第3話

 彼女の言葉がすんなりと飲み込めなかった。一体何を言っているのだろう、と考えたのが表情にも出ていたと思う。けれど彼女はにまにまと、いたずらが成功した子供のように笑っている。


 確かに彼女の声はReLiに似ている。それにReLiは配信をしたりしないから、話す声を聞いたことがなくて、はっきり違うと言いきれない。もしかして、とそんなまさか、が脳内をぐるぐるしている。


 私が頭を悩ませているのを楽しそうに見ていた彼女が手元にスマホを引き寄せて、私に画面を見せてきた。



「これで、信じてもらえる?」



 そこに映っていたのは、ReLiのSNSのプロフィールページだった。本人のアカウントでしか表示されない、編集のマークがついている。紛れもなく、彼女自身のアカウントだった。



「え、え、嘘。ほんとに……?」



 信じられない事態に、私の心臓がばくばくと音を立てている。まさか、目の前の彼女がReLiだなんて。ReLiが、私の目の前にいるなんて。


 ReLiはうろたえる私を見ながら笑っている。たまたま自分の好きなアーティストを知っている人を見つけただけのはずが、どうしてこんなことになったのだろう。



「れ、ReLiなの、本当に?」



「本当だってば。まだ信じられない? ここで歌おうか?」



 そんなことをされては完全にキャパオーバーになってしまう。やめてくださいと制すると、ReLiはますます楽しそうに笑った。



「でも、まさか、実際にReLiに会えるなんて。ていうかこんな身近にいたのがもっと信じられない。推しと同じ大学とか、そんなことある?」



 彼女を目の前にして言うことではないかもしれないけれど、彼女にしか伝えられないのだ。ていうか、本人を目の前にしてさっき散々恥ずかしいことを語ってしまった気がする。



「てか、さっきのどんな気持ちで聞いてたの……?」



「嬉しかったよ。まさか初投稿のころから知ってるとは思わなかったけど」



 ちょっと恥ずかしい、とReLiは照れたように笑う。こっちはその何十倍も恥ずかしかったのだけれど。



「ReLiに直接話してるってわかってたら、もっと、なんか、ちゃんとしたのに……」



 恥ずかしさが限界に達して、私は顔を覆った。手のひらにあたる頬が熱い。



「凛」



 ReLiの急な言葉に、私は顔を上げた。



「私の名前、阿藤凛。リアルでReLiって呼ばれんの、ちょっとはずいから」



 まさか、好きなアーティストの素顔どころか本名まで知ってしまうなんて。聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして、私は思わずフリーズした。同じ大学に通っている同級生の名前を聞くのは当たり前なはずなのに、身バレという言葉が頭をよぎる。


 いや、身バレをしたのはReLiの方だし、そもそもオタクにそんなことを簡単に教えていいのだろうか。ネットでばらされるとか、そういうことを考えたりしないのだろうか。


 ReLi、いや、凛は、そんなことを気にしている様子はさらさらなかった。こちらの心配をよそに、ファンに会えて嬉しい、なんて笑っている。



「ね、そっちの名前も教えてよ」



 凛の言葉で、興奮していた気持ちがすっと冷えた。私の名前を聞かれるのは当然のことだろう。むしろ、凛の名前を聞いた時にこっちから返すべきだった。でも、私はできれば、自分の名前を言いたくなかった。



「……いずみ」



「いずみ?」



「和泉、だいや」



 自分の名前を口にするたび、この名前にしようと決めた両親を恨む。小学生にあがったあたりから、自己紹介の時間が苦痛だった。



「だいやっていうの? いずみって呼ばれてたから、そっちが名前なんだと思ってた」



「恥ずかしいから、いずみって呼んでもらってるの。凛もいずみって呼んで」



「なんで? 可愛いじゃん、だいや」



 大嫌いな自分の名前が、彼女の声で呼ばれると、なんだか脳の中心を揺さぶられるような感じがした。この名前は恥ずかしいのに、その声で言われると甘美な響きがある。もっとはやく、凛に名前を呼んでもらいたかった。


 けれど毎回だいやと呼ばれるのは耐えられない気がして、やっぱりやめてと言おうとしたとき、前方の扉から講師が入ってきて会話は中断された。


 凛は頬杖をついて、眠たそうに講義を聴いている。私は落ち着かなくて、何も耳に入ってこなかった。時折彼女の方に視線を向けると目が合ってしまって、どきりと心臓がはねる。


 ReLiが、隣にいる。何度考えても信じがたい事実を、頭の中で何度も反芻した。

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