第10話 理性

「悠くんは好きな子とかいないの?」


 母さんの姿が見えなくなったタイミングで舞さんが尋ねてきた。


「……いるよ」


 一瞬なんて答えたらいいのか判断に迷ってしまったが、はぐらかすのは自分の気持ちに嘘を吐く行為のような気がして嫌だし、なんか違うと思ったので、口に含んでいた白米を飲み込んでから素直に頷いた。


 食事をおろそかにして話し込んでいたせいで白米がすっかりぬるくなっていたが、自業自得なので甘んじて受け入れる。


「へえ、どんな子?」


 舞さんは頬杖をついて興味津々と言いたげな視線を向けてくる。


 どんな子と言われましても――それは母さんの親友で、俺にとっては母親同然の存在のあなたです、としか言い様がありません。

 でも、そんなことは口が裂けても言えない。

 だから――


「……さあ?」


 と曖昧な態度ではぐらかすことしかできない。

 だって本人には言えないんだから仕方ないじゃん。


 想いを寄せている本人に尋ねられたら誰だって答えにきゅうするよな?

 しかも、その相手が母の親友で既婚者ともなれば尚更だ。


「恥ずかしがらなくてもいいのに」


 いや、そういうわけじゃないんだけど……。

 だからそんな残念そうにしないでくれませんかね……。

 言えない俺が一番もどかしいんですよ……。


「まあ、悠くんも年頃だものね」


 一人で勝手に納得した舞さんは席を立ち、空いたグラスと食器を手に取って台所に運び始めた。


 幸いにも舞さんは追い打ちをかけることなくすぐに引き下がってくれたが、もしかしたらそこまで興味がなかったのかもしれない。

 だとしたらそれはそれで悲しいけど……。もう少し俺に興味を持ってください。


 やり過ごせた安堵感と、思いのほか興味を持ってもらえなかったことに対する物悲しさに包まれながら、台所で食器を洗う舞さんの姿を眺める。


 こうしていると本当に親子の日常に見えると思う。

 食器を洗う母親と、飯を食べる息子――そんなありふれた光景だ。


 今の関係も嫌いではない。むしろ好きだ。

 親子のように気兼ねなく接することができる距離感は居心地がいい。


 だからやりどころのない鬱屈うっくつした感情をかかえながらも、それをなんとか誤魔化して日々を過ごしてきた。


 気持ちを伝えようと思ったことは何度もある。

 だが、いつも言葉が喉につっかえてしまい断念せざるを得なかった。


 なぜなら、どうしても考えてしまうのだ――諸々の事情を。


 舞さんが母の親友であること。

 既婚者だということ。

 二十個も年上だというくつがえしようのない事実。

 息子のようにしか思われていない現実。

 俺のせいで母さんと舞さんの関係がこじれてしまう可能性。

 親子のような関係すら失ってしまうのではないかという恐れ。


 どれも諦めるのに充分な理由だ。

 仮に想いを伝えたところで、舞さんを困らせてしまうだけなのが目に見えている。


 それに孝二さんとは仲良く過ごしていると思っていた。

 舞さんが幸せな夫婦生活を送っているのに、横槍を入れるようなことなどできるわけがない。誰よりも舞さんの幸せを願っているのは俺自身なのだから。


 舞さんのことを想っているからこそ、自分の気持ちになんとかふたをすることができているんだ。――セフレ相手に気晴らししている時点で全く説得力はないかもしれないが……。


 ずっと抑え込んでいた想いに、今この時ばかりはふたをできそうにない。舞さんが幸せじゃないと知ってしまったから。


「なにかあった?」


 俺の視線に気づいた舞さんが、不思議そうな顔をしながらこちらに目を向けて小首を傾げた。


 その仕草と表情がかわいい上に色っぽくてたまらない。平静を装いながら「なんでもない」と返すので精一杯だ。

 しかし動揺が伝わってしまったのか、舞さんは「ふふ」と笑みを零した。


 舞さんの一挙手一投足が俺の心を掴んで離さない。

 もういっそのこと告白してしまおうか――振られるのはわかりきっているけど楽になってしまいたい。


 そう思った瞬間――俺の中でかせのようななにかが外れる音がし、意識が遠退とおのいていく。視界にはもやのようなものがかかり、意識が曖昧になって自分をコントロールすることができなくなる。


 気づいた頃には立ち上がっていて、台所に向かって歩き出していた。

 そのまま台所に侵入し、舞さんに近づいていく。


 すると舞さんが俺の存在に気づき、「どうしたの?」と声をかけてきた。


 普段の俺なら彼女の問いを無視することなど絶対にありえないのだが、この時ばかりは返事をせずに手を伸ばした。


 朦朧もうろうとした意識の中で伸ばした手が視界に映ると、なけなしの理性を振り絞って胸中で自分に「やめろ!」と懸命に訴えかける。


 しかし、理性に反するように身体は言うことを聞いてくれない。

 本能が暴走しているのか、「もう気持ちを抑え込むのはやめろ。自分に正直になれ!」、と自分と同じ声の幻聴が悪魔の囁きの如くなけなし理性を刺激してくる。


 必死に抵抗しつつも俺の歩みは止まらず、舞さんの背後に立つ。

 そして不思議そうな顔をする舞さんのことを後ろから抱き締めてしまった。


 腕が舞さんの柔らかい肌の感触に包まれて歓喜に震える。

 シャンプーの匂いだろうか? それとも化粧品の匂いか? 鼻腔をくすぐる香りが安心感を与えてくれて、少しだけ冷静さを取り戻してくれる。


「……悠くん? どうしたの?」


 舞さんは驚きながらも心配そうに声をかけてくれる。


「舞さん……」

「ん、なぁに?」


 名前を呼びながらギュッと抱き締めると、舞さんは蛇口を閉めてハンドタオルで手を拭き、器用に首を捻って俺のことを見上げる。


 男に背後から抱き締められても嫌な顔一つしない舞さんの様子に、やはり異性として意識されていないのだな、と実感してしまい俺は少しだけ寂しさを覚えた。

 おそらく息子に甘えられているくらいにしか思っていないのだろう。


 それが悔しくて、なんとかして俺のことを意識させたいと気が逸り、もうこのまま流れに身を任せて行くところまで行ってしまおうか、と暴走気味な思考になる。


 いつまでも黙っているわけにはいかないので、懸命に思考を巡らせて言い訳を考えるが、冷静さを欠いているせいか何も思いつかない。


「悠くん……?」


 まずい……。

 俺がなにも言わないから舞さんが困惑を深めている……。

 心配そうに俺のことを見上げる舞さんの顔を見ると余計に焦ってしまう。


 今ならまだ冗談で済ませられるかもしれないが、本当にそれでいいのか? と曖昧な意識の中で自問自答する。


 この先もずっと自分の気持ちを封じ込めて過ごしていくのは正直辛い。

 舞さんが母さんの親友である以上、今後も頻繁に顔を会わせることになる。


 昔よりも今のほうが舞さんに対する想いは強い。時が経つほど、我慢するほど、どんどん気持ちが強くなっていく。

 だから、この先はもっと舞さんに対する想いが強くなるはずだ。それこそ抑え込むことができなくなるほどに。


 それでも我慢し続けることは果たしてできるのだろうか?

 正直言って自信はない。現状でもセフレ相手に気を紛らわせているくらいだ。


 このままだと、情けないことにもっと有坂たちに迷惑をかけることになってしまう。いくら利害が一致しているとはいえ、物事には限度があるので甘えすぎるわけにはいかない。


 駄目だ……。

 朦朧とした意識の中では脳がまともに働いてくれなくて考えがまとまらない。


 もう諦めて本能に従ってしまおうか……。

 冷静さを欠いている今でも舞さんのことを抱き締めていると、幸福感に包まれて脳がとろけてしまいそうだ。

 腕に収まる舞さんのことをこのまま俺の女にしてしまいたい。いつでも抱き締めることができる関係になりたい。


 そう思った時――必死に抑え込んでいた理性が完全に吹き飛んでしまい、俺は思いの丈を無意識に舞さんの耳元で囁いていた。


「舞さん……。俺、物心ついた頃からずっと舞さんのことが好きだったんだ」

「――え?」


 舞さんの動揺が腕を通して伝わってくる。

 彼女にとっては青天せいてん霹靂へきれきだろうし、相当な衝撃だったはず。


「ごめん。こんなこと言われても困るよね……」


 本当にごめん、舞さん。

 でも、ここまで来たらもう後には引けない。少なくとも曖昧なまま終わらせることは不可能だ。ちゃんと収拾をつけないと今後に響いてしまうから……。

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