仮面の笑顔

 『カフェ忠』に着き、二人はホットミルクを飲んでいた。



 普段とは雰囲気の違う洸太郎と瑠奈を、カウンター越しから忠と麻里が心配そうに見つめている。

 



 ――数十分前。



 いつもの窓際の席に腰を下ろすと、洸太郎は木船家特製のメープルシロップを少し入れた甘めのホットミルクを注文する。


 甘いホットミルクは、不思議と気持ちに安心と落ち着きを運んでくれるからだった。



「どう? 少し、落ち着いた?」



 特製のホットミルクを一口飲み、洸太郎は瑠奈の顔を下から覗き込むように、ゆっくりとした口調で問いかける。



 瑠奈から神木様の話を聞いた後、洸太郎は何と言って良いのかわからず、無言のままで歩き続けた。


『カフェ忠』が視界に入った頃、洸太郎は瑠奈の顔を横目で確認したが、濡れた痕跡は、もう残っていなかった。




「うん……、ごめんね」



 まだ作り笑顔であると感じたが、その時の表情は、先程よりも幾分か明るいものになっていた。



「良かった」



 一旦また様子を見ようかとも考えたが、ここで沈黙を作ってしまうと、また暫く不穏な空気が流れてしまうと思い、洸太郎はそのまま本題へと話を進めた。



「それで、さっきの神木様の話なんだけど……」


「そうだよね……」



 瑠奈はマグカップに視線を向けていたが、一つ大きく息をした後、ゆっくりと視線を洸太郎へと移し、あの時に見たことを話し始めた。



「実はね……。私が神木様を見上げた時、一枚の葉っぱがひらひらと落ちて来てきているのが見えたの。もしかしたらあの時みたいに温かいのかな、と思って手を出そうとしたんだけど、よく見ると、その葉っぱがもう、枯れているのが見えて――」



 瑠奈が見たのは「枯葉」だった。


 心底心配している瑠奈には申し訳なかったが、洸太郎は神木様そのものが枯れてしまったのかと思っていたので、この時は正直、安心にも似た感情を抱いていた。



「千歳の声が聞こえたから葉っぱから一瞬目を離したんだけど、また上を見た時にはもう、その葉っぱはどこにもなくて」


「そっか……。だから勘違いかも知れないって言ったんだ?」



 瑠奈は黙って頷いた。


「本当に勘違いかも知れないし……」そう言った瑠奈の目に涙が溜まっているのが、今度は洸太郎の目にもしっかりと映っていた。


 その姿を見て、洸太郎は事の深刻さにようやく気が付く。



「でも、どんなに元気な木――いや、それこそ観葉植物だって、日が当たってなかったり、栄養が行き届かなかったりすると、葉っぱの一部が枯れちゃうことって良くあるじゃない?」



「そうだけど、神木様だよ? 神木様の一部が枯れるって……、想像出来る? 観葉植物のように、栄養が行き届いていない場合ってことはさ……」



 瑠奈の言う通り、想像は出来ない。


 というより、想像したくないというのが本音だった。

 

 世界に雨を降らせる木の一部が枯れるということは、もしかすると、どこかの地域で雨が降り止んだということになるのかもしれない。


 栄養が行き届かないと言うことは、その地域に雨を降らせる力がなくなったということも考えられる。

 


 あくまで想像に過ぎないが、そんなことは考えたくもなかった。



「私も最初は勘違いだって思いたくて、誰にも言うつもりはなかったの。でも、高木さんに葉っぱの話をしたら、もう一度来いって言われたじゃない? 考え過ぎかもしれないけど、このことも何か関係があるんじゃないかって……。そう考えたらこの話も、同じ体験をした洸太郎には話しておいた方が良いのかなって、そう思ったの」



 神木様の寿命、最近の雨の弱さ、更には枯葉。


 まだ点と点を結ぶのは早いということは、洸太郎もわかっていた。


 それでも、一度そうかも知れないと考えてしまうと、まるでそれが正解であるかのように思えて、脳内で勝手に線を引こうとしてしまう。



「つまり――瑠奈は雨が止んでしまう可能性と、僕たちの体験に何か関係があるんじゃないか。そう思ったってことだよね?」



 敢えて洸太郎は、はっきりと言葉に出して確認した。


 そうすることで、少しでも瑠奈の不安な気持ちを軽く出来るような気がしたからだった。


 瑠奈はまた黙って頷き、今度は洸太郎も、それに応えるように静かに頷き返した。




 雨が降り止んでしまうかもしれない――。




 それは、この世界で生きていく上で、考えうる一番の恐怖とも言えた。



「話してくれてありがとう。僕は瑠奈の見たことを信じるし……前を、向いて行かないとね」



 洸太郎は不安な表情を浮かべる瑠奈を前に、精一杯強がってから、瑠奈を見るようにした。


 その意図を汲み取ったのか、洸太郎の表情を見た瑠奈は上を向き、両目に溜まった涙を押し戻す。



「これ以上は高木さんの話を聞かないと何とも言えないから、一旦、お昼でも食べよっか」



 洸太郎が笑うと、ようやく瑠奈も、いつもの周りを惹きつけるような笑顔で微笑んだ。



 その時、一連の様子をカウンターの陰で見ていたらしい忠と麻里は目にもとまらぬ速さで、頼んでもいない、いつぞやの四段パンケーキをわざわざ二人で運んできた。



 忠と麻里に「美味しいです」と言いながらパンケーキを食べて笑う瑠奈は、自分でも表現出来ないような不安に駆られていたのだと、洸太郎は考えていた。


 その気持ちはもちろん、洸太郎も同じだった。

 

 瑠奈に向けて作った笑顔も、本当は瑠奈の瞳に映り込んだ自分自身に対しての、押し潰されそうな不安に上塗りする為の、仮面の笑顔だったのかもしれない。




 世界に雨を降らせる木。



 その木は幼い頃から事あるごとに、話題の中心となってきた。


 その木の進む未来と、その後の世界を考えるだけでも手が震えるというのに、そこに自分たちが関係しているかもしれないなど、想像すらしたことはない。



 この世界の全てが雨によって生かされている事実を鑑みれば、考えること自体がおこがましいことなのだ。



 そんな当たり前に抗おうとするように、この感情は押し寄せる。


 この不安がどこから、どの感情から生まれたものなのかは分からない。


 しかし、きっと近い将来を考えて、とめどなく溢れて来たものなのだと思う。




 雨が止む時。



 それは自分たちの最後になるかもしれないと、常々想いを抱いていた。


 逆らおうにも、逆らうことなど、決して出来るわけもない。


 それが雨と生きるということの意味だと、知っているから。


 だからこそ今を生き、今に感謝しなければならないのだ。




『雨が止むかもしれない』




 洸太郎はその現実に、初めて正面から向き合った。

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