箱が




 箱があった。


 地面に転がっていた。


 汚れた箱だった。


 まるで誰かに蹴っ飛ばされるのを待っているようだった。それか蹴っ飛ばされたあとだった。


 一目でわかった。


 それはもう用済みの箱なのだと。


 「………」


 かつては重要な何かが収まっていたのかもしれない。だがそんな季節はあっという間に過ぎ去り今はなんの意味もそこには無かった。ただ誰かによって徹底的に潰されるのを待っているだけのようだった。


 開けなくてもわかる。


 おれの視界の端にぽつんとそれはあった。


 おれは辺りを見回した。


 誰も気付いていなかった。汚れた箱がここにあることに。だが例え視界に入っても認識することはないだろう。それぐらい意味の無いものだった。


 おれたちの住む街には季節外れの雨が降り続いていた。それは冷たく体温を奪う雨だった。


 おれたちは皆、傘をさしていた。だから雨とは無関係でいられた。だが箱は成すがままだった。ただずぶ濡れになって自重で変形し潰れようとしていた。このまま時の流れに身を任せていればそうなるだろう。それは不可避。


 「………おい、そろそろ中へ入ろうぜ」


 おれたちの中の誰かが言った。ぞろぞろと足並みが一斉に室内へと向いた。おれは汚れた箱を指差した。


 「あれが見えるか?」


 おれの隣りで誰かが言った。


 「ああ………それがどうかしたのか?」


 「あの箱の中には一体、何が入っていると思う?」


 そいつは興味無さそうに「さあ」と言った。おれはずっと箱の方を見ていた。だから隣りに立っているそいつの顔が思い出せなかった。


 「そんなに気になるなら開けてみればいいだろ?」


 「なんだって?」


 そいつはもう家の中へと入ってしまっていた。


 華やかな照明に彩られた室内からは軽薄な笑い声が聞こえて来た。何か楽しいことがあり、それを楽しいと思って笑っているのだ。人生。そこに添えられる彩り。おれは頭の中の回路を一部、切断せずにまだここにいた。


 おれは、再び箱を見つめた。


 用済みのなんの価値も無い屑同然の汚れた箱。


 (………だが中に入っている)


 確信があった。


 それまでじっと立ち尽くしていたのが嘘のよう、吸い込まれるように足が動いた。汚れた箱はもう目の前だった。一度だけ振り返ると、薄い膜の向こうであいつらがぱくぱくと口を動かし何か喋っているのが見えた。実際には何も喋っていないのかもしれない。おれが存在しない室内で連中は限りなく空虚だ。


 おれは足元の箱をそっと拾い上げた。


 とても軽かった。


 まるで何も入っていないみたいだった。そのふりがとても上手い箱だった。


 雨は激しさを増しおれの傘はとっくに役立たずだった。


 箱の中から声がした。


 耳を澄まさなくてもわかる。それはきっと笑い声か悲鳴だろう。







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