影が




 影がいる。


 そいつはただの影で実体ではない。だから何も恐れることなど無い。


 もしお前が恐れているのならそれはお前自身なのだ。そういうのを何て言うか知っているか? 自滅。


 影に名前は必要ない。そいつはおれの足元から繋がっている。境界線は曖昧で融着されていた。


 そこまで認識、出来ていれば良い。


 問題無い。


 影だ。おれは他人のように振る舞うことが出来る。


 ある日おれはそいつに追われていた。


 (まあいいさ)


 おれは思った。


 好きなようにやらせればいい。


 実際のところ平静を装ってもいられない状況ではあるのだが、なんとかなるだろうという根拠の乏しい楽観に身を委ねていた。


 このまま放置すればきっと良くないことが起こるだろう。それはほぼ確信に近いものへと変わりつつあった。


 よくあることだ。振り切った影がすぐ真後ろにまで来ていたなんてことは。


 おれはビールを飲み干すとその空き缶を放った。


 迫り来る影。


 そういった事柄と直面したくないがために考えないふりをするのだった。幸いこの世界には目を逸らすための装置が幾らでも用意されている。缶ビールもその一つだった。大きな飲み口、そいつを傾けるとたちまち愉快になってしまう。この世界の大きな問題が小さな問題へとすり替わってしまう。なんて素晴らしいんだろう。おれはだんだん簡単になる。


 影がいる。


 そいつに追われている。


 土日祝日は関係ない。あいつには他にやることが無い。自分が本体でそれを取り返そうと必死になっているのだ。哀れな奴だ。とっくに何もかもが手遅れなのに。言葉で説明しても理解してはくれない。


 おれは時に歩を緩め無抵抗で両手を挙げる仕草をする。頭をすっかりやられているのだ。何もかもどうでも良いみたいに思える時もある。影はそんな時おれを不思議そうに眺めていた。


 「これ以上、近付かないのか?」


 せっかくおれにとどめを刺す好機なのにな。


 返答は無かった。翌朝、頭痛と気持ち悪さで目が覚めると部屋の外で影がじっと待っている。大人しく、いつからそこにいるのかはわからないがこちらを観察していた。おれはうんざりしながらもまたこの世界で目が覚めるのだった。他に行き場所もない。


 影は何をするわけでもなくただそこにいた。だから別に気にしなければそれで良かった。おれぐらいのものだ、影がどうとかいつまでも口走っているのは。


 問題はただそこにいるだけで気が滅入るということだ。うんざりだ。もう視界の端にでもそいつを入れたくない。銃口をそっと頭にあて引き金を引きそれで全てが終わるのならそれでも良かった。


 影が視界に入り込むとおれはいつも少し足早でその場を去る。


 四六時中、付き纏われている。あいつの気配を感じるだけで憂鬱になる。何か喋ろうとしている。想像したくない。


 おれが離れると影もその分だけおれの方へと近付いて来た。正確に。けして追い付くことはないがいなくなることもない。いつも必ず視界の端でちらついている。


 そして夜が来ておれたちをごちゃ混ぜにしてしまった。そうなってみれば太陽の光に当たっていた時に思っていたことなど耳を貸す理由は無い。


 明日の朝が来る前にこの不条理に蹴りをつけてしまえ。鏡に半笑いの男が映っていた。







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