断片:3

 そもそも何故私はクラウヴィッツを目指そうと思ったのだろうか。


 王都にいられない事情があったのは確かだが、目的地がどうしてもそこでなければならない事情は、果たしてあったのか無かったのか。消え去ってしまった記憶の断片のどれかに、その答えはあったのだろうか。


 とりあえず、手にした切符はクラウヴィッツ行きだったので、そこを目的地とするには妥当な理由と言えたかも知れない。けれど、クラウヴィッツの駅に到着して以後、どこを目指し何をすべきかまで、切符の半券に書かれているわけではなかった。


 列車には私たち以外に乗客はほとんどいなかったけれど、駅の構内はそれなりの人出でにぎわっていた。一応この街も戦時統制下に置かれているはずだったが、構内を巡回している兵士の姿もなければ、改札もとくに厳重なチェック体制が敷かれているというわけでもなく、私達はやけにすんなりとホームを下りる事が出来た。そこに、戦争の影響といえるような何かを見出すことは難しかったかも知れない。


 ――それも当たり前だったかも知れない。今の時代、遠い戦場で戦っているのは人間の兵士ではなく、その代理である機械たちなのだから。


「……で、これからどうするんだ?」


 何故か列車を降りてもずっと付きまとってきていたアシュレーが、そんな事を尋ねてきた。


「どうする、って?」


「これから先の身の振り方だよ。俺のアパートに来る、っていう話になってたのは覚えているかい?」


「あなたのアパートに?」


 私は思わず聞き返してしまった。アシュレーの冗談かとも一瞬思ったけれど……それを否定する余地は私にはなかった。もしかしたら、本当にそういう約束をしていたのかも知れない。


「……そんな気安い約束を、あなたとしていたの?」


「意外かい?」


「……まぁ、ちょっとは」


 一体彼と私は、どういう関係にあったのだろうか。まさかとは思うが、恋人同士? ……そもそも、もはや会うこともないはずのイゼルキュロスでさえしっかり覚えているのに、将来を言い交わしたような大切な相手の事をすっかり忘れてしまえるものだろうか。


 ……それとも単に、すぐに忘れてしまうような行きずりの関係だったのだろうか。


 黙り込んでしまった私を見て心配になってきたのか、アシュレーが慌ててフォローの言葉を付け加えた。


「俺の住んでるぼろアパートに、空き部屋がいっぱいある、って話をしてたんだが」


「……そう」


 私は……ほっとしたのかがっかりしたのか、ただ短く頷いただけだった。 


 ボストンバッグを担いで、大きな大きなスーツケースをがらがらと転がして、たどり着いた先は結局アシュレーの住んでいるアパートだった。アパートと言ってもそれはかなり立派な建物だったのだが。


「百年ほど前は由緒ある高級ホテルだったらしいな、ここは」


 住人であるアシュレーがそう説明する。それは実に古めかしい、堅牢な石積みの高層建築だった。確かにその説明で思わず納得しそうになったが、中に一歩足を踏み入れるとそんな気にはとてもなれなかった。


 そこは人の住むところなのかどうかも疑わしい、廃墟のような場所だったのだ。とにかく内装の痛みが激しく、敷き詰められた赤い絨毯はすっかりくたびれてくすんだ色に成り下がっていたし、壁紙も色褪せ、あちこち剥がれかかったまま修繕もされていなかった。


 それどころか、天井には幾つか煤けた後や銃痕と思しきものまで発見できた。アシュレーが言うには、クラウヴィッツの歴史を紐解くと五十年ほど前に内乱があったとか無かったとかで、その名残なのだろうという事だった。まあ深く考えても仕方がないので、私もそれで無理矢理納得しておく事にした。


 大家だという少々陰気な老女とアシュレーが二言三言やりとりしただけで、私の入居は実に簡単に決まってしまった。家賃として告げられた金額は、覚悟していたのよりも恐ろしく安かった。


「あんたの部屋は四階だ」


「あなたは?」


「俺の部屋は三階。ま、滅多に帰らないがな」


 そんなやり取りをしながら、彼は部屋に荷物を運び込むのを手伝ってくれた。部屋は前の住人が置いていったとおぼしき家具が一通り揃っていたので、私は特に不便を感じる事もなかった。


 当たり前の話だったかも知れないが、電子化された設備など望むべくもなかった。唯一それらしいのは空調コントロールぐらいだったが、それも壊れているみたいだった。ドアのロックが電子認証式ではなく、鍵と錠前の実にアンティークな形式だったのには、不安を通り越して不思議な感動さえ覚えた。強度的に不安はなかったから、これでも充分セキュリティは事足りるのかも知れなかったけれど。


「足りないものはいずれ買い出しにいくとして……メアリーアン、本当に一人で大丈夫なのか? あした目が覚めて、ここはどこだ、なんて言い出しはしないだろうな?」


「それは……何とも言えないわね」


 事実その通りだったので、私はつい正直に答えてしまっていた。症状がいつ出るかなんて、私に分かるはずも無かったから。


 そう答えた私に、アシュレーはやれやれとため息をついた。


「……ともあれ、俺は自分の部屋に戻るよ。何かあったら……何かあったとして、俺の事を覚えていれば、ここの真下が俺の部屋になってるから」


 そう言って部屋を出ていこうとする彼の腕を、私は自分でも知らないうちに掴んでいた。


「……?」


 アシュレーが意外そうな表情で振り返った。私は……私はと言えば、彼の手を掴んだまま、ただうつむいていただけだった。


「俺の部屋に来るか?」


「……」


「それとも、俺がこの部屋にいればいいのか?」


「どっちでもいい」


 私はそれだけ呟くと、アシュレーの胸にそっともたれかかった。アシュレーは少しだけ意外そうな表情をしたけれど、必要以上に驚いたり、慌てふためいたりはせずに、ただ無言のままに私を抱き寄せた。


 どちらから唇を求めたのか、それは憶えていないけれど……ともかく、私たちは言葉も交わさずに、長い長い口づけを交わした。

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