第5話 スマホ

  洗濯終了の音かと思ったら、電子音は春目の背後から聞こえて来た。

 洗濯機に寄りかかり、モーターが立てる攪拌音に耳を傾けるように目を細めていた春目が、少し慌てた様子で、彼女がいつもたすき掛けに背負い、生活に必要な物を入れているドンゴロスと呼ばれる麻布の巾着袋から、筆箱のような、弁当箱のようなブリキ製の箱を取り出す。

 錫でメッキされた鉄板に反響して耳障りな電子音と振動音を発する平べったい箱を、春目は几帳面に開いて中身を取り出す。


 春目が手にしていたのは、スマートフォンタイプの携帯電話だった。画面を一瞥し、一瞬安心したような表情を浮かべた春目は、ややぎこちない様子で画面をタップし、耳に当てる。

 電話相手の声は小熊が耳を澄ましても聞こえない、電話をする時に不必要に声を張り上げない、用心深く抜け目ない奴だということだろうか。

 春目とスマホの番号を交換するような関係の人間で、小熊が思い当たる人間が一人居た。春目が受信の悪いトランシーバーで通話するように大きな声を出す。

「竹千代さんですか? そっちでの用は終わりましたか?」

 そう、この女。


 小熊の目の前で、春目とスマホ越しに話しているのは、竹千代と名乗る女、小熊がこのサークル、節約研究会と係わりを持つ理由となった女、小熊がサークル部員になることを頑として拒んでいる理由もまたこの女。

「今、小熊さんが部室に遊びに来てるんですよ」

 小熊は今すぐ春目のスマホをひったくって訂正したかった。このサークルの部室に来たのは、雨で濡れたコートの洗濯のためで、好きこのんで遊びに来たわけじゃない。


 竹千代の返答はやはり聞こえない、スマホ越しに春目に聞こえて、その近くに居る人間には聞こえない声量を熟知しているんだろう。彼女がその技術が必要とする場面はしばしば訪れる。例えば怪しい競売の場で、聞き耳を立てている周囲のブローカー連中に覚られることなく、電話相手に落札の上限価格を伝えなくてはならない時など。

 小熊には聞こえない会話を交わしていた春目はスマホを切った。小熊に喜んで欲しそうな表情で言う。

「竹千代さん、あと十分ほどで戻るそうです」 

 つまり、あと十分以内にここからおさらばしないと厄介なことになるということ。


 通話を終えたスマホを、裏側にシリコンゴムらしき緩衝材が貼られたブリキ箱に大事そうに仕舞い、コーヒー豆を船便輸送する時に使われていたという麻袋を縫って作ったドンゴロスの巾着袋に納めた春目に、小熊は話しかけた。

 「スマホ、買ったんだ」

 一つ頷いた春目は、一度巾着に入れたスマホを馬鹿丁寧に取り出し、ブリキケースを開いた。

 「必要だと思ったので、竹千代さんに安い機種と料金プランを選んで貰ったんです」

 スマホでお喋りを楽しむ友達や家族の居ない春目は、真新しくまだ保護ガラスも貼ってないスマホの画面を、友達でも家族でもない、奇妙な関係の竹千代との繋がりであるかのように撫でていた。


 「スマホが買えて料金も払える、金回りが良くなったのはいいことだ」

 小熊はスイングトップ・ジャケットの内ポケットに突っ込んであるiPhoneを撫でながら言った。このスマホはバイク雑誌の企画に協力した縁で、ほぼタダで貰ったものだが、学校の図書室やネットカフェに行かず、自宅や出先で調べ物やネット通販が出来るようになったことで、小熊の生活は随分豊かになった。

 高校の同級生やバイト先で出会った人たち、バイク事故で骨折入院した時の病室仲間とは、今でも用がある時、あるいは何の用も無くてもしょっちゅうLINEをしている。

 

 小熊の言葉を聞いた春目は目を細めて笑う、見覚えのある笑顔、学校の先生が物を知らない生徒に、噛んで含めて教える時のような顔。

「小熊さん、お金が無いからスマホを持つんですよ」

 それから春目は、簡単な言葉、トゲの無い言い方を選ぶように、ゆっくりとした口調で話し始める。

 春目の話によると、今はもう貧困な人間にとって定番の日雇い仕事ではスマホが必須で、無いことには応募すら出来ないらしい。

 小熊にとって仕事とは、自分から応募するものでなくオファーを受けてから受注するか決めるものだが、それらに必要となるクライアントとのやり取りにも、確かにスマホは必須。


 日々の消耗品を買うのも、維持コストや在庫リスクを負う実店舗より、ネット通販のほうが安い物は数多くあり、店で買い物する時のクーポンも、今ではスマホが無いと入手できないらしい。

 そういえば小熊も、前年まで銀行に払いに行っていた公共料金の支払いをスマホで済ませ、随分ラクになったと思わされたことがある。

 明治時代に電話が現れた頃、あるいは平成初期に携帯電話が普及した頃の人たちは、こんな自分の生活がアップデートされた気分を味わったんだろうか。それとも小熊が今感じているような、自分を縛る鎖が一つ増えたような気持ちになっていたのか。


 洗濯乾燥機から電子音が鳴り、小熊のコートの洗濯と乾燥を終えたことを告げる。小熊は先ほどより幾らか小奇麗になったトレンチコートを着た。

 腕時計を見ると、表示された時刻は先ほどの電話から五分弱。目的であるコートの洗濯を終え、外では雨がほぼ止みかけている、春目は小熊が最初に会った時より良好な生活を手に入れていることも確かめた。

 あとは十分の時間が経つ前にこの部室からおさらばすれば、面倒な人間に出くわさなくて済む。

 春目に洗濯の礼を伝え、プレハブ部室の引き戸を開けたところで、小熊は自分の目論見が外れたことを知った。

 プレハブの前に静かに停車するスズキ・エブリィの軽ワンボックス車。運転席のドアを開けて出て来たのは、このサークルの部長、竹千代と名乗る女。

「やぁ小熊くん。この賢人住まう森の奥まで我々を訪ねて来るとは、嬉しいよ」

 そう、こういうことをする女だ。

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