第22話 なにかが違う

「え? あー……ん-……」


 麻栗の言葉に対してとっさに出てきたのは、そんな煮え切らない反応であった。

 頭が彼女の言葉を理解するのに時間を要したのもあるし、麻栗の様子が普段とは少し異なるように見えたからというのもある。


 とにかくこの時、俺は彼女に即答することができなかった。


「え、えーと……卒業したらの話だよな?」


 挙句の果てに俺が口にしたのはそんな言葉であった。


 その俺の返答に、麻栗は笑顔でこう答える。


「ううん、早ければ明日にでも!」

「えぇ……」

「物件ならもうさっそくあたりを見繕っててね……ちょっと待って、一緒に見ようよ!」


 そう言いながら、麻栗はベッドボードに置いてあったスマホを手に取ると、ブックマークしておいたらしいページを画面に表示する。

 3LDKだの3DKだのという文字列と共に、数々の物件情報を麻栗は俺に見せてきた。


「別に贅沢な暮らしをしたいわけじゃないから、家賃的にはこの辺りの価格帯がいいんじゃないかなって思うんだよね。間取り的にも結婚して子どもが生まれた場合のこと考えたら、最低でも3DKは必要かなーって思うし、近辺だとこの物件とかいいんじゃないかな? スーパーと薬局も徒歩圏内だし。あ、でももっと費用を抑えたいなら、郊外まで足を伸ばせば3LDKで5万円台の破格な物件もあるよ! 築年数はだいぶいってるけど……今はまあ古い物件でもリノベーションが進んで――」

「ま、待て待て待った! ストップストップ!」


 いきなり語り始めた麻栗を、俺は慌てて途中で止める。

 そんな俺に向かって、麻栗は小首を傾げた。


「ん? この辺だとあまり聖くんのお気に召さない感じ? ごめんね先走っちゃったかも、部屋借りる時に聖くんが何を重要視してるかちゃんと相談してから物件を探した方が効率的だったよね」

「違うそうじゃない」


 思わず真顔になって突っ込む俺。


「いやあの……えっとな? 俺たち、まだ学生だろ」

「そうだね」

「学生のうちに同棲なんて……そんなの難しいんじゃないか?」

「う~ん……そうでもないんじゃないかなぁ?」

「いやでも、子どもで部屋を借りるなんて――」

「できるよ」


 俺の疑問に麻栗が即答した。


「部屋なら借りれるよ。わたしの親に、仕事部屋を外に設けるって言ったら保証人になるぐらいのことはしてくれるよ」

「そ、それは……」


 クリエイターとしてすでに大成している麻栗である。

 仕事のためだと言い張れば、麻栗の両親は確かに納得して保証人となってくれそうではあった。


「で、でも、部屋を借りたら家賃とかはどうするんだよ? 食費は? 光熱費は? ……よく知らないけど、他にも色々お金がかかるんじゃないのか?」

「ええと、だったらこの物件で今から試算してみるね?」


 と言って、麻栗がある物件を画面に表示する。


「例えばこれなら、家賃が管理費込みで五万八千円。光熱費が電気ガス水道込みでだいたい一万五千円。スマホ代二人合わせて一万円でネット通信料が月々およそ五千円くらいかな? あとは食費はだいたい三万円ぐらいを見ておいて、その他にもだいたい二万円程度の出費があるとして、さらに毎月一万円程度の予備費込みで……だいたい一ヶ月あたりでかかるお金は十五万円くらいだね。となると一年で約百八十万円……大きな出費がある可能性まで踏まえても二百万円ぐらいって計算になるんじゃないかな?」

「……」


 具体的な数字に、俺は思わず口を噤む。

 二百万――学生の俺には途方もない、大きな金額である。


「その上で、二百万円でこの先二人で七十年生きるって考えた場合……生涯でかかるお金はおよそ一億五千万円くらいじゃないかな。子どものこととか考えるとまた別の計算をしなければいけなくなったりするけど、まあ二人で暮らす分にはそれで十分かな、って感じ」

「……そんな大金、ないだろ、どこにも」

「あるよ?」

「……は?」

「わたし、漫画だけでもだいたい五百万部は売れてるから、あるよ。全部まとめて二億円ぐらいのお金は、全然」


 しかも、と彼女は言葉を続けた。


「公の告知はまだだけど、漫画の方はこれからアニメ化も実は控えてるの。だからその宣伝効果まで考えると……少なくともあと二、三百万部ぐらいは伸びるんじゃないかな? 聖くんを一生養っていける程度のお金は、だからもうあるよ!」


 麻栗はそう言って、にっこり微笑んだ。


「あと作家の先輩にね、投資に詳しい人がいて……成人したら資産の一部を試しに運用してみようと思ってるんだ。その時のお金の具体的な動き方を見てからじゃないと今はまだ何とも言えないけど、貯金だけでも死ぬまで働かなくていいぐらいのお金があるんだから、わたしたち一生イチャイチャし続けることができるよ!」


 楽しそうにそう語る麻栗とは裏腹に、俺の心はなぜだかどんどん冷めていった。

 麻栗は決して無茶を語っているわけではない。実際にあるお金と、実際にかかるお金とを比較検討して、「一生イチャイチャして暮らせる」と言っているだけだ。


 嘘をついている様子も、なにかをごまかしているような不自然さもない。

 当然のことを当然のように語っている――彼女にあるのは、ただそれだけのことであった。


 それがなぜだろう。俺にはどうしても、受け入れがたいものを覚えないではいられなかった。


「だから大丈夫だよ聖くん! お金の心配なら不要だから! わたしめっちゃ稼いでるから! だから一緒に暮らそ、聖くん!」

「麻栗……」

「なぁに?」

「それは……無理だ」


 俺の言葉を、麻栗は最初、よく理解できなかったのだろう。

 だから彼女はきょとんとした表情になって……それも次第に哀しげな、寂しげな表情へと変化していった。


 十数秒の沈黙を挟んだ後、彼女はぽつり、と言葉を零した。


「……どぉして?」

「すまん……俺にも理由がよく分からん……」

「そ、……っかぁ……」


 力なく微笑むと、麻栗はこつんと額で俺の胸を小突いた。


「……良くないよね。無理強いは……良くないよね」

「……すまん」

「いいよ。いいから……良くなったら言って、ね?」


 そう言う彼女の肩を抱き締めながらも、俺の頭の中は次の言葉でいっぱいだった。


 なにかが違う。

 なにかが違う。


 これじゃあなにかが違うんだ、って。

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