2 - 3 市岡ヒサシ

 草凪が入院した。理由は分からない。急な体調不良だという。


 病院から直接職場に向かった響野を迎えたのは、同僚たちの不安げな顔と、不穏極まりない情報だった。

「昨日、知らない男が来なかったです? 草凪さんのとこに」

「知らない男?」

「背が高くて顔が良くて態度のでかい……」

「いや、分からん。それより響野、おまえも大丈夫なのか? 知り合いの地鎮祭に付き合ってぶっ倒れたって聞いたぞ?」

 不安がりつつも優しい声をかけてくれる同僚たちに「大丈夫」と頷き、

「俺よりも草凪さん。いつ入院したんですか? 退勤後?」

「一応退勤後──かな? 俺は残業中だったんだけど、草凪さんは定時上がりで……何時頃だったかな……」

 と、丸眼鏡の係長が自身のデスクでキーボードを叩きながら言う。

「そうだ、連絡が入ったのが20時半……警察からだ。メモってある」

「警察?」

 あまり予想していなかったフレーズが出てきた。目を丸くする響野に、

「二日ぐらい前に俺ら全員人身事故に巻き込まれて、草凪さんだけ無事だっただろ? あれの逆バージョン。草凪さんが乗ってた電車が、人身事故起こしたらしいんだ」

「の、乗ってた電車が、ですよね? 草凪さんが飛び込んだとかじゃなくて」

「そだな。で、緊急停止した電車ん中で草凪さんがぶっ倒れて、救急車が呼ばれて──」

 本当に逆バージョンだ。

「めちゃくちゃゲロ吐いたとか?」

「そこまでは分からん。ただ、退勤前に何かおかしな行動を取っていなかったかとか……あれは、こう、アレだな。アレを疑われてるな」

 係長は真顔でカッターシャツの袖を捲り上げ、注射を打つ仕草をした。薬物。草凪に限ってそんな。そんなことは。

「俺もそう思うよ。あの人の取り柄はクソ真面目なところだけだから」

「ですよね……で、今もまだ病院なんですか? 草凪さん」

「らしい。さっき嫁さんから電話があった──よな? 米田よねだ!」

 米田と呼ばれた女性社員が「あったっす〜」と間伸びした声で応じる。

「意識は戻ったけど出社できる状態じゃないって……草凪さんの奥さんとは思えないぐらい丁寧な喋り方の人だったっすよ〜」

 米田と係長の声を聞きながら、私用スマホを取り出して着信履歴を確認する。市岡ヒサシからの着信があったのは昨日の19時半のことだ。編集部に警察から連絡が入ったのは20時半。草凪が退勤したのがいつも通り定時だとしたら、彼は17時半に職場を出て、18時には家に帰り着いていたはずだ。19時半。いったい何があっての19時半なのか。

 考えていてもキリがない。「ちょっと出てきますわ」と言って響野は脱いだばかりのジャケットを羽織る。

 昨晩、市岡ヒサシはスマホ越しに言った。

 ──と。


 草凪は、職場からも自宅からもだいぶ離れた総合病院に入院していた。

 市岡ヒサシは自分で言った通り、病院の前に置かれているベンチに腰を下ろして響野を待っていた。

「おっそ!」

「いやこれでも出勤即外出したんすけど」

「俺は昨日の晩からここにいた」

「え?」

 そういえば昨日と同じ服装をしている。橙色の派手なTシャツに膝丈のパンツ、それにリネンのジャケット。足元は裸足にサンダルだ。

「響野くんの職場、ちょっとセキュリティ厳しすぎない? エントランス前に立ってるだけで警備員さんに話しかけられまくったんだけど」

「それはまあ、仕方ないっしょ……大昔には爆発物送り付けられたりとか、社屋の前で右翼の人に切腹されたりしたらしいから……」

「社屋の前で!? どこ!? エントランスで!?」

「いや、エントランスがまだない時代。本当にビルの前で──って、それはいいから」

 気になるのは草凪の容態だ。また、ヒサシの電話から編集部に連絡が入るまでのタイムラグも気になる。

「まあお座んなさいな」

 と、ヒサシが木製のベンチを叩いて言った。大人しく隣に腰を下ろすと、ヒサシは煙草に火を点け、

「病院の敷地内は禁煙って書いてあるけど」

「怒られたら消すピ。それより響野くんの上司さんよ」

 紫煙を吐きながらヒサシは片頬だけで笑う。

抱え込んでるな、あれは」

「まずい……って、読者からの感想とか、怪異についての情報とか、そういう?」

「それに近い。響野くんの上司ってどんな人? 部下に直接情報を伝えて事件の規模がでかくなっちゃうのを防ぎたい系の隠したい人?」

 思案数秒。響野は大きく首を横に振る。

「どっちかっつと俺らのことウザがってる。ウザいから情報共有もしない系」

?」

「俺──と同僚、鵬額社に編集部ごと引っこ抜かれるまでは大阪で週刊ファイヤーっつう雑誌やってたんすよね」

「あーなんか聞いたことある。エログロヤクザに風俗系、素人エッチ写真の袋綴じが名物の雑誌だっけ?」

「詳しいっすね……」

「俺はなんでも知っているのだ! っていうか俺のカノジョで大阪に住んでる子がいて、その子が愛読者だったんだよね〜」

「え、マジ」

「デリヘルで働いてる子なんだけど、ファイヤーに記事載ると客が激増するから助かるっつってて」

「そ、そうなんだ……」

 何もかも初耳だ。ヒサシはヒモで、碌に仕事もせずに数名の『カノジョ』の家を点々として生活しているということだけは知っていたが、まさか大阪にも港を持っていたとは。

「で、そのファイヤーを出してた出版社が倒産することになって」

「あらま」

「まあ社長は出版業以外にも色々やってたおっちゃんだったからそれほど困らなかったっぽいんだけど、俺らのその後を心配してくれて。みんな転職活動とかしてたんだけど、急に、東京の鵬額社が編集部丸ごと引き取ってくれることになったから行きたいやつは行きなさい──って言われて」

「ふむふむ」

 そうして響野たち元週刊ファイヤー編集部の面々は一斉に上京した。響野はそもそも東京の出身だが、東京で暮らすのは初めてだという同僚も多くいた。そして既に鵬額社、草凪の指針には付いて行けないと言って辞職して大阪に戻った者もかなりいる。

「草凪さんはもともと月刊海音の編集長で、俺らの面倒見る役まで押し付けられてダルかったんじゃないかな。ファイヤーのことも『低俗な雑誌』って言ってて辞めた同僚と喧嘩になってたことあるし」

「ははーん。なるほどねぇ」

 吸い殻をジャケットの胸ポケットから取り出した携帯用灰皿に捩じ込み、ヒサシは黒髪をわしわしと掻き回す。

「まあなんとなく把握。じゃ今度は俺の番ね。俺昨日、響野くんの病室を出て真っ直ぐ鵬額社に向かったんだけど──」


 鵬額社の社屋は大きい。エントランスも立派だ。ICチップが入った社員証を持っている人間しか社内に入ることはできない。また、大勢の警備員がうろついている関係もあり、明らかに社員でも来客でもないヒサシは僅か1時間ほどの間に10人近い警備員に声をかけられる羽目になった。これでは駄目だと思い、鵬額社にほど近いコンビニで飲み物と食べ物を買い、草凪という名の響野の上司が出てくるのを待つことにした。顔を見たことがないことに気付いたのだが、『月刊海音 編集長』で検索をかけたらすぐに顔写真が出てきた。出たがりなのだろうと判断した。17時半。草凪と思しき男性がエントランスから姿を現す。すぐに声を掛ける気はなかった。警備員の目に付く場所で動いて、また不審者だと思われたら堪らない。会社の最寄り駅まで移動する後を付けて、それから声を掛けようと思っていた。

 だが、草凪はすぐにタクシーに乗ってしまった。想定外だった。ヒサシも速やかにタクシーを拾い、「あのクルマを追ってください」とやることになった。30分ほど走っただろうか。草凪は自身の勤務先がある区を抜け、どちらかというと下町と呼ばれる場所でタクシーを降りた。見覚えのある場所だと思った。

(昨日の地鎮祭か!)

 気付いた瞬間、嫌な予感に襲われた。なぜ草凪がこの土地を訪れるのか。昨日、響野は地鎮祭のために急遽休みを取ったと言っていたが、場所も報告してあったのか?

 革のカバンを胸の前で抱えた草凪は、何かに怯えるように背中を丸め、小走りに例の土地に向かう──地鎮祭を行った土地。今日は施工は中止しているはずだ。

 ヒサシの父であるさくが儀式を終えたばかりの土地に、草凪は足を踏み入れた。響野が唐突に倒れて大量のゲロと髪の毛を吐くことで阿鼻叫喚の騒ぎになっていたにも関わらず、逆は淡々と儀式を終えた。最後は土地の四方に清酒を撒き、簡易的な祭壇を作り、「明日一日は動かさないでください」と現場の責任者である吉平とかいう男──元ヤクザらしい──に強く言い含めていた。

 その祭壇の上に置かれた塩や果物を乱暴に払い落とした草凪は、空になった空間に大量の紙の束を叩き付けた。

「これでいいだろ! もういいだろ! 勘弁してくれ!!」

 そう喚いた草凪は、小一時間ほど祭壇の足元に蹲り、頭を抱えて泣いていた。ヒサシは草凪が号泣している姿を黙って眺めていた。

 やがて草凪はよろよろと立ち上がり、足元に落ちていたカバンを拾うと祭壇の側を離れ、どこかに向かって歩き去って行った。方向的に駅に向かったのだと思う。後を追うか祭壇に叩き付けられた紙の束を確認するかを一瞬迷ったが、ヒサシは結局紙の束を選んだ。地鎮祭の効果はなくなってしまったかもしれない。父は怒るかもしれない。あとで事情を説明するためにスマホを取り出して荒らされた祭壇の様子を撮影し、それから清められた──はずの土地に入った。

 輪ゴムで纏められた紙の束はすべて、手紙だった。『鵬額社 月刊海音内 週刊ファイヤー編集部御中』。どの封筒にもそう書かれていた。草凪が捨てて行ったのだから、自分が拾っても問題はあるまい。そう思って手を伸ばした先に、あの女がいた。


 地鎮祭にも現れた黒い髪に白い服の女。

 眼球が爛れて落ちたような眼窩。乾いた黒髪は腰よりも長く、白いワンピースは布が腐っているようでボロボロだった。


 その女が、長身のヒサシの顔を覗き込むように見上げていた。


「邪魔」

「しないで」

「よう」


 女はそう言った。腐臭がした。

 思わず息を呑んで、飛び退いた。女がしゃがれた声で笑った。


「もらう」

「から」

「ねえ」


 。嫌な響きだった。

 卒倒した響野憲造の腹を撫でてやったのを思い出す。あの時は、なんとなく、そうしてやるのがいちばん良いと思ったのだ。なんとなく。

 なんとなくの正体を突然に突き付けられた。


「もらうから」


 言い置いて、女は消えた。砂でできた城が崩れるかのように、するりと、消失した。

 草凪が置いて行った手紙に触れる気にはなれなかった。この土地の祭壇については父に相談しよう。そう決めて、後退りで土地を離れた。

 草凪が去って行った方向──駅に向かって歩いている途中で、その駅を使用する唯一の路線が人身事故を起こしたというニュースがスマホに飛び込んできた。ニュースアプリを入れておいて良かったと思った。それで歩きながら響野憲造に電話をかけた。


「響野くんの上司が入院してる病院前で会おうぜ」


 時計を見たら19時半だった。そんなことがあるか? 17時半に草凪の追跡を開始して、この土地に辿り着いたのが18時過ぎ。草凪は10分ほど怯えて縮こまっていたが、そこから、軽く1時間以上が経過している。


 訳が分からない。

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