虎命会話(こめいかいわ)

バークシー

本文

    0

 君達に誰かを好きになる資格なんてない。



    1

「ヒャッハー! こいつ、ジャガイモなんか持ってやがるぜぇ!」

「こっちはニンジンだ! さては今日の晩ごはんはカレーだなぁ!?」

「ママの負担を減らすためにおつかいなんかしやがって! 見上げたやつだ!」

「やめて! かえしてよぉ!」

 ボクはその日、がっこうからかえるとおかあさんにかいものをたのまれた。

 スーパーでいわれたものをかって、ちかみちしようとこうえんの中をとおっていたら、ボクよりおおきいこわそうなおとこの子たちにつかまってしまった。

 そのうちのひとりがスーパーのふくろからたまねぎを見つけて、みぎてでたかくもちあげながらせんげんする。

「へへへ、コイツをとことんいてやるぜー! どこまで小さくなるか確かめてやる!」

「やだよぅ……かえしてよぅ……!」

「やめなさい、君達」

 そのとき、だれかがボクたちにちかづいてきた。

 みんながそっちをむく。

 そこにはひとりのおとこの子がいた。

 みじかくしたくろいかみの上にぼうしをかぶっている。

 くろいシャツをきて、下にはあお色のながいズボン。

 そのおとこの子はゆっくりとこっちにあるいてくる。

「なんだぁ? おまえ?」

「邪魔すんなよな、今いいところなんだからさぁ」

「関係ねえやつは首を洗って引っ込んでな!」

「確かに。確かに私には関係がない。君たちに関係ないと言われればその通りと肯定するしかない。まさにその通りと首肯しゅこうするしか方法がない。私はその女の子とは初対面だし、名前も住所も家族構成も好きな食べ物から苦手な科目まで一切合切何も知らない。まさに赤の他人だ。でもね、それでもね、そうであってもね、私は君達のような人間を見るとイライラするんだよ。君達のような意味のない攻撃性をき散らしているだけの人間を見るのが我慢出来ないんだ。いや、存在そのものを許せないと言った方がより正確かな。例えこれが同族嫌悪の産物でしかないとしてもだ。私の手でその遺伝情報を一片残らず地上からデリートしてしまいたい。……おや、おやおや、何をそんなにほうけた顔をしているのかな? わかりにくかったかい? この程度の言葉を理解することもままならないほどに頭の出来が悪いのかな? それならば仕方ない。もっと簡潔かんけつに表現してあげよう。つまりわかりやすく言うと私は君達に喧嘩けんかを吹っかけているんだよ」

 けんかということばをきいて、いじめっ子たちはすばやいうごきでおとこの子をとりかこむ。

「おっ、やんのかコrrrrrrrrr!(巻き舌バグ)」

「上等だオォォン!(CV:ニャンちゅう)」

「かかってこイヤアッフウゥゥ!(突然のマリオ)」

随分ずいぶん威勢いせいがいい。大分だいぶんと威勢がいいな。しかしこれを見ても同じことが言えるかな? これを目にしてもまだ君達は同じ勢いを保っていられるのかな?」

 ヒュンッとかぜをきって、おとこの子はポケットからなにかをとり出した。

 それがなんなのか気づいたいじめっ子たちはぎょっとしてうしろに下がる。

「て、てめぇ、なんだぁ! その物騒ぶっそうなもんはぁ!」

「これはカッターナイフと言ってね、主に紙を切るために作られた文房具だよ。ほら、ここに刃があるだろう? これをこうして……」

 おとこの子はそういいながらカッターのはを出すと、自分のうでにおしつけて、そのままよこにひいていく。

 うでからはあかい血がぷっくりとふくらんで、やがてつーっとながれだした。

「うわあぁぁっ!? 血ぃぃぃ!?」

「びゃああああ!?」

「なにやってんだお前ぇ!?」

「何って、こいつはただのデモンストレーションさ。カッターを人体に使用したらどうなるのかっていうね。ご覧の通りだよ。ご覧の通りいとも容易たやすく皮膚を切り裂くことができる。今から私はこのカッターで君達を切り刻もうと思う」

 チキチキ、とおとをたててカッターを出したりしまったりしながら、おとこの子はいう。

「ちなみに君達の方が人数は多い。それでも君達のうちの少なくとも一人の喉をっ切り絶命に至らしめることは確実にできる。確実にね。私はいつ死んだって構わないと思っている欠陥製品だけれど、それならば可能な限り人間という劣悪種を道連れにする心算しんさんでいる。そう心がけている。さあ、前口上は終わりだ、そろそろ始めよう。会話を始めようじゃないか。前虎後狼ぜんここうろう心労しんろう朦朧もうろう、全てに牙を剥く会話を」

 そういって、いっぽまえにふみ出すおとこの子にむかって、いじめっ子たちが口ぐちにさけんだ。

「やべぇ、コイツ頭がイッちまってるぜ!」

「キ〇ガイだー!」

「ママ怖いよぉー!」

 そしてすごいいきおいでばらばらになってにげ出した。

「全く困った世紀末ボーイズだ……」

 カッターをポケットしまいながら、それにしても、とそのおとこの子はいう。

「子供の喧嘩けんかに刃物を持ち出すのはみっともないことこの上ない」

 手っ取り早くはあるけれどね、とつかれたみたいにつぶやいて、それからボクのほうをむいた。

「君は真似しないほうがいいだろうね。たとえカッターであっても正当な理由なき携帯けいたいは法律違反だ。下手をすれば捕まってしまう。まあ、私が言えたことではないのだけれど」

 ボクはべそをかきながら、おれいよりもさきにしつもんする。

「ぅ……ぐす……な……なんでボクをたすけてくれたの……? ボクなんかたすけてもいいことなんてなにもないよ……? だって……みんなボクのことキライみたいだし……みんなボクのこといじめてくるし……だから……あなたもきっと……ボクのことキライなんでしょ……?」

 それをきいて、そのおとこの子はじっとボクをかんさつするみたいにながめた。

「やはり似ている……まさか同類と出会うことがあるとはね……君も極度に傷つくことを……。……いや、私は君を嫌ってはいないよ。そして私は君がか弱い女の子だから助けたわけじゃないさ。君が困っている女の子だから助けたわけじゃない。正義ぶってやったのでもない。自分のことを正義の味方だと思っての行動では決してない。要するにさっき言った通りだよ、私はああいうやからが気に入らないだけなんだ。しかし、」

 いて言うなら君の雰囲気が私と酷似こくじしていたからだろうね、とおとこの子はひとりごとみたいにつけくわえた。

「……?」

「とはいえ君は怖がらないんだね。いきなり刃物をチラつかせるような相手を微塵みじんも恐れないんだね」

「……よくわかんない……いじわるされたりいやなことがあると、ときどきあたまの中がいっぱいになって……気づいたらなにもかんじなくなってて……」

「……自らが傷つかないために状況を受け入れる、か。状況を受容じゅようしてしまえばそれ以上の苦しみも痛みも感じることはないから、傷つかずに済むというわけだね。しかしまだ不安定だな。上手く使いこなせていない。なるほど……」

 おとこの子はすこしかんがえるみたいにしてから、ゆっくりといった。

「君は身を守るすべを、手に入れたくはないかな?」

「え……?」

「私の名前は虎姿上としうえ 虎心ここころ。小学五年生だ。虎命会話こめいかいわづかいを自称している。最も、これは自称でしかなくて自称以外の何物でもないんだけれどね」

「こめー……かいわ……?」

 はじめてきくことばにくびをかしげるボクを見ながら、おとこの子……トシウエくんはまじめなかおでつづける。

「このどうしようもなく傷を負う必然を所有する世界において、君は力を手に入れるべきだ。世界にあらがう力を。君にはその素質そしつがある」

 ボクのあたまにことばが入っていくのをゆっくりまってから、トシウエくんはいった。

「私のもとで、会話の使い方を学びなさい」


 それがボク……兎姿下としした 一途いちずとししょうとのであいだった。



    2

 冗長じょうちょうな言い回しを多用しろ。

 相手と同じフィールドに立つな。

 自身が傷つかないことを第一義だいいちぎとせよ。

 エトセトラエトセトラ……。

 ボクは師匠から会話の使い方を、会話の始め方を、会話づかいとしての在り方を手取り足取り型通り教えてもらった。

《会話》の使い方が上達するにつれ、ボクは自身の特質である《状況に対して無感覚になる》ことを自分の意志でコントロールできるようになっていった。望んだ時に心を現実から切り離し、身を守ることができるようになっていった。

 自分が傷つかないための技術である会話遣いの《会話》は、いわば筋トレみたいなものなんだろう。《会話》が上達すれば、自然と傷つかないための立ち居振る舞いがわかってくるということなんだろう。

 ところで、会話遣いなんて大層たいそうな呼び方だけれど、別に会話が得意な人という意味じゃない。

 会話遣いは総称そうしょうであって、正式には〇〇会話遣いという。師匠だったら虎命こめい会話遣い。虎命会話を使う人だ。会話じゃなくて《虎命会話》が得意な人。

 それは言わば個性だ。

 だからボクには師匠の虎命会話を使うことはできない。師匠がボクのXX会話を使えないのと同じように。

 ……うーん、それにしても。

 名前が決まっていないとまらないなあ。

 ボクの《会話》には、まだ名前がついていなかった。

 会話遣いは自分で《会話》の名前を決める。

 師匠には早く決めなさいとよく言われていたけれど。

 ともあれ。

 当時小学一年生だったボクは放課後になるとあの公園へ行き、そこで一年間、師匠から会話遣いの基本を学んだ。

 師匠に対するわずかに残っていた警戒心が消え、尊敬の念が増し、信頼を寄せるようになり、そしてそれが恋心へと変わるのに、そう時間はかからなかった。

 初めて出会った、初めて知り合った、ボクの心をわかってくれる人。

 同類。

 類似るいじ

 相似そうじ

 近似きんじ

 鏡に映った自分を見ているような安心感。

 水面みなもに映った自分と見つめ合っているような親近感。

 でも。

 日に日におさえきれなくなる気持ちを伝える前に、師匠はある日突然とつぜんと、あの日忽然こつぜん失踪しっそうした。

 ボクの前から、いなくなった。

 その原因も、その理由も、その事由じゆうも、全くわからない。

 まるで最初からそんな人間など存在しなかったかのように。

 師匠は消えてしまった。

 ボクの前からいなくなった。

 師匠は何故消えたのだろう?

 何を思って、何を感じて、何が起こって、いなくなってしまったのか。

 何もわからなかった。

 一年間、ボクと同じ時を共有し。

 身を守る方法を伝えるだけ伝えて。

 突如とつじょとして煙のように消え去って。

 それからさらに二年ち、ボクが四年生になった今でも、師匠の行方は茫洋ぼうようとしたままだ。

 ニ年。

 長い時間だ。

 それだけの時が流れても、ボクは師匠を忘れるどころか、また再会したいという思いをより一層いっそう強くしていた。

 ボクには確信があった。

 確信めいた直感があった。

 直感じみた信仰があった。

 師匠は生きているって。

 案外そう遠くないところで暮らしているんじゃないかって。

 そう盲信もうしんしていた。

 もう一度。

 もう一度師匠に会いたい。

 会ったら、まずめてもらいたい。

 会話の使い方が上手くなったねって。

 師匠がいなくなってからも、ずっと練習していた。

 会話遣いとして在ることが、今のボクと師匠をつな唯一ゆいいつの糸だったから。

 師匠。

 今どこにいるのかな?

 どこで何をしているのかな?

 風邪かぜなんてひいてないかな?

 師匠。

 師匠、師匠師匠。

 師匠――

「……ぇ、ねぇってば、兎姿下とししたちゃん、聞いてる?」

「……ぁ」

 その声に意識が現実に引き戻された。

「……ごめん、ボーっとしてた。何かな?」

「だから、絶対今日中に見つけようねって。この山林のどこかにいる怪物」

 現在時刻は午後一時半。曜日は日曜。

 ボクは今、クラスメイトの模部もぶくんと取巻湖とりまこちゃん、一学年上の取巻湖ちゃんのお姉さん、そしてボクを含めた四人で近所の山林に来ていた。

 その目的は、あるうわさを確かめるためだ。

 数年前、ぼう大学の学生グループがこの山林に入り、そこで怪物におそわれたという。

 怪物の正体は不明。その大きさも見た目も伝わっていない。

 以上。

 ……中々に大雑把おおざっぱな噂だった。

 それにその大学生達はどうしてこんな何もなさそうな場所をうろついていたんだろう。ハイキングサークルか何かだったのかな。

 とにかく、その怪物とやらの正体をあばいてやろうというのがボク達の目的。

 とはいえ、ボクは成り行きで参加することになった、ただのおまけに過ぎないのだけれど。

 発案者は取巻湖ちゃん姉妹だ。

 彼女達はこの手の話が大好きらしい。

 そこで調査隊の仲間を募集したけれど、みんな怖がって人が集まらない。

 なのであまり取巻湖ちゃんと親しくないボクのところにも話が持ちかけられたというわけだった。

 ボクはこの噂を寡聞かぶんにして知らなかった。

 この話を聞かされた時、ボクの中で何かがざわついた。

 それは完全な第六感。

 ボクはこの誘いを受けないと後悔する。

 そんな予感がした。

 そんな予想をした。

 具体的に何をどうやって後悔することになるのかはわからなかったけれど。

 ボクは積極的に人と関わる性格じゃないし、ましてや危ないことからは距離を置くスタンスとはいえ、この件については考えるより先に「うん、いいよ」と言葉が出ていた。

 そして今にいたる。

 いささか早急に決断しすぎかもしれないけれど、ボクの直感は明日の降水確率並には結構当たるのだ。

 ボク達は緑の合間あいまを通る一本道を進んでいく。

 木々の隙間すきまから差し込む陽光ようこうが、鬱蒼うっそうしげる草を明るく照らしていた。

 ボクはそれを見ながら、みんなが思っているだろうことを口にする。

「もう一時間は歩き続けてるけれど、見つからないね、怪物さん。本当にいるのかな? あ、模部くん、疲れてない?」

「…………」

 ボクの後ろにいる模部くんは首を振って親指を立てた。彼はかなり寡黙かもくな男の子だ。

 ちなみにボク達は取巻湖ちゃん、お姉さん、ボク、模部くんの順に一列になって探索している。

 そもそもこんなだだっ広い山林をあてどなく歩いていて怪物さんと遭遇そうぐうできるものなんだろうか。

 怪物さんなら人間のニオイに誘われてくるものなのかもしれないけれど。

 取巻湖ちゃんはボクの言葉を受けて、少し熱くなって言う。

「絶対いるとあたしは思うんだよ! だって、怪物に襲われたっていう人の噂はその大学生グループの他にもいっぱい聞くし!」

「ふーん、そうなんだ」

 多数の犠牲者が出るほど、この山林を訪れる人がいるのか……そんなにここには人を引き付ける何かがあるんだろうか。何の変哲へんてつもない普通の山林に見えるのに。

 それにしてはさっきから人とすれ違わないけれど、それはボク達が『野生動物による被害多発につき立ち入り禁止』の看板を無視してここに侵入したからだろう。

野生動物……怪物さんの正体も、現実的にはそんなところなのかもしれなかった。

「ぁ……お姉ちゃんも、いると思うな……」

 取巻湖ちゃんのお姉さんもおずおずと同意する。活動的な取巻湖ちゃんとは正反対で、お姉さんは外向性を取巻湖ちゃんに吸収されてしまったように控えめな性格らしい。

「もうそろそろ見つかると思うんだ! ほら、あの坂を越えた先にきっと!」

 そんな青春ソングの歌詞みたいな台詞せりふを言うと、取巻湖ちゃんは出し抜けに猛ダッシュして先頭を突っ走り、そのままのスピードで前方にある坂を駆け上る。

 その姿にボクは感嘆かんたんの声をらした。

「うわー、すごい、あんな割と急な斜面を全力ダッシュしてる。取巻湖ちゃん、元気だなぁ」

 上まで辿たどり着いた取巻湖ちゃんだったけれど、どうやらその先は急な下り坂になっていたらしい。ブレーキをかける間もなくボク達の視界からパッと消えた。

 ガサガサという何かが転がり落ちる音と取巻湖ちゃんの「うごおおおお!?」というおよそ女の子が発するべきじゃない男らしい悲鳴。そして坂の下まで到達して気を失ったのか、取巻湖ちゃんは今までの大騒ぎが嘘のようにピタリと静かになった。

「た、大変……! ヨっちゃんがドンキーコングの投げたタルみたいに転がっていっちゃった……!」

 そう言ってお姉さんは走っていったけれど、坂の三分の一も登らないうちに地面に手をついてハァハァと息を切らしながらいずっていく始末しまつだった。

 どうやら運動神経の方も取巻湖ちゃんにうばわれてしまったようだ。

 ボクと模部くんとでお姉さんに肩を貸してジリジリと坂を登っていく。

 やっと頂上に到着という、その時。

 ざあっと。

 風が。

 風が、吹いた。

 木々が揺れ動き。

 草花が揺れ踊る。

 その風にあおられて、ボクの髪がふわりとなびき、何かのニオイがただよってきた気がした。

 ニオイというより、気配のようなものを感じたのかもしれない。

 それをいだ瞬間、ボクの体はしびれたように動かなくなる。

 同時に、坂の向こうから何か大きいモノがザザザッと移動するような物音が聞こえてきて、次いで取巻湖ちゃんの、押し潰されたような短く、形容しがたいすごく嫌な《うめきごえ》。

「ヨっちゃん……!? ど、どうしたの、大丈夫……!?」

 お姉さんは力を振りしぼり、自力で足を踏ん張りあわててけていく。そんなお姉さんの後を模部くんも追う。ボクは動けない。

 坂の上に到着したお姉さんはそこに広がっている光景を見て叫び声を上げた。

 その声に反応したのか、何かがすごい勢いでこっちに向かってくる音。

 反応する間もなかった。

 対応する間もなかったんだろう。

 口を手で押さえて立ちくすお姉さんに飛びかかったそれは、次の瞬間には彼女の首筋に牙を突き立てていたからだ。

 お姉さんは声にならない悲鳴を上げてその場に倒れた。首からはドクドクと血が流れ出ている。

 そこには――大きな虎がいた。

 テレビで見たことがある、動物園で会ったことがある、あの虎だった。

 お姉さんの様子から察するに、取巻湖ちゃんはあの虎に殺されていたんだろうな、やっぱり野生動物が怪物さんの正体だったんだ、でも野生の虎って日本にいるんだっけ、などとボクの頭は妙なくらい冷静に状況を分析する。

「…………!」

 模部くんは判断が早かった。

 危険を察知するや、一目散いちもくさんに逃げ出しつつ、ボクの方に走ってくる。

 模部くんは手を伸ばした。

 固まっているボクを引っ張っていってくれるつもりだったんだろう。

 でも、模部くんがボクの腕をつかむ前に、虎が彼の背後から飛びかかった。

 お姉さんと同じように、深々と首にみつかれる。

「……! ……!」

 模部くんは虎を引きがそうと暴れるけれど、虎の力の方が強くて抜け出せない。

 やがて、模部くんは動かなくなった。

 最期さいごまで一言も発しないなんて、本当に寡黙な子だ。

 そんなことを何となく考えている間に、虎は最後に残ったボクに向かってきた。

 抵抗することもなく虎に押し倒されたところで、金縛かなしばりにあったみたいに動かなかった身体が自由になる。

 でもそうなったとしても、虎にのしかかられていてはどっちみち動けないことに変わりはなかったけれど。

「…………」

 さっきから水の中にもぐっているような感覚。

 全てがくぐもっていて、現実から切り離されているような感じ。

 虎は牙をき出してボクに顔を近づける。

 ボクは虎の目を見た。

 その目に釘付くぎづけになった。

 ボクがしたっている、あの人の目にとてもよく似ていた。

「……師匠……?」

 瞬間。

 ボクがそう言った瞬間、虎はピタリと動きを止める。

 目に、光がともった。

「……兎姿下とししたか……?」

 その虎ははっきりと明瞭めいりょうに、人の言葉で、ボクの名前を呼んだ。

 でも、ボクはそれを不思議だとは思わなかった。

 ボクは目の前にいる虎を師匠だと何の抵抗もなく受け入れる。

 状況を受け入れる。

 胸がキュッとなる。

 恋いがれた人が、れられる距離にいた。

 ボクは込み上げる気持ちを抑制よくせいしながら言う。

「こんなところにいたんだね、師匠」

 やっと。

 やっと、会えた。

 数年前から想い続けていた人との再会は、想像していたよりもずっと唐突だった。



    3

 ボクと師匠は並んで座りながら会話をする。空白の二年間なんて感じさせないくらい自然な調子で。

 ボクは嬉しかった。幸せだった。

 この時間だけがいつまでも続けばいいと思った。

「でも師匠、一体何で、全体何で虎になっちゃったんだろうね?」

 ボクは首をかしげながら問いかける。

「思い当たることはある。思いいたることなら多少なりともある。つまりだね、これはごうなんだよ。私は自身を守るために他者に牙をき続けてきた。自身が傷つけられないために積極的に他者を攻撃してきた。獣のように、ケダモノのように。だからそのツケが回ってきたんだ。この猛々たけだけしい内面に相応ふさわしい姿になってしまったんだろう」

「……そんなに悪いことなのかな? 傷つきたくないって思うことは、人間じゃなくなるくらい、人間でいられなくなるくらい、人間としてれなくなるくらい悪いことなのかな?」

「度をすと世界から粛清しゅくせいされるものなんだよ、何事においてもね。私は少しばかり逸脱いつだつしてしまったんだ。三年前のあの日の夜、布団ふとんの中で微睡まどろんでいた私は、ふと誰かが私を呼ぶ声を聞いた。心の内から響くような声だった。私は起き上がり声のする方に向かうが、その声は遠ざかる。気づくと私は必死に走り声を追いかけていた。しかしどうしても追いつけない。そして私の走る速度が人として出せる領域りょういきえていることに思い至った時、私はこの身が虎に変化していると自覚した」

 ところで、と師匠はそばに転がっている死体に目をやりながら言う。

「あの三人は君の友人だったのかな? だとしたら君には申し訳ないことをしたね。私は人間として意識がある時と獣の意識に支配されてしまう時を交互に繰り返している。今は人としての意識が顔を出しているが、先程さきほどは完全に人食い虎になってしまっていた。しかし……」

「ううん、いいんだ、師匠。二人はただのクラスメイトだし、もう一人は今日知り合ったばかりで何の思い入れもない人だから。別に友達ってわけでも大事な人ってわけでもないよ」

 友達だったら、怒ったんだろうか。

 もしも友達だったら、ボクは腹を立てたんだろうか。

「…………」

 多分、何とも思わなかっただろう。

 自分が傷つかないように心を切り離すことを繰り返すうちに、ボクは他人の痛みに鈍感どんかんになってしまったのかもしれない。

 人として重要なものを失ってしまったのかもしれない。

 そうか、とうなずいた後、師匠は述懐じゅっかいするように語る。

「こんな異形に身を落としてから気づいた。私はこんな異質に身を落として初めて自覚した。私はね、人を好きになっていたんだよ。人に愛想あいそを尽かした、全てを敵だと思ってきた、全てをつめで引きいてきた私が、あろうことか人に恋をしたんだ」

 トクン、と。

 ボクの心臓が、自己主張するように脈打みゃくうった。

「その子は私と似ていた。私と同じように異常なほど傷つきやすく、私と同じように自分が嫌いで、私と同じように生まれたことを後悔していた。その子は鏡の向こうにいる私のようだった。その子と過ごす時間は楽しかったし、私をしたってくれたことも嬉しかった。その子と一緒にいるだけで、私はこの灰色の世界が美しくいろどられたように感じた。その子はね……兎姿下としした一途いちずという名前の女の子なんだ」

「師匠……」

「しかしこんな姿になってしまった今となっては、もう何もかも……」

 師匠は自嘲じちょう気味ぎみつぶやいて、悲しそうに目をせる。

「……さあ、そろそろ立ち去った方がいい。最近の私は人間の意識でいられる時間が極端きょくたんに短くなってきている。いつまた君を襲ってしまうかわかったものじゃない」

「……師匠、ボクね、決めたよ。決めたんだ、ボクの《会話》の名前。何だと思う?」

「…………」

「《兎命とめい会話》っていうんだよ。師匠とおそろいだね」

「……君は……」

「いいよ、師匠」

 ボクは笑顔で師匠を真っ直ぐ見る。

「師匠にならいいよ、食べられても」

 うさぎは虎に食べられちゃうものだから。

「食べられても、食い千切ちぎられても、食い破られても、構わないよ。ボクは、構わない」

「……こんな私であってもか……?」

「姿なんて関係ないし、形なんて問題ない。師匠は師匠だから。ボクにはそれで十分だよ。十分すぎるほどに十分なんだ」

 ボクは宣言するように言う。

「ボクの全部、師匠にあげる。だってボクは、一途いちずな兎だもん」

「兎姿下……」

 どちらからともなく。

 ボク達はゆっくりと顔を近づけて。

 そしてくちびるを重ねた。

 師匠がさっき殺した知人の血の味がしたけれど、特に気にならなかった。

 ボクは目を閉じる。

 目を閉じて、師匠をもっと感じようとする。

 手を広げて、師匠の大きな身体に抱きつく。

「師匠……大好きだよ」

 その言葉を肯定するみたいに、師匠は大きくのどを鳴らした。

 それが自然であるように。

 それが必然であるように。

 ボク達はお互いを求めた。

 時間が動き出すまで。

 魔法が解けるまで。

 夢から覚めるまで。

 ボク達はそうしていた。

 ずっと、永遠に、そうしていた。



(終)



 ………………。

 …………。

 ……。



 ……続いてのニュースです。本日未明、G県N市郊外こうがいの山林で、付近ふきんに住む四人の小学生の遺体いたいが発見されました。犠牲ぎせいになったのは小学四年生の兎姿下としした 一途いちずちゃん、模部もぶ 史塗雄しぬお君、取巻湖とりまこ 朗寿米ろすよちゃん、そして小学五年生の取巻湖とりまこ 論頭香ろすかちゃんです。

 特に一途ちゃんの遺体は激しい損傷が見られ、死後、暴行を受けた形跡けいせきも確認されており、警察は詳しい状況を調べています。また、近くには両腕と腹部がみ千切られた虎の死体も発見されており、この事件との関連性を――



(完)

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