の力では、出力を絞りきれずに身体の輪郭から神気が溢れ出してしまい、以前のような実体を得るまでには到らないとの事です。

元の身体を再構成するにはしばらく時間が掛かるらしいのです。

その間、神気が漏れっぱなしになるようで、そうするといかに適性のある灰猫でも身体に悪影響があるかも知れず、ましてやまだ年若い僕にはどんな影響を及ぼすか見当も付かないというのです。

それで祖父は僕に、その間修行の旅に出てはどうかと言いました。

 山暮らしの灰猫といえど、一度は山を下りて人里で暮らすのが通例で、それも修行の一部だと祖父は言いました。

「ラーベンド州にワシュフルという人が住んでいる。ガストルがまだ珍しい頃に女神のヴェールを抜けてきた人だ。この百年近くの間に、様々な経験を積んで本を著し、女王陛下からサ・レの称号を戴いた人物だ。その人の下で修行を積みなさい」

それだけを言い残すと祖父の姿は薄れていき、僕は急激に体力が奪われたように身体から力が抜け、祭壇の前に突っ伏してしまったのです。

 気がつくと辺りはもう朝の光に包まれて、僕はすっかり寝入ってしまっていたようでした。

祖父の姿は勿論ありません。

夢のような一夜の出来事の中で、事実なのは祖父がもういないことだけでした。

それから僕は記憶に残る祖父の言葉に従って、身辺の整理をした後に家を封印して山を下りたのです。

 ラーベンド州は僕たちの暮らすチタ州の遙か北に位置する大きな島で、陸路を行けばどれ程の日数が掛かるのか見当も付きません。ましてや非力な若者の一人旅です。よほどの幸運がなければ無事に着くことは出来ないでしょう。

そこで僕は海路を行くことにしました。船ならば、ある程度は到着日の予想は立つし、同行者もいることから幾分は安全に航海できると思ったのです。

 こうして僕はトーミ街道を上りドーエの港から北前船に乗って、あちこちの港町に立ち寄りながら、半年かかってムランの港に到着しました。

そこからラーベンドの州都ポロの街で先生のお住まいを尋ね、ここファームズヴィルに辿り着いたという訳です。

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