萬倶楽部のお話(仮)

きよし

第一章 1

「春眠暁を覚えず」

 中国唐代の詩人、孟浩然の「春暁」という五言絶句の冒頭部分の書き下し文である。

 意味は、「春の夜は短い上に寝心地よく、暁になってもなかなか目が覚めない(三省堂 大辞林より)」というのだそうだ。

 なるほど、たしかに寝心地は良かった。暑すぎることもなく、寒すぎることもない。このままいつまでも眠っていたい。だがなんだろう、お腹の辺りが押さえつけられているような感じがした。いや、感じがしたという模糊としたものではない。確かに、臍の辺りに、なにかが乗っているようである。夢の中での出来事であろうか。まるで、人工呼吸のように規則的に圧迫される、この感覚は。

「ん?」

 その少年は、未だ夢現の状態の中にあったが、ある感懐が、胸の奥底からふつふつと湧き出てくるのを感じた。

「座敷わらしの仕業だろうか?」

 まさかな。今まで、座敷わらしには出会ったことがないし、寒気立ってもいない。もしこれが、霊的なものの障りであったとすれば、なんらかの身体的、精神的な反応が現れてもおかしくはずだが、お腹を押さえつけられている以外は無い。とすれば、自分は案外図太い神経の持ち主であるか、あるいは、覚醒前の漠とした状態では捉えられないモノの仕業なのかもしれない。

 それにしても、自分には霊的な素養は露ほども無いと思っていたのだが、いざそのようなものに触れてみると、不思議な感じがする。お腹あたりに感じる圧迫感は未だにあり、とにかく、どうにかして体を動かさないとマズイ気はする。そのようにおぼろげに考えた瞬間、少年の右耳の辺りに今まで感じたことがないような「ゾワッ」とした怖気おぞけを感じた。

「……ちゃん」

 女の人の声が耳元で聞こえた。確かに聞こえた。間違いなく聞こえた。夢ではない。事実ふぁくとである。これは「マズイ」くらいで済むものではない。少年は、ありったけの勇気や度胸を総動員して、意を決するように上体を起こした。

「このっ」

 ゴツンと、おでこに鈍い痛みを感じた。

「ったい、なんなんだ」

「なんなんだっ、じゃないわよ。せっかく起こしに来てあげたのに」

 女性というほどではない、まだうら若い乙女のような声音であった。まあ、話ができる相手であれば、説得して成仏させることもできるだろう、なんてことなど欠片ほども思わなかった。自分にはそのようなちからはない。それに、座敷わらしは悪い精霊ではないはずである。もしかしたら、意気投合して話し相手ぐらいにはなれるかもしれない。それはそれで。魅力的ではある。

「いいだろう、どんな座敷わらしか、拝んでやろう」

 少年は「ままよ」という勢いで、両の瞼を開いた。チラチラと星が瞬いて見えた。見えたのはそれだけではない。おでこに手を当てている女の子の姿があった。痛みを和らげようとしているのだろうか。

「誰が座敷わらしよ」

 この声には聞き覚えがあった。その姿にも見覚えがある。少年のふたつ違いの妹である。

「ああ、真那海まなみか」

「ああ、真那海か、じゃないわよ。いったい何時だと思ってるのよ」

 少年は壁にかけられている時計に目を向けた。

「七時三十五分、あっ、もうすぐ三十六分だ」

「いちいち細かいのね」

「で?」

「で、じゃないわよ。今日から高校でしょ。起こしに来てあげたの」

 誰も頼んではいないんだが、と思いながら、少年は自らの額をさすった。たんこぶはできていないようである。

「あのさ、ありがたいんだが、起こすのなら普通にしてくれないかな。兄妹きょうだいだからといっても真那海は女の子なんだぞ、男にまたがるなんてはしたない真似は、せめておれの目が届かないところでやってくれ。こっちが恥ずかしくなる」

 顎から額にかけて次第に顔を赤らめる少女は、顔が完全に赤くなるや、兄の胸を叩いた。擬音化するのであれば「ポカポカ」といったところである。可愛らしいものだ。

 それにしても、兄にまたがって胸を「ポカポカ」と叩かれると反動でベッドがきしむ。あえて擬音化するのであれば「ギシギシ」である。なにやらいかがわしい行為を致しているように聞こえなくもない。これは、まずい。断じてまずい。少年は健康的な、一般的な男子おのこである。下半身が、妹に対して、あるまじき反応を具体的に出来しゅったいせしめるのは明らかにまずい。兄としての沽券に関わる。少年はそれを悟られまいと勢いをつけて上体を起こした。

 ゴツンと、本日二度目の頭突きを味わうことになった。兄妹は仲良く同じ言葉を口にした。

「痛い」

 そのあと、「ばか」や「死ね」や「変態」など散々兄を罵倒するや、足音高高に、妹は部屋を出ていった。と思いきや、目的を思い出したのであろう、扉を少し開いて、ばつが悪そうに捨て台詞を吐いた。

「お、お兄ちゃん、早く用意しないと本当に遅刻するわよ」

 ツンデレである。

 扉が閉じられると、少年は自分の下半身に目をやり、独り言ちた。

「妹を相手に節操がないな。お前は」

 深い溜息をついて、少年は立ち上がり、頭を左右に傾けて首の凝りをほぐした。「ゴリッ、ゴリッ」と音がした。そのまま窓に近づくや、閉じられているカーテンを開いた。光が寝起きの瞳には眩しすぎた。視界は真白でなにも見えなかった。

 少年は、大きく伸びをした。

 やがて、目が慣れてくると、いつもの見慣れた景色が像を結んだ。

「今日もいい天気だ」

 なにか、いい出会いがあるような予感がした。遠く空に輝く光体を目にして、なにげなく、そんな感じがした少年であった。

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