神おそろしき

kou

第1話 西暦2222年

 沈黙が必要とされる空間があった。

 空気には紙とインクの匂いが染みつき、窓から差し込む陽光によって埃がきらめいている。

 そんな大学の図書館で、一人の女性が古びた本を開き、ノートに文字を書いていた。

 まだ20代前半の若い女性だ。

 長い黒髪に縁取られた顔立ちは非常に整っており、清楚な印象を受ける。

 しかし服装はかなりラフなもので、タンクトップにオーバーサイズシャツを重ね着しているというスタイルだ。

 化粧っ気はなく、首から下げたペンダントだけが青緑色を帯びていた。

 名前を藤井ふじい真帆まほと言った。

 女性は民俗芸能博物館の民俗学者であり、専門は日本神話や民間信仰についてである。

 今は大学図書館で、資料の整理をしているところであった。

 だがふとした瞬間に手が止まり、ぼんやりと考え事をしてしまうことがある。

 それはいつものことであったが、今日は特にその頻度が多かった。

 原因は分かっていた。

 数日前に受けた民俗学の勉強会が原因なのだ。

 真帆はある人類学者から質問を受けたのだが、彼はとても奇妙な人物だった。

 くたびれたスーツの上に黒い外套をまとっていた。

 年齢は30前後だろうか。

 背が高く痩せており、顔色は悪く、目の下に隈がある。

 髪の毛は長く伸ばして後ろで結んでおり、前髪も同様に長く伸ばされていた。

 そのため彼の表情はほとんど見えず、不気味な雰囲気を放っていた。

 そんな彼が発したのは一言だけだった。

「不老長寿に興味はないですか? 200年を生き2222年2月22日のアルティメット猫の日だって迎えることができます」

 そう問われた時の自分の反応を思い出し、真帆は自分の頬が熱くなるのを感じた。

 あまりにも唐突だったために驚いてしまい、うまく返事をすることが出来なかった。

 それからというもの、ずっと考え込んでしまっている。

 自分は一体どうしたいのか。

 何をするべきなのか。

 あの男性のことが頭から離れない。

 あれ以来、何度も同じことを考えてしまう。

(私ってこんな性格だったかしら……)

 真帆は心の中でつぶやく。

 自分が異性に対して興味を持つこと自体、珍しいことのように思えたからだ。

 今まで交際経験がない訳ではないが、それは仕事の延長上程度のものだった。だからといって恋愛を軽視しているわけではなく、それなりに楽しんでもいた。

 ただ今回は違う気がしていた。

 あのように一笑に付してしまうことを真面目に考えている彼と、その内容に好奇心が刺激されたのだ。

 まるで初恋のような感覚だ。

 自分でもよく分からない感情を持て余すばかりだった。

 その時、バッグの中のスマホが震える。

 メールが届いたようだ。

 送り主の名前は、あの人類学者・柏田かしわだりょうとあった。

 文面を見てみると、そこには短い文章だけ書かれていた。


「今度お会いして、先日の話をしませんか?」


 思わずドキリとする。

 名刺交換をしていたが、まさか向こうから連絡が来るとは思ってなかったからだ。

 返信しようとして指を動かすものの、何と書いたらいいか分からずに止まってしまう。

 結局、少し考えた後で当たり障りのない内容を送ることにした。


「分かりました。日程については、また連絡させてください」


 それだけ打って送信すると、すぐに携帯をしまった。

 これでよかったハズだと思いながらも、どこか落ち着かない気持ちになるのは、不老長寿という話題からだ。

 再び作業を始めようとするが、集中力が切れてしまったようで、何も手につかない。

 そう思うと真帆は、亮に連絡を送っていた。


 ◆


 大型ショッピングモールにあるフードコーナーに真帆が着くと、すでに亮が待っていた。

 お互いに向かい合う形で席に着くと、真帆は店員を呼び止めて注文を行う。

「それで今度は、どんな話かしら? 」

 真帆は尋ねる。

 亮は一冊の古びた本を取り出した。

「これは『山老記』と呼ばれる江戸期末期に書かれた文献です」

 亮は表紙を見せながら説明を始める。

「藤井さんは姥捨うばすてというものを知っていますか」

 亮の問いに、真帆は知ってた。


【姥捨て】

 年老いて働けなくなった者は役に立たないから山に捨てよという非情な行為。

 姥捨ての実際については、はっきりしたことは分かっていない。少なくとも古代から現代に至るまで、姥捨てやそれに類する法令などが日本国内にあったという公的記録はないが、民間伝承や姥捨て由来の地名が各地に残っている。

 東北地方では60歳を《木の股年》と呼び、この歳になると、山の木の股にはさんで捨てると伝えている。

 姥捨山の昔話はインドが源流とされ、仏典『雑宝蔵経』に古く載せられている。 


「知っていますよ。そうした伝承があることを」

 真帆が答えると、亮は少し笑う。

「この本は、山に捨てられた老人達の記録です。山に捨てられた老人達は村を作り、200年も生きたそうです」

 亮の言葉に真帆は驚く。

 興奮気味に語る亮に対して、真帆は困惑しつつも興味を惹かれずにはいられなかった。

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