続・白くてきれいな迷いびと(1) 




 夏の透明で乾いた日差しが、オレンジ色を帯びつつあった。

 クリサンセマム箒店を出て街の中心部に戻るころには、日に染まる街並みは影を伸ばし、大通りの石畳の陰影を濃く深いものにさせていた。


 わたしはアリソンと並んで歩きながら、アカンサに言われたことを思い出していた。

 つまり、想像力を働かせること、相手の思考を予測すること。そのためにわたしはどうすればいいのか、ということだ。




 わたしの問いかけに、アカンサはしばらくのあいだ黙り込んで考えていた。

 彼女は彼女の中にある言葉を少しでも整理し、明確な輪郭を持つものにしようと努力しているようだった。

 アカンサは目を閉じ、開き、テーブルのはじを人差し指でつうっとなぞってから、指にくっついた埃をふっと吹く。

 それからわたしのほうに視線を戻すと、ゆっくりと口を開いた。


「……あんたの言うようなことが可能かどうかは置いといて――そうだね、まずあんたがやるべきことは、敵を思いやることかねえ」


「思いやる?」


 わたしは思わず聞き返す。これから先どうやって敵に負けないようにするか、という質問への返答としては、それは適切なものではないように思えた。思いやる? 敵を?

 混乱するわたしをよそにアカンサは「うむ……」と短く唸って、腕を組み中空を見上げる。彼女自身も自分の言葉に確証が持てない、といった表情だった。


「相手の立場になって考えること、と言い換えてもいいかもしれないねえ」と、アカンサは続ける。


「相手が何をしたいか、何をしてほしいか、何をされたら嫌なのか。恋をするようなもんさ。想像力を働かせるんだよ、寝る前に好きな男のことを考えるみたいにね。そうすればきっと、おのずと相手の次の行動が見えてくる。馬鹿みたいに相手のことをにらみつけなくてもね」


 アカンサが出した回答は、なんだか道理に外れた要求のように聞こえた。

 わたしは男の子に恋をしたことなんて無かったし、アリソンの気持ちがわからず機嫌を損ねてしまったのは、ほんのついさっきのことだ。いつもすぐそばに居る友人の気持ちでさえ正しく理解できないわたしに、一体何がわかるというのだろうか?


「……それって、とても難しいことのように聞こえるけど」


 忌憚のない感想を述べるわたしに、アカンサは「だから言っただろう、どだい無理な話だってね」と、呆れた顔でかぶりを振った。




 わたしは隣を歩くアリソンの顔を、じっと見つめてみる。西日に照らされる横顔からは、彼女が何を考えているのかなんてちっともわからなかった。

 一方で、それでもやらなければならないとも強く思った。たとえ荒唐無稽な思いつきであったとしても、わたしにはそれが行く先を照らす一筋の光明のように思えてならなかったからだ。

 わたしはナコト先輩を強く求めていて、ナコト先輩の方もそうあってほしいと思っていた。空に懸けるもののないわたしでも、彼女がわたしを求めてくれているのならそれに応えたいと思っていたし、そうするにはもっと強くあらねばならない。

 眼の良さだけが取り柄のわたしが強くなるためにはどうすればいいか。それはきっと眼を増やすことだ。


「……なんだかニナって、たまに男の子みたいよね」


 考えにふけるわたしの頬をちくりと刺すように、アリソンは言う。


 アリソンは男性というものを毛嫌いしていた。

 彼女にとっての男性とは、毛むくじゃらで、汚らしく、毒があり、奇怪な習性(たとえば靴底を主食とするといったような)を持つ、未知なる生物だった。

 わたしにはどうしてアリソンがそこまで男性というものを嫌悪するのかが理解できなかったけれど、アリソンにとって最も邪悪な生物に例えられたことについてはあまりいい気持ちはしなかった。


「どうしてそう思うの?」とわたしは尋ねる。


「女の子と居るときに、別の女の子のこと考えてるから」


 頬を膨らませたアリソンは、ふんすと鼻を鳴らして答える。

 理由を聞いても、わたしにはアリソンが怒る意味がわからなかった。

 まずもって、なぜ女の子と居るときに別の女の子のことを考えてはならないのかがわからなかったし、それが「男の子みたい」につながる理由はもっとわからなかった。

 女の子だろうが男の子だろうが、そこに居ない人について考えを巡らせることは特に珍しいことではないと思うし、それが誰かを怒らせることにつながるとは考えたこともなかった。


 わたしはおずおずとアリソンに質問する。


「……男の子は女の子と居るときに別の女の子のことを考えるものなの? その……普遍的に?」


「知らない。ぜんぜん興味ないもの。けれどアカンサの言うとおり、ニナはもうちょっと思いやりというものについて考えるべきね」


 なんだか今日はアリソンを怒らせてばかりだな、と思った。

 けれど、どうしてアリソンは、わたしがナコト先輩のことを考えているということがわかったのだろうか。

 わたしはもう一度アリソンの横顔を見つめてみたけれど、やはり表情からは彼女の考えていることを読み取ることはできなかった。

 首をひねるわたしに、アリソンは意地悪に笑って言う。


「悩めるニナに、思いやりのコツをひとつ。まずは友達の頭の中身を盗み見ようとするのをやめること」


 アリソンはずるいな、と思った。




 アリソンと別れるころには、だいぶ日は傾いていた。

 沈みかけの夕日が遠くの山々の稜線を焦がし、雲を不思議な色合いに変えていた。赤々と染まる通り沿いの民家からは、夕餉の支度のにおいがした。

 ひとりになったわたしは、エルダー・シングス行きの馬車駅へ向かう。そろそろ最終便の時間だった。


 わたしは早足で歩きながら、ひとりはあまり好きじゃないな、と思った。ひとりになるとどうしても考え事が増えてしまうからだ。

 考え事の大半は先行きの不安や心配ごとだったけれど、それらのうちのほとんどには出口がなかった。《ヘルター・スケルター》が戻ってくるまでのあいだ、代わりの箒を上手く乗りこなせるかどうかということも、そこに含まれていた。


 肩に担いだ《ストリング・バッグ》は、《ヘルター・スケルター》よりも長いのに軽い。重心の位置もどこか違う気がする。細い作りのチェリーウッドのシャフトは全体的に頼りなく感じられて、わたしは少しだけ心細くなる。

《ストリング・バッグ》は、《ヘルター・スケルター》のようにわたしを受け入れ、導いてくれるのだろうか。アカンサはこの箒を使ってまともな乗り方を覚えろと言っていたけれど、わたしは上手くやれるのだろうか。

 乗ってみる前から考えるようなことではない、ということはわかっていたけれど、わかっているからといって考えずに済むという話でもなかった。

 ぐるぐると回り続け、どこにもたどり着けない思考の滑車。


 次第にうんざりしてきたわたしは、気持ちを切り替えるために大きく息をついて、買い物の包みと《ストリング・バッグ》の柄をぎゅっと握り直す。

 早く帰ってお風呂に入り、晩ご飯を食べて寝ることだけを考えよう。だってそうするほかにないのだから。


 小さな声で「お風呂に入って寝る」と三回繰り返し、心の中のアナグマの巣に全ての悩み事を放り込む。何でも食べる心のアナグマは、どんな悩みも噛み砕いて飲み込んでしまうのだ、と強く念じる。


 聞き覚えのある声が聞こえたのは、ちょうどそのあたりだった。


「困ったわ、困ったわ」という、歌うような声。

 決して大きな声ではないけれど、奇妙によく通るその声は、いくぶんか人通りの減った大通りに響くようだった。

 あたりを見回してみると、通りの反対側に声の主の姿を見つけることが出来た。

 案の定そこに居たのは昼間出会った白い女の子で、胸元にはどこかのお菓子屋さんの包み紙を抱いていた。

 彼女はそこからクッキーを一枚取り出して口に運び、よく咀嚼して味わい、飲み込む。

 それからもう一度、「困ったわ」と歌った。


 初めて見る種類の困り方だった。

 まさか彼女はわたしが道を教えたあと、ずっとこのあたりをさまよい続けていたのだろうか? 道に迷い、お菓子を買い、そして引き続き迷っていたのか? 何時間も?

 まさかそんなはずはない。

 わたしは首を振り、やれやれと思う。


 きっと彼女はエルダー・シングスに一度たどり着き、用事を済ませ、それからこの街に帰ってきたのだ。わたしは心の中でそう結論づけ、先を急ぐことにした。

 わたしにはとにかく帰ってお風呂に入り、ご飯を食べて寝るという重大な使命があったのだ。


 結論から言えば、わたしの希望的観測は間違っていたし、そのことはすぐにわかった。どうやらわたしの姿を見つけてしまったらしい白い女の子が、満面の笑みで駆け寄ってくるのが視界の端に見えたからだ。

 白い女の子は革手袋をはめた手を大きく振って、わたしの名前を呼ぶ。


「ニナ先輩!」


 その頃のわたしはそれを無視することが出来るほどすれていなかったし、そうするには彼女の声はあまりにも綺麗でよく通るものだった。







 エルダー・シングス行きの駅馬車に揺られながら、白い女の子は自分のことをエルトダウンと名乗った。

 どちらかというとわたしの関心は、彼女の名前よりも彼女ほどの極度の方向音痴がこれまでどうやって生きてきたかということに向けられていたけれど、それについて聞くのはちょっとはばかられた。

 エルトダウンの花のような笑顔は、どこかそういう質問をためらわせる力があったのだ。


「親しいものはエルトと呼びます。ニナ先輩も、どうかそう呼んでください」


 わたしはおっとりと上品に差し出された彼女の右手に握手を返して、代わりの質問を投げかける。


「それはいいんだけど……その〝先輩〟っていうのは、なに?」


「だってニナ先輩って、エルダー・シングス魔術学院代表箒手、あのニナ・ヒールドでしょう? 例え違う学校の生徒でも、二年生の魔女ならわたしの先輩ですもの」


 エルトダウンは、さも自明の事のように言う。それから得意げに眉をひそめて言葉を続けた。


「わたし、選手名鑑の名前は全部覚えているんです。写真とはちょっと感じが違うから、名前を聞くまでわからなかったけれど」


「あれは……写りが悪いから」と、わたしは苦笑いで返す(出来ることなら今でも撮り直したい。あれは写真屋が全面的に悪いと思う)。

 正直なところ、先輩と呼ばれて悪い気はしなかったし、他校の生徒にまで名前が知られていることは素直に嬉しかった。

 気を良くしたわたしは、続けてエルトダウンに質問をする。


「エルトは、どこの学校の子なの?」


「わたしは王都の学校で学んでいます。この街には……家族に会いに来たの。わたしの姉さまもエルダー・シングスの魔女なんです」


 王都の学校、というのは、つまりミスカトニック王立魔術学院のことだ。

 王国で最も優秀な魔女のたまごたちが集まる、国で一番の魔術学校。

 世情に疎いわたしはもちろん、三歳の子どもでも知っているくらい有名な学校だ。わたしみたいな落ちこぼれの魔女では、箸にも棒にもかからない超名門校。


 先輩風を吹かす前に聞いておいて良かったと、わたしは胸の内で安堵する。吹き出す冷や汗を悟られないように、努めて笑顔でわたしは返す。


「すごいじゃない、お姉さんも鼻が高いだろうね」


「……どうかしら、姉さまはきっと、快く思っていないと思うわ」


 エルトダウンは浮かない顔で言った。

 先の笑顔が嘘のように、表情が曇る。人形のように整った顔に似合わず、彼女の感情表現はとても豊かだった。


「ふむ」とわたしは鼻息をついて、まずいことを言ってしまったかな、と思った。

 彼女のお姉さんはきっと、姉として立つ瀬がないのだろう。だってエルダー・シングスと王立学院ミスカトニックとでは、学校の格というものがずいぶんと違う。

 例えばわたしの妹――小さなコニーが王立学院に入学するとなったら、わたしはどう思うだろうか。認めたくないけれど、きっと複雑な気持ちになるだろう。そんな風に、わたしは考え込んでしまう。


 アリソンやナコト先輩、クリス先輩ならこういうとき何と言うだろう? 

 馬車の中には気まずい沈黙が流れ、エルダー・シングスまでの上り坂を進む蹄と車輪の音だけがくぐもって響いた。

 冴えた答えは頭のどこをどう探しても出て来なかったけれど、結局のところその必要はなかった。


 沈黙を遮る爆音とともに、突如として馬車が横転したからだ。

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