第49話 夜明け

 その日から、私は病室を訪れるたび「いたいのいたいのとんでいけ」を繰り返した。すると信じられないことに未来の睡眠時間は少しずつ、少しずつ短くなっていった。


 それはもう、奇跡としか言いようがなかった。未来のことは主治医すらも諦めていたのだ。両親も友達も、私ですら半ば諦めていた。なのに私があの言葉を使い始めてからは、まるで嘘みたいに全てが正常に戻ってゆく。


 未来に、笑顔が戻ってゆく。


 時間は過ぎてゆき、十二月も後半。今日はクリスマスだった。


 私はいつも通り未来の病室を訪れていた。小さなクリスマスツリーが飾られていて、電飾が輝いている。今日も未来は起きていて、私の顔を見ると可愛く微笑んでくれた。顔色もかなり良くなっている。


「今日も頑張って起きてる。褒めてもいいんだよ?」

「……未来は偉いね」

「えへへ。そうでしょ。ご褒美としてキスしてくれてもいいんだよ?」


 なんて目を閉じるものだから、私はそっと未来の可愛い唇に唇を重ね合わせる。まだ全身は痛いみたいだけれど、喋る度に喉も痛むみたいだけれど、それでもかつてと比べると大幅にましになっているみたいだ。


 唇を離すと未来はにっこり微笑む。


「詩子はいつも私を助けてくれるよね」

「……私は何もしてないよ」


 私が首を横に振ると、未来は「ううん」と私の手を握った。


「私、知ってるんだよ? 詩子がいたいのいたいのとんでいけ、って毎日してくれてたの。全身が痛くて、眠ることでしかその苦しみから逃れられなくて。だからさ、少し前まで私は「死にたい」なんて思ってたんだ」


 寝たきりで目覚めれば激痛が走る。終わりの見えない治療。死に物狂いで進んだ道の先に待つのは死かもしれない。そんな状況で楽観的でいるのは困難だろう。


「けどね、声が聞こえてきたんだ。詩子の優しい声。ちっさな頃、何度も何度も助けてもらった魔法の言葉。そのおかげで私は頑張らないと、って思えたんだ。こんなところで諦めてたまるか。生きて絶対に詩子と結婚するんだ! って」


 私はもうほとんど泣いてしまいそうだった。一緒に苦しんであげられない自分が嫌だった。苦しむ未来を見ることしかできない自分が憎かった。けれど私の言葉は確かに未来の支えになっていたんだ。


「もはや治療が絶望的な、重い病気。特効薬なんて存在しないって世間一般には思われているけれど、実はあるんだよ。絶望の中でも諦めない心。誰かのために生きたいと思う願い。それを人は『希望』って呼ぶ」


 未来は照れくさそうに笑った。


「キザだって思うかもしれないけどさ」

「……思わないよ。私が未来の希望になれたのなら、本当に良かった」

「えへへ。そっか」


 未来は微笑んで窓の外をみつめている。私はその横顔に見惚れていた。これからもずっとそばにいたい。未来の隣を歩いていたい。辛い時は一緒に泣いて、幸せな時は笑い合いたい。


 そんな温かな未来を想像していると、未来は不意に窓の外を指さした。


「あっ! みてみて詩子! 雪だよ!」


 目を向けると小さな白いつぶが、ふわふわと大気を漂っていた。真っ暗な夜空を背景に舞う雪は、私たちを祝福してくれているようだった。どこからか鈴の音まで聞こえてくる。


 その時、突然扉が開いて未来の主治医が現れた。矢継ぎ早に笑顔でつげる。


「腫瘍、ほとんど消えてます! 咲乃さんは打ち勝ったんですよ!」


 その言葉は最高のクリスマスプレゼントだった。


 私たちは微笑み合う。主治医に感謝の言葉を伝えたあと、主治医が出て言った瞬間に唇を重ね合わせた。何か月ぶりだろう。私たちは夏休み、海でしたのと同じキスをした。


「やっぱり詩子はエロいね」

「……未来だって、好きでしてるくせに」

 

 抱きしめ合って、思う存分幸せな気持ちを共有する。できればこれよりももっとすごいことをしてしまいたい気分だったけれど、未来にはまだ薬の副作用が残っているし、なによりここは病院なのだ。


 頑張って堪えて、未来の唇を味わうだけにとどめておく。


 夜は長かった。太陽はいつまで経っても上ってくれなかった。一時は絶望しそうになった。けれど私たちはようやく夜明けを迎えられたのだ。


 しばらくすると未来の両親がやって来た。主治医の話を伝えると、二人とも泣いて喜んでいた。お母さんは感極まって、ぎゅっと私を抱きしめてくる。


「あなたのおかげよ。毎日お見舞いに来てくれたから、未来は頑張れたんだと思う」なんて言うけれど、諦めなかったのは未来なのだ。私はその助けをしたに過ぎない。


「未来を褒めてあげてください。私たちは結局見守ることしかできなかった。どんな言葉も本人が諦めていれば、何の意味もないんです。でも未来は諦めなかった。私たちのために頑張ってくれた」


 思い返せばいつだって未来はそうだった。記憶を消すのをやめたときも、病気に向き合う決心をしたときも、死にたくなるほどの苦痛の中でそれでも諦めない決意をしたときも。


 最後はいつだって自分の意志で進むことを選んだのだ。


 振り返ると未来は照れくさそうに笑っていた。だけど突然、ぽろぽろと涙を流したかと思うと、ふらつきながらベッドを降りてぎゅっと私を抱きしめた。


「怖かった。怖かったよ……」

「もう、大丈夫だよ」


 私が優しく背中を撫でてあげる。ずっと我慢していたのだろう。でも病気がほとんど治って、気が緩んだのだ。本当は未来だって不安で不安で仕方なくて、いつだって泣きたい気持ちだったのだろう。


「好きなだけ泣けばいいよ。受け止めてあげるから」

「……うん」


 そうしてクリスマスは静かに過ぎていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る