3 - 7 響野

「明朝S県の無藤家に向かいます。響野さんも付き合ってください」

 市岡稟市はそう言って、席を立った。

「木端さん、これからもっと具合が悪くなると思いますけど、気合いでなんとかしてください」

「気合いでどうにかなる問題か?」

「具体的には黒い髪に白いワンピースを聞いた腐臭のする女性の幽霊が目の前をチラチラしたり、つわりとしか思えない症状に襲われたり、得体の知れないものに孕まされる悪夢を見ると思いますが、どうにか正気でいてください」

「……ふざけてんのか?」

 木端と稟市が真っ直ぐに向き合うと、稟市の方が幾らか背が低い。三白眼の木端に鋭く睨み据えられた稟市は、臆することなく首を縦に振る。

「ふざけてません」

「ふざけてるだろ。弟がいる女に感染する、ってことを試すために私を呼び付けたのか? どういう倫理観なんだ?」

「殺し屋さんが始末した人間の遺体を更に片付ける掃除屋さんに倫理を問われるというのは些か不本意ではありますが……まず、『試すため』ではありません。ほとんど確信していたので」

「拝み屋ぁ」

「木端さんは保険です」

 手紙の入った鞄をなぜか響野の手に押し付けながら、稟市は続けた。

「この場にいる人間が全滅した場合の、保険」

「はあ……?」

「木端さんに何かがあれば、

 一瞬も迷わず、木端は即答した。

「私は掃除屋だ。関東玄國会の構成員ではない。ヤクザはヤクザの面子のためには素早く動くが、一介の──死体を片付けるためだけに存在している集団の中のひとりがくたばったところで、指一本動かしはしない」

「それはねえんじゃないか」

 口を挟んだのはマスター──逢坂一威だった。突然話に割り込まれ、きょとんとした様子で目を瞬かせる木端を真っ直ぐに見据えて彼は言った。

「俺が知る限り、玄國会の掃除屋の筆頭が女だったことは一度もない。木端、おまえはその前例を覆したんだ。それに何より仕事が早い。おまえを失うというのは、玄國会としてはかなりでかい損失だぞ」

「そんな……褒められてもですね……」

 複雑な表情になる木端に大きく頷いて見せた市岡稟市は、

「私も命を張っているということですよ。木端さんに何かがあったら、、関東玄國会は私を的にかけるでしょう。一般人だとか弁護士だとか、そういうのは一切無関係に、ね」

 それではまた明日、と軽やかに言い捨てて、市岡稟市は純喫茶カズイを去った。最悪の体調で動けなくなっている弟のヒサシ、押し付けられた鞄を抱えたままで呆然と立ち尽くす響野、それに青褪めた顔の木端とカウンター席の間宮、その全員を置いたまま消えた──いや。長谷川清一だけが、市岡稟市とともに店を去っていた。誰も気がつかないうちに。

「誘拐じゃん」

 間宮最が煙草を取り出しながら唸った。清一という未成年者がいるのを理由に、彼女はこれまで煙草を吸っていなかった。側に歩み寄った木端がライターの火を近付ける。「どうも」と呟いて間宮は紫煙を胸いっぱいに吸い込んだ。

「清一は、まあ、無関係といえば無関係だからな」

 マスターが呟く。響野も同感だ。清一が鳶職のバイトをしているという理由だけで、心霊写真、心霊現場になった場所を撮影した写真を見せて謎解きを楽しんでいた。そう。楽しんでいたのだ、響野は。だから彼を巻き込んでしまった。直接的には清一ではなく彼の育ての親、清一が『オジキ』と呼んで慕う吉平のことなのだが、そういえば吉平は大丈夫なのだろうか。

「とりあえずこれ以上死人は出ないんじゃない」

 ヒサシの声がした。掠れ切った声だった。

 水飲むか、と逢坂がグラスを片手にヒサシの丸テーブルに近付く。グラスの中の透明な水をひと息に飲み干したヒサシは大きく咳き込み、肩で息をして、「やっと見えなくなった」と呻いた。

 ──見えなくなった、とは。

「お姉さんのこと?」

 尋ねるのは間宮だ。ヒサシは肩を竦め、

「響野くん、鞄の中」

「え?」

「開けてみて」

「い、嫌だ……」

 かなり嫌だった。この鞄の中には響野の勤務先である鵬額社、中でも雑誌の埋め草としてホラー関係の記事を提出している月刊海音の編集部に送り付けられた無数の、不穏な手紙が詰め込まれている。少なくとも七通は入っている。それを改めて見る気にはなれなかった。

「いいからぁ」

 ゆらりと立ち上がったヒサシが、響野の手から鞄を奪い、そのまま中身を床にぶち撒ける。


 臭いがした。

 腐臭が。


 間宮と木端も顔を歪めている。不思議そうに目を瞬かせているのはマスターだけだ。彼にだけはルールが適用されていないのだから、当然か。

 鞄の中には、七通どころではない、大量の白い封筒が詰め込まれていた。床に溢れるそれらは既に、腐っているように見えた。

「稟市にいちゃんが読み上げたのは七通だけだったけど……」

 崩れるようにその場に座り込み、封筒をひとつ摘み上げたヒサシは力なく笑った。

「本当はもっとある。100はある」

「100」

 マスターが呆れたように顎を撫でる。

「そんなに送られてきていたのに、全部無視してたのか? その……憲造、おまえの上司は」

「知らないよ俺だって、今日初めて知ったんだから」

「まあでも無視したくなる気持ちも、分かるといえば分かる」

 白い封筒を乱暴な手付きで破りながら、ヒサシは笑った。

 そうして一同に見えるように翳された便箋には、


『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』

『赤ちゃん』


 小さな一筆箋を埋め尽くす端正な手書きの文字に、響野は力なく笑った。

 おそらく他の封筒の中身も、全部これなのだろう。

「俺も行く、S県」

「死んだら骨は拾ってあげる」

 ヒサシの宣言に、間宮が投げやりに応じた。

 木端は再び壁に背中を預け、うんざりした様子で顔を俯けていた。

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