第23話 幕間3:ユリシーズ・ヴェスタ
「……どうして」
俺――僕が掠れた声でそう言った時、彼女は僕を見下ろして上機嫌な笑みを浮かべていた。
深夜、暗い自分の部屋で目覚めた時、何故か身体が動かなかった。手の指先や足の爪先まで、奇妙な痺れが走っている。喉がからからに乾いて痛いくらいだった。
「どうしてだと思いますか?」
彼女――シェリー・ソーンダースは僕の家庭教師だ。貴族としてのマナー、歴史や言語学習、さらに基本的な魔法を教えるためにヴェスタ家にやってきた、子爵家の令嬢。僕はその時は知らなかったし、違和感を覚えたこともなかったが、家庭教師とやってくるには若すぎた。二十二歳で未婚。一般的に、既婚者で人生経験の多い女性が家庭教師となることが多いようだが、彼女の場合は別の理由があった。
そう知った時、僕は命の危険にさらされていた。
彼女は魔法を使い、僕を侯爵家の寝室から運び出している。身体が動かないから魔法で対抗できないかと体内の魔力を操ったが、魔法を使おうとするとその魔力がどこかに逃げてしまう。
どうして……と顔を歪ませると、シェリーがくすくすと笑った。
「魔力を封じる薬があるんですよ」
彼女は魔法学園を優秀な成績で卒業したようで、魔法の腕だけではなく魔法薬に関する知識もかなりのものだった。だから父もそんな彼女を家庭教師に雇ったと信じて疑わなかった。
しかし。
「あなたの存在が邪魔なんです。あなたが生きている限り、侯爵様はわたしを受け入れられない。もちろん、あの女も何とかしなくてはいけないのだけど」
あの女。
それが僕の母親のことを指していることは間違いない。母は身体が弱く、一日のほとんどを寝室で過ごしている。
「あなたたちが死ねば、侯爵様はわたしのものになる。彼が愛しているのはわたしなの。彼は何度も何度もそう言ってくれた。あの女とは政略結婚で、跡取りを産ませるだけの存在だったと。あなたが生まれたから、あの女は役目を終えたと。でも、でも」
シェリーはどこか夢でも見ているかのような表情で辺りを見回す。
僕の身体は宙に浮いたままで、彼女の魔法によってここ――暗闇に覆われた森の中に連れてこられている。遠くから響く獣の鳴き声、風に揺れる木の葉の音。近くに川があるのか、水の流れる音も聞こえた。
「わたしの恋を叶えるためには、あなたたちが邪魔。邪魔。邪魔」
彼女の右手の上には魔法で作られた炎が揺れていて、シェリーの頬と瞳を恐ろし気に染め上げている。
これまで、僕に対して優しく、質問すれば何でも正しい答えを与えてくれた彼女。しかし、今の彼女は単なる狂人にしか見えなかった。ぎらぎら光る双眸、ナイフのように弧を描く唇。しかし、彼女の顔立ちは二十二歳という年齢にしては幼く、可愛らしい。そして、いつも知的な――貴族女性としての物腰しか見せていなかったというのに、どんどん口調も幼く変わっていく。だからこそ怖かった。目の前にいるシェリーは、本当にシェリーなのか。
「ここには魔物が出るの。あなたを放置すれば、きっとあなたはすぐに食べられてしまう。大丈夫、きっと痛いのは一瞬だから。魔物は凄く大きくて、凶暴で、人間を頭から一口で食べてしまうんだって。だから死体も残らないわね。抵抗しなければ一瞬だわ」
彼女は笑いながら僕を地面に下ろし、にいっと笑って見下ろしてくる。
炎が揺らめき、彼女の醜悪な笑みが浮かび上がった様は――。
「死体さえなければ、わたしがやったことも誰も知らないまま。大丈夫、大丈夫。あの人が悲しんだとしても、わたしが慰めてあげられる。だって、だって」
そこで、シェリーはシンプルなドレスに身を包んだ自分の身体を見下ろした。外套に包まれた細身の身体。でも、彼女は嬉しそうに自分の下腹部を撫でていた。
「あの人の子供は、わたしが産むの。きっと、男の子だわ。ううん、男の子を産まなきゃいけないの。ふふ」
ああ、魔物は目の前にいる。
そう思って、凄まじい恐怖に身体が震えた。逃げなきゃ。帰りたい。屋敷へ。いや、どこでもいい、ここじゃなければ。
「では、ごきげんよう」
彼女は最後に狂ったような笑い声を上げ、その場から消える。僕は来週、七歳の誕生日を迎えるはずだった。誕生会は大々的にやらなくてはな、と父が言っていた。侯爵家の跡取りの正式なお披露目なんだとか。
でも、僕は死ぬのか。
こんな、誰も来ないような森の奥で?
遠くから、獣の――魔物の咆哮が響いた。そして身動きが取れないまま、長いような短いような時間が過ぎる。真っ暗な空だけが目の前に広がっていて、雲が流れると星が見える。僅かに欠けた真っ白な月も。
そして、唐突に目の前に巨大な影が落ちた。
僕の身体の何十倍もありそうな、しなやかな巨躯を操る魔物。姿だけは猫を巨大化させたようだった。しかし炎のように輝く双眸、長く伸びた牙、前足にも凶器としか呼べない鉤爪。魔力が身体から噴き出しているようで、辺りの木々すらも呼応して震えていた。
そして何より、その魔物は手負いのようだった。
喉元から流れ出る血と、苛立ったように地面を叩く前足。その血は僕の身体にも降り注ぎ、厭な匂いが辺りに漂う。
身動きが取れない僕を見下ろしたその魔物は、腹を空かせていたのかもしれない。僕を食べて体力を回復させたかったのかも。
死にたくない。このまま何もできずに死ぬなんて厭だ。
長い舌を出しながら大きく口を開いた魔物を見て、僕は必死に魔法の呪文を詠唱した。
魔力が足りない。
それでも、何とか限られた魔力をかき集めて放った攻撃魔法。まるで生命力を削り取るかのような、魔力が体内から引き剥がされていく感覚。
目の前で凄まじい爆音が響き渡り、僕の攻撃が当たったことを感じながら、意識が遠ざかっていく。
そこからは、断片的にしか覚えていない。
後で知ったが、僕が屋敷から何者かに誘拐されたとすぐに父が気づくことになったらしい。何しろ、侯爵家の跡取りとなるはずの僕という存在は、父にとって重要だった。だから、警備のためにいくつかの魔法が仕掛けられていた。他人には気づかれないように、かなり巧妙に。
だから、父は深夜だというのに色々な手を使って僕の足取りを追った。
その中の手段の一つがギルドの活用だ。
この国には色々なギルドが存在する。
冒険者や魔物狩りが得意な人間が集まる戦闘ギルド、商業ギルド、魔法薬や医療に
特化したギルド、さまざまだ。その中の一つ、腕利きの冒険者たちが集まるギルドに依頼した結果、僕の命はすんでのところで助けられた。
僕の魔法は巨大な手負いの魔物をぎりぎり倒せたらしい。しかし、その血の匂いに惹かれて別の魔物たちが集まり始めていた。それを制圧したのが戦闘ギルドのメンバーたちだった。
「治療班!」
誰かがそう叫んでいるのが聞こえたが、最初は僕も目を開けることができなかった。でも、気が付いたら誰かの温かな手が僕の胸元に置かれ、呪文の詠唱が行われていた。
「呪いか」
「可哀そうにな」
「何だっけ、何とか侯爵」
「ヴェスタ侯爵だってよ。ほら、王宮魔法騎士団だか何だかの重鎮。そこの一人息子」
「何はともあれ、助かってよかったじゃん。こりゃ、謝礼が期待できんだろ」
男性たちの声が頭上で響いている。
僕が目を開いた時、ちょうど遠くからざわざわという大勢の声が聞こえてきたところだった。
「息子がここにいると聞いたのだが」
それが父の声だと気づくと安堵のあまり泣きたくなったものの、声が出せない。指一本すら動かせない。それでも、何とか目を開ける。
大勢の人間たちが僕を取り囲んでいる。
父が――ヴェスタ侯爵は数人の男たちを従えて立っていたが、その表情は厳しく、顔色も青白く見えた。それは月明かりが見せた顔色だったのかもしれない。背が高く、整った横顔。女性に好かれそうな顔立ちだが、今は人形じみて見える。
僕はその時、地面に寝かされていた。
近くにいた見知らぬ男たち――武装したギルドの人間が僕を守るようにしゃがんでいた。その中の一人、暗い茶色の髪の毛を持つ男が僕の肩に手を置いている。
「こんな化け物が私の息子だと……?」
父は僕を見下ろした瞬間、怒りに肩を震わせて近くにいた人間に視線を向けた。その視線の先にいたのは、幾度か見たことのある、王宮魔法騎士団の男性。父と同年代だと思われる彼は痛ましげな視線を僕に投げた後、そっと首を横に振った。
「シェリー・ソーンダースは拘束しました。話しますか?」
「ああ」
――父、上。
僕は必死に父を呼ぼうとした。でも、それきり父の視線がこちらに向くことはない。
騎士団の男性らしき人間が、魔法によって拘束されたシェリーを引きずるように連れてくる。青白く輝く魔法言語でぐるぐる巻きにされた彼女は、誰かに殴られたのか頬が腫れあがっていたし、髪の毛も乱れていた。
恐怖に震えている彼女の姿は、何も知らない人間が見たら痛ましいと感じただろう。だが、誰も彼女に同情といった感情を向けることなない。
彼女は父の姿を見た瞬間、ぱっと喜色の色を浮かべて微笑んだ。
「侯爵様! これは何かの間違いです! わたしは何も!」
「正直に言いなさい」
いつもは穏やかに微笑むことの多い父だが、この時ばかりは怒りに身を任せているようだった。秀麗な顔立ちだと言える人間が静かに怒ると、それだけで恐ろしい。
「待って、わたしは! 何も悪いことなんて! それに、わたしは侯爵様のために!」
唇を震わせながら何か言おうとする彼女を遮って、父は深いため息をついた。
「残念だ。優秀な家庭教師だったのだがな。何が目的か吐かせてから処分しよう」
父が冷徹な口調でそう言って、騎士団の男に何か命令した。それに頷いた男が、シェリーの腕を掴んで引きずろうとした瞬間、彼女は叫んだ。
「やめて、触らないで! わたしのお腹には赤ちゃんがいるの! 侯爵様の子よ!?」
時間が止まるとはこのことだっただろう。
父が眉間に皺を寄せてシェリーを見つめ、他の男たちも同様に顔を向ける。その空気を壊したのは、ギルドの人間だった。
「何だ、痴情のもつれってやつか」
呆れたように言ったのは、僕の肩に手を置いている茶髪の男だった。
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