第5話 知識欲
私が先生にお願いしたのは鎖が切れる刃物だった。
侯爵によるとこの鎖は『普通の刃物では切れない』そうだが、言い換えると『普通ではない刃物』では切れるということではないだろうか?
様々な文献で調べて『普通ではない刃物』がこの世界に存在することは確認済みである。例えば、オリハルコンと呼ばれる超希少金属から作られた刃物は、この世に存在する全ての物が切れるという。
オリハルコンでなくとも火山帯から産出されるウルツァイト、ロンズデーライトという金属は非常に強度が高い。名人が鍛造すれば魔法で強化した金属でも簡単に切ることができるそうだ。
私の願いを聞くと先生はすぐに頷いた。
「分かった。多分・・・心当たりがある。もしかしたら時間がかかってしまうかもしれないが、なんとか間に合うようにするよ」
「鎖を切るのに使わせて頂いた後は必ずお返ししますので、入手というかお借りできたら、という感じです・・・すみません。先生に大変なご迷惑をおかけして・・・」
「いや、謝らないでくれ。君に頼ってもらえると嬉しいよ。それに代わりに素晴らしい医学の知識を教えてもらえる。まさに知は力だ。私はとても幸運だよ。」
先生は少年のような表情で大きな笑顔を見せてくれた。
**
先生は知識に対して貪欲だった。いつも熱心にメモをしながら私の話を聞いてくれる。
私が前世のことを告白した後、最初に質問されたのは初めて会った日のことだった。あの日、先生は過呼吸の発作を起こしかけていた。呼吸を落ち着かせることで具合が良くなったのをずっと不思議に思っていたらしい。
「あれも君たちの世界の医学なんだろう?意識が朦朧としていたのに、君に言われた通りにしたら楽になった。どうしてなのか教えてもらえるかい?」
一般に過呼吸と呼ばれる過換気症候群は、血中の二酸化炭素濃度が急激に下がることで起こる。二酸化炭素は悪者扱いされているけれど、人間の体に必要な物質なのである。多すぎても少なすぎてもいけない。バランスが重要だ。専門用語でいうと血液の酸塩基平衡という。
そんな話を、そもそも酸素って何?二酸化炭素って何?っていう根本的なレベルから化学記号を交えて説明したので、気がついたら三時間以上経っていた。先生は目をキラッキラさせながら、嬉しそうにずっとノートに書き込んでいた。
目に見えないガスや気体が人体に影響を及ぼすという考え方は、この世界には存在しないそうだ。先生は革命的だとか呟きながら多くの質問をした。
何故そんな流れになったのか分からないが、生物化学兵器の話から地下鉄サリン事件の話になり、カビキラーと洗剤を混ぜて硫化水素が発生する事故の話になり、更には水分含量の多い薪が不完全燃焼状態になると一酸化炭素が発生し命にかかわる場合がある、という話に発展した。物騒な話でも先生は熱心に聞いてくれて、それが更なる質問に続くので永遠に話が終わりそうになかった。
先生はガリガリと書いていたペンを止めて、大きなため息をつく。
「フィオナ、君は本当に素晴らしい。何故もっと早く言ってくれなかったんだ。君の知識は大きな財産だ。この国の医療に革命をもたらすし、多くの人命が救われることになるだろう」
「そうですか?元の世界では常識的なことだったので・・」
「いや、何という世界だ!私もそこで医学を学んでみたい。常識的というが私には信じられない。君はものすごく努力をして多くの知識を得たに違いない。この世界でも同じだが、君は元の世界でも辛い思いを乗り越えて努力してきたのだと思う。だから、そんなに謙虚で優しいんだ」
顔がボフンっと音がするほど赤くなるのを感じた。頬が熱い。褒められ慣れてないから簡単に舞い上がってしまう。
「そ、そんなことないんです。私はガリ勉なんて言われて、勉強と仕事しか興味がなくて、友達も少ないし、つまらない人間だったんです」
「ガリベンと言うのが何か分からないが、君の努力の証だろう?心から誇りに思うし、尊敬する。私が人生で学んだことは、苦労を知らない人間は傲慢になりがちだということだ。君のように謙虚で優しい人間は、努力しながら多くのことを我慢して飲み込んできたに違いないと思うよ」
「・・・ありがとうございます。う・・嬉しいです」
こんなに自分を肯定されたことは生まれて初めてだ(前世含む)。
「君の前世の名前は何と言うんだい?」
突然聞かれて戸惑った。「平石理央」という名前。もう一生聞くことも聞かれることもないと思っていたのに。
「あの・・理央といいます」
「リオ、いい名前だね。誰かに聞かれるといけないからそう呼ぶことはできないけど、私は一生忘れないよ」
本気で「ホレテマウヤロ―――」と叫びたくなった。
*****
今や先生はウキウキしながら大きなノートを持って現れる。
「今日はどんな話をしてくれるんだい?」
目の輝きが少年と同じだ。前世で五歳の甥っ子に仮面ライダーベルトをプレゼントした時の目と一緒だよ。
「あの・・先生、まるで私の方が先生みたいで・・・」
「そうだよ。私もこれから君を先生と呼ぶべきだね!」
弾んだトーンで返されると私の方が焦る。医学と言っても広い。何の話が良いのだろう?
「あの、どんな話に興味がありますか?」
「私は目に見えない気体というものが体に及ぼす影響にとても興味があるよ。毒ガスという概念はここには存在しない。ここは権力争いの激しい世界だから、毒物で殺された王族や貴族は数多くいる。だから毒物も多くの種類がある。しかし全て液体か個体だ。気体の毒物なんて誰も信じないだろう。一度自分で作ってみたいものだ!」
興奮して物騒なことを叫ぶ先生をちょっと呆れて見つめる。半目になっていたかもしれない。
先生は私の視線を感じて慌てたようだ。
「も、もちろん誰かを害するつもりはないよ。あくまで知的好奇心というか。実験してみたいというか・・・その・・・嫌いになったかい・・?」
それはずるいです。先生。
「嫌いになんてなる訳ないじゃないですか。ただ、あまりに物騒なものに興奮されているからさすがに呆れました」
「いや当然だ。すまない。新しいことを知りたいという欲が止まらなくてね・・・。いい年なのに情けない」
恥ずかしそうに頭を掻く先生。ダメだ。胸キュンってこういうの?
「この世界にも塩はありますよね?電気分解できる装置さえあれば、次亜塩素酸ナトリウムを作れるかもしれません。それを酢と混ぜると硫化水素は作れます。絶対に作らないと約束してくれたら教えます」
えっ!と目を輝かせるイケオジ。
「もちろん、作り方を教えてもらえるだけでも嬉しいよ。約束する。絶対に作らない!」
『ホントか?』
疑いの目を向ける私に、捨てられた子犬の目で懇願する。この目をされると断れない。ずるい。
先生が誰かを害することはないだろうけど、自分を実験台にして死んでしまいそうな不安がある。根っからの研究者気質なんだろうなぁ。でも、電気分解できる装置がこの世界にはないので結局無理そうだって、ちょっと肩を落としていた。カッコいいのに残念感が漂うイケオジ。ダメだ、ますますタイプだ。
ちょっとした人体の構造の話でも喜んでくれるので、つい調子に乗ってペラペラと喋ってしまう。元カレだったらうんざりしてそうだな。私は空気が読めなくて自分の関心があることばかり話してしまい、後で死ぬほど反省するタイプだった。
暗い前世を思い出してちょっと痛い気持ちになったけど、先生は満面の笑顔で話し続ける。
「君がこの間教えてくれた人体の嚥下の仕組みも素晴らしかった。食べ物を飲み込む時は喉頭蓋という組織が気管に蓋をして、気道に食べ物が入らないようにしているなんて人間の体はなんと賢くできているのだろうと感動するよ!」
「私もそう思います!人間の体ってすごいですよね!」
先生の熱気に当てられて私もちょっと興奮してしまった。共感してもらえるって嬉しいことなんだな。
先生はいつも私の欲しい言葉をくれる。
私の話を聞いてくれる。
そして、私が望むことを叶えようとしてくれる。
先生は私が囚われていることで自分を責めるけど、先生の存在がどれほど支えになってくれているか計り知れない。
ここから絶対に逃げ出すと決意しているけれど、逃げ出した後はもう先生と一緒に過ごせなくなるのかと思うと、胸が重く苦しくなる。
私は先生のことが好きなんだ。
十一歳の子供なんて相手にされないのは分かっている。いくら中身がアラフィフでも先生は私を恋愛対象としては見ないだろう。
何もしてないのに失恋した気分になる。
切なくて、私は大きく溜息をついた。
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