口ずさみ沈みゆく
「――ベラ」
すぐさま私は部屋を飛び出した。制服のスカートが翻る。転がるように寮を飛び出し、すでに暗くなってしまった世界へ走り出す。
流れた涙一粒が、夜風にさらわれて消えていった。
会えないのでは、間に合わないのでは――一瞬の恐ろしいほどの不安の後、小川のせせらぎが聞こえてくる。橋が見えてきた。
「ベラ……!」
ベラはまだそこにいた。橋の上、小川を眺めている。声をかければ、こちらへ向き直ってくれた。瞳にしっかり、私を映してくれる。
ベラは頭に、大きな冠を被っていた。
黄色の大輪。細い花弁がいくつもある、眩しいほどの花。風が吹けば、ベラの髪と共にその花は揺れる。
ベラは開花していた。
「……ルビー、私の名前を呼んでくれたの、久しぶりね……そんな顔をしないでよ」
私を認め、ベラはその一瞬、悲しげに顔をくしゃりと歪めた。
「だって……ベラ、咲いちゃったんだもの……」
嬉しいことのはずだった。しかし胸が苦しくなってしまったのだ。
「ベラ……花に、なるのね。行っちゃうのね……」
間に合わなかった。
やっと話そうと思ったのに。やっと祝福できると思ったのに。ケーキだって、一緒に作りたいと思ったのに。
――けれども、その、美しさ。
まさにあの花畑の花のような、鮮やかさ。
嗚咽を飲み込むものの、私は涙を止められなかった。
「――ベラ……すごく、すごく綺麗よ……本当に……」
いまは、彼女がもっとも輝いている、その瞬間だった。
幻のように美しいものの、私が手を伸ばせば、優しい温もりを持った手が握ってくれた。まだここにいる。そのことに微笑めば、ベラも微笑む。
「でしょう? ねえ、見て」
ベラは川へ視線を向ける。まどろみを覚えさせるような水面には、まだ咲かない赤い蕾を持つ私と、祝福に輝いているかのような花を持つベラの姿があった。
街灯の灯り、星や月の光が、波に揺られて輝く。まるで水中に沈んでいるかのようで、映る私達も、柔らかな流れの中に浮いているように思えた。
「小川に映る自分をね、見ていたの」
星空の中に、私達は漂っている。二人きりの世界だった。それが嬉しくて、そして息を呑むほどに美しくて、私はベラの手を強く握った。
「あのね、ルビー……話を、聞いてくれる?」
不意にベラが尋ねてくる。
「もちろんよ、ベラ。どうして改まって聞くの」
一体何を言っているのだろうかと、私はちょっと怒り気味に言ってしまった。すると、
「だってルビー、最近お話してくれなかったんだもの」
「それは……」
そう言われてしまうと、私は何も返せなくなる。何も返せなくなるけれども。
「……私、ベラと一緒に咲きたかったのに、ベラは先に一人で咲こうとしてたんだもの。それに、私、ベラがいなくなるのすごく寂しいと思っているのに、ベラは開花のことばっかりで……私のことは、どうでもいいみたいで――」
そこまで言って、私は息を呑む。
ベラの頬を涙が伝っていた。水面に落ちれば、映る二人の姿が歪んで薄れた。
「どうでもよくないわよ……だって本当は……あなたとお別れになるんだと思うと、開花するの、嫌だったんだもの」
そんなことは、一言も聞いたことがなかった。
ただベラは開花に憧れていて、迷っているような様子もなかったのだ。
だから私は思ったのだ。ベラは私のことは、どうでもいいのだと。
一緒に咲きたいと思っていたのは、自分だけだと。
「本当は――ルビーと一緒に咲きたかったの。私だって、そう思っていたの。一人で花畑に行くのは、寂しいから……」
ベラは視線を落としてしまう。しかし手を伸ばせば、自らの咲き誇る花に触れた。
「だから……咲いてほしくないって、ずっと思っていたの」
「でもベラ、ベラは一度も、そんなこと……」
「『咲きたくない』なんて言ったら、あなたに怒られるような気がしたの……私達は、あの花畑の花になることを、願ったでしょう」
ああ。
ベラも、私と同じだ。
同じ夢を見たからこそ『咲いてほしい』と言えなかった。
同じ夢を見たからこそ『咲きたくない』と言えなかった。
「そんなことを言ったら……がっかりさせてしまうんじゃないかと、思って」
だからベラは、開花を望んだのだ。正しくは、開花を望んでいるように見せた。
私も、最初は開花を望んでいるように見せた。けれど、先に崩壊した――。
「それなら」
私の声は上ずっていた。
「それならどうして、私が寂しいって言ったときに、同じように言ってくれなかったの? それなら――」
言って思い出す。その後、どうした?
私は彼女を避けてしまった。
「ごめんなさい」
私はボロボロ泣きだしていた。
「ごめんなさい、ベラ」
「謝るのは私の方よ、ルビー。私……あなたのことを、勘違いしちゃってたみたいだから。あなたはきっと、私の開花を望んでいるって。それから……あの後、私のことを嫌いになっちゃったんだって」
そこまで言って、ベラはもじもじと、恥ずかしそうに。
「ルビー……私のこと、嫌いじゃないわよね? 嫌いになったから……お喋りしてくれなくなっちゃったんだと、思ったんだけど」
「嫌いなんかじゃ、ないわよ!」
甘い花の香りが漂う夜の中に、私の声は響いた。
「――大好きよ、ベラ。大好きだから……寂しく思って、憎くなって、咲かないでって思ったこともあって」
改めて見上げれば、その黄色の美しさが目に入る。
ベラによく似合う、黄色。
「……ベラはいま、とっても綺麗よ」
見合えば、私は声を震わせて笑顔を作った。ベラも笑う。
「本当?」
「本当よ……私も、ベラみたいになりたい。ベラみたいに、咲きたい……!」
「でも私、本当はまだ咲きたくなかった。本当は――もっとルビーと一緒にいたかった……!」
優しい抱擁に包まれる。香水にも似た花の香りがした。
ベラの匂い。ベラの花の香り。抱擁は少し痛いほどだった。
「私だって」
痛いほどの抱擁を、彼女に返す。
ずっとこのままがいいと思った。
ところが、やがてベラの腕が離れる。それでも白い指が私の涙を拭ってくれた。
「ベラ……私も、私も花が咲いたのなら、あの花畑に行くわ」
その手を、私は握る。私の手は少し震えていて、ベラはまるでその震えを押さえ込むかのように、ぎゅっと握り返してくれた。
私は続ける。
お別れは嫌だった。避けられないことだった。
でも、気付いたことがあるから。
――私達は、ここでおしまいではないということ。
「いまはお別れしなくちゃいけないけど、寂しい思いをしなくちゃいけないけど、私達は、きっと、あの花畑でまた会える」
だって私達は『花憑き』だ。
頭に蕾を持ち、開花したのなら花になる少女だ。
「だから……待ってて、あの花畑で。しばらく寂しい思いをさせちゃうけど……待っててほしいの」
「それじゃあ……それじゃあ、寂しくても、我慢できるわ。あなたが咲くのを、楽しみにして、待ってるから」
ベラがにこりと笑う。その笑顔に涙が伝って流れた。
「ルビーも、きっと綺麗に咲けるわ……あなたの開花が見られないのが残念ね」
きっと綺麗なのに、と、彼女は目を細める。するとまた涙が零れるのだ。
「ベラ……」
私は指でベラの涙をすくうように拭う。涙はとても、温かい。
ベラはきょとんとする。私がこういうことをするのは、初めてだった。
私はベラを抱きしめて、額と額を触れさせた。泣きながら抱きしめた。
お別れの挨拶のつもりだった。
しばらくの間の、お別れの。
「ねえ、ルビー、ルビー。あなたが咲いたのなら……私の隣に来て」
「もちろんよ……!」
ベラの両手は、まだ離さない。このままでいたかった。
「私、ベラの隣に行きたいわ! だから……だから待ってて! それなら、ベラとお別れした後、寂しくても、頑張れるから……!」
どこか泣き出しそうな顔だったものの、ベラの表情は、その言葉に輝いた。
そして最期に、彼女は願うかのように囁いた。
「ルビーがそう言ってくれるのなら、私も、一人でも待てるわ……それじゃあ、待ってるわ。ちゃんと来てね、約束よ――」
小川のせせらぎに、さらわれそうなほどの声だった。強い風が吹いて、私達のスカートを、髪を、花を揺らした。
私の蕾はほころばない。ベラの花弁はちぎれることがない。
――両手で握っていた温もりが、急に冷えた。肌に触れているという感覚がなくなり、まるで崩れるかのようにベラの手が形を失っていく。
砂糖菓子のようだった。刹那の後、愛した人の姿がさらりと崩れ、地面に落ちた。
水面に映っていた姿は、まるで沈んでしまったかのように消えて、残されたのは夜の漆黒だけだった。
花が咲いた時、『花憑き』は死を迎える。
いま、私の目の前に落ちていたのは、ベラの着ていた服と、ベラだった土塊、そして未だに輝き続けている彼女の黄色の花だけだった。
……ゆっくりと、座り込む。涙が花に落ちれば、花はまるで慰めるかのように揺れる。
――人々の声がする。
誰かが声を上げていた。開花したぞ、と、声が響く。集まりゆく足音。悲壮の声。
それでも私は、ベラを見つめていた。
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