試合

一瞬、キョロキョロと自分の周囲を見回してしまった。


俺の右には山下、左には誰もおらず、後ろには入ってきた扉があるだけだった。


自分を指差し、江川に問いかけた。


「もしかして、俺のことか……?二股クズ野郎というのは……? 」


「あんたに決まってんだろ! 」


……ひらきか?ひらきといるせいなのか?いや、でも、二股ってなんだ?


右を振り返る。山下……のこと?


山下と目があった。山下は少し困った顔をした後、意を決したようにフォローをしてくれた。


「もしかして二股って、ひらきちゃんと……わ、私のことかな?」


「そうです。山下先輩、目を覚ましてください。こいつは……藤井は最低のクズ野郎です! 」


やっぱりそうなのか。どちらとも付き合ってないのに……。


「江川くん落ち着いて、私は藤井くんとは付き合ってないよ。それに、ひらきちゃんも藤井くんと付き合ってないし、誤解だよ」


これで江川も冷静になるだろう。


しかし、……こいつ、ひらきの事が好きなのか?


ひらきと一緒にいると、やっぱり目立つんだな。気をつけないと……。


「ひらき先輩と藤井は付き合っていない……?」


「そうだよ。だから落ち着いて」


山下が子供をあやす様に優しく伝える。



「付き合ってないなら、何で二人は朝っぱらから通学路で抱き合ってたんすか!? 」



涙目で訴える江川の主張を聞いて、ゴクリと唾を飲み込んだ。


全身の体温がすっと下がっていくような気がした。


恐る恐る右に首を向けた。


山下の顔は能面みたいに無表情だった。


「ねぇ悟くん、抱き合ってたってどういう事?」


「こ、これには訳があって……」


咄嗟に出た言葉が浮気男の言い訳みたいで絶望する。


「ここでする話じゃないね。後で詳しく聞かせて」


「はい……」


山下が作り物みたいな笑顔をしている。今日はこの顔を何度も見ている気がする。


「ところで悟くん、最近、身体が鈍ってるんじゃない? 」


「えっ……、いやどうかな……」


「少し、江川くんに揉んでもらったらどうかな?情報提供は勝負が交換条件みたいだし」


問答無用。そんな感じの感触だ。


「はい……」


「江川くん、藤井くんが勝負してくれるって。手加減したら駄目だよ」


山下が江川の方に首を傾ける。


「う、うす……」


江川も怯えていた。むしろ一歩後ずさっていた。


山下が中上に声をかけ、柔道着を貸してもらい、試合の段取りをする。


何故か中上先生も、山下の提案に素直に従う。キビキビと段取りを済ませ、自ら主審役を買って出る始末だ。


仕方なくウォームアップを始める。


暫くすると、中上が興味深そうに俺に話しかけてきた。


「藤井、陽芽中の時は1年間だけ、柔道部に在席してたんだってな」


「はぁ、まあ……」


「陽芽中の内弁慶だっけ?あれ、お前のことだったんだな」


これは俺に付けられた不名誉な二つ名だ。


部活や練習試合ではほぼ負けなし。だが、公式戦になると当日具合が悪くなって一度も勝ったことがない。


それで付けられた二つ名が『陽芽中の内弁慶』なのだ。


人混みが多くなるにつれてシナスタジアの影響が大きくなり、調子が悪くなるのだ。


山下が手招きしているのに気づき、近寄る。


山下が耳元に顔を近づけてつぶやいた。


「負けたらいろいろ許さないから」


山下はさらっと恐ろしいことを言う。負けるわけに行かなくなった。


「勝ったら許してくれるのか?」


「それも悟くん次第だよ」


これは、勝っても負けても厳しい展開になりそうだ。


背筋を伸ばして、へそのちょっと下くらいに力を込める。俺が腹をくくるときの儀式みたいなものだ。


必ず、勝って言い訳をする。


内容は情けないがこれが俺なりの覚悟だ。


中上のいる場所まで、確かな足取りで進んだ。


白線で示された開始位置に立った。俺に向かい合う、江川も気合十分といった感じだ。


お互いに礼をする。


それを合図に主審の中上が右手をあげる。


「はじめ! 」


開始早々に江川が突っ込んでくる。江川の左手が襟に向かって伸びてきた。これを右手で捌く。


弾かれた左手ですぐに道着の裾を掴まれる。反対側の裾も掴まれた。


凄い力だ。体格が違いすぎる。


柔よく剛を制すなんて言葉があるが、結局のところ、身体が大きい方が強いのは世の理だ。


無理矢理、左横に身体を移動させられる。


左足を狙っている感触が伝わってくる。送り足払いか。


だが、ワンテンポ遅い。


俺は相手の右足の払いを躱し、右手で相手の奥襟を掴む。


左手で江川の右手を引き、身をよじる。そのまま、背負投げの体制に切り替える。


……が、タイミングが悪く江川が堪える。江川は耐えきったのを見計らって俺の腰を両手で抱える。


裏投げか……!


裏投げはプロレスで言うところのバックドロップに似ているとよく言われる。


が、実際は別物だ。


裏投げを仕掛けられたのは人生で2回目だ。カウンター狙いの玄人向けの技であまり使っている人間を見かけない。


故に抱え方が甘い。


上半身を捻り、裏投げから辛うじて逃げる。背面ではなく、前面から畳に叩きつけられる。


寝技に持ち込まれる前に身を翻し、立ち上がる。


「効果!」


中上が手をあげる。


効果の判定に江川は不満そうな顔をする。


江川の動きは粗いし、力まかせなところはあるが、技の流れは適切だ。


やっぱり強い。


アドレナリンが出ていた為か、肩で息をしている自分に今更気がついた。たった数十秒動いただけなのに息が少し苦しい。


「ちょこまかと逃げやがって……腰抜けめ。正面からぶつかって来い! 」


江川が挑発してくる。公式戦なら「指導」をもらっても文句を言えない暴言だ。


連日の事件で俺は苛立っていた。


黒い感情がじわじわと心を蝕んで行く。


裏投げなんて、危険な技を使うような奴だ。俺が怪我する事を何とも思っていないのだろう。


丁度いい、俺の憂さ晴らしにこいつを……。



『その怒りは……その色は破滅の色だ』



ひらきの言葉がフラッシュバックする。はっとして、我にかえると自分の呼吸の音だけが聞こえた。



静かだ。



そうだ、江川は俺の敵ではない。


落ち着け、落ち着け。


ふうっと息を吐く。


俺の体力じゃ、もって後1分だ。それまでに決着をつける。

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