2.中田 朔の秘密

2-1◆中田 朔の秘密

 エンジンを始動させると、すぐにエアコンを入れる。予報では今日は晴れ。最高気温は、三〇度を超えるらしい。実際、車内はすでにかなり暑い。


 待ち合わせの駅に向かいながら、度会楓わたらいかえでと、接触事故を起こした時の事を思い出していた。あの時、ブレーキを踏むつもりは無かった。


 しかし、一気にアクセルを踏み込んで急接近し、彼女が車道に出てくる直前、反射的にブレーキをんでしまった。

 心の底では迷いがあった。彼女を殺すことに。


 半年前、学校で初めて彼女を見た。放課後、特別教室棟の一階にある教材倉庫で問題集を探していると、廊下から派手に物が落ちる音がした。出てみると、かばんの中身をぶちまけたらしい女子生徒が、ノートや教科書をひろい集めていた。


 一緒に拾い集めて手渡した時、彼女が子供の頃にどこかで会っているような気がした。「すみません、リュック開いてたの気づかなくて、ありがとうございます」と言いながら、真直ぐこちらを見詰みつめる緑がかった薄い茶色の大きな瞳に、覚えがあった。「カエデ」と呼ぶ声がして振り返る横顔を見て、はっとした。裁判所で見たのだと思った。


 相澤あいざわの娘だ。陽奈子ひなこ轢殺ひきころした、相澤の。


 先刻さっきの様子から、向こうは俺の事を覚えていないようだ。直接話したことはないし、俺も1度、傍聴席ぼうちょうせきで座っている横顔を見ただけだ。そのとき、今と同じように名前を呼ばれるのを聞いた。振り向いた時、色の薄い変わった瞳の色をしていた事が、印象に残っていた。


 実際あの瞳を見ていなければ、彼女を見てもすぐに気づかなかっただろう。裁判所にどうして子供がいるのだろうと、ぼんやり彼女を目で追っていた俺に、彼女が相澤の娘だということを、陽奈子の母が教えてくれた。



 その日すぐに生徒名簿で「相澤」を検索したが、女子の相澤は一人もいない。澤の漢字を変えて検索したが、理系クラスのすでに知っている「相沢正志」しか出てこない。


 「楓」で検索すると、一人ヒットした。文系クラスの一年だった。接点がほとんどないので、気付けなかったのだ。出身中学は、相澤が住んでいた町だ。此処は学区外の筈だ。名字も「度会」となっている。名前が同じ、良く似た他人なのか? それとも……。


 もう一つの可能性が浮かんで、肚底はらぞこが熱くなった。彼女の出身中学に連絡を取ると、相澤楓は卒業生だと答えた。相澤楓について、元担任に話を聞きに行った。高校での担任を装い、学校生活で問題を抱えている彼女の悩みを解決するためなどと、もっともらしい理由を告げると、卒業アルバムを見せながら当時の話を聞かせてくれた。



 度会楓は相澤楓だと確信した。中二の後半から、徐々に学校に来なくなり、出席日数ぎりぎりで卒業した、ということだった。現在は、誰も連絡を取っておらず、卒業前に何度か本人に状況を聞いたが、何も教えてはくれなかったという回答だった。


 徐々に学校に来なくなった、という事実から恐らく彼女は、学校に居られない状況になっていたのだろう。理由を聞いてみたが、事故の件で随分ずいぶんふさぎ込んでしまった様子で、友人との距離が開いてしまい、孤立してしまったようだと、当たりさわりのない答えしか返って来なかった。


 集合写真は、彼女だけ別撮り、思い出の写真の中にも友人と一緒の姿はない。卒業後の進路を教えたくない理由は明白だった。同級生に知られたくないのだ。


 もう一つの可能性が当たったと思った。相澤は、再婚して名字を変え、新しい人生を送っている。娘と新しい妻と、やり直すつもりなのだと。娘の今後の事を考えて、決断したのかも知れないが、相澤本人の罪の履歴りれきはどうなる。


 有罪判決と言っても、執行猶予しっこうゆうよ付き。俺にしてみれば、無罪も同然だった。俺と陽奈子のこれからも続いていく日常を、むしり取っておきながら、その事を無かった事にして、新しく生き直そうとしている。


 相澤の娘も同じように、不慮ふりょの事故で奪い取ってやろうと思った。度会楓の行動パターンを観察し、計画を練った。

 だが……できなかった。


 通院最後の日、彼女を問い詰めて正体を明かし、相澤に直接、会いに行くつもりでいた。病院で会った母親は、後妻ごさいであることを遠回しに聞き出そうとした。しかし、俺の推測は間違いだと気付いた。


 では相澤は今どうしているのか? 何を思って生きているのか? 苦しんでいるのか、後悔しているのか、それとも何もかも忘れて、泰然としているのか。

 相澤につながる彼女を手放さないために、正体を明かすことを止めた。彼女が父親のことで未だに苦しんでいることが分かった。彼女の理解者となり、近づくことに決めた。


 事故から現在までの五年の間で、公判が全て終わった直後の一回だけ、相澤は陽奈子の両親の前に直接姿を見せて頭を下げた。ただの一回だけだ。


 欠かさず通った公判で見た相澤は、表情が少なく淡々と同じ証言を繰り返すだけの男だった。今更何をしたところで、陽奈子が戻ることはない。ようやく、気持ちの整理がつきはじめたのに。まだ、これほどに相澤を憎む感情が残っていたのだ。

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