宮本武蔵を名乗る男

 琴は薙刀の鞘を抜いた。薙刀の刀身は反りの浅い静型だった。女が武芸としてたしなむ薙刀は反りの深い巴型が主流だが、琴は室内戦や乱戦を意識して、刺突に特化した静型を好んでいた。あとは、琴が静御前の義経との悲恋の伝説が好きだというミーハーな理由もあった。

「え、どういう……?」

 戸惑いながら、弥一郎も抜刀する。

 すると、雑木林の中から六人の賊が現れた。

 その中のひとりは──

「一郎さま!」

 かつての新徴組組士、山田一郎だった。山田一郎は清河八郎が殺害された後、新徴組を牛耳ろうとしていたが、幕府からの支度金を着服していたことや、組の活動費として商人や町人に強談を迫っていたことが明るみになり、組除け(新徴組から除籍されること)に処された男だった。

「久しぶりだね、中沢琴。君、まだそんな格好して侍の真似事なんてしてるのかい? お茶目だねぇ」

 山田一郎は琴をせせら笑う。

「……まねごと……なんかじゃありません」と、たどたどしく琴は言う。

「新徴組を乗っ取り損ねた男が、偉そうにお琴さんにものを言える立場かえ」

 白んだ眼でメンチを切り、口を歪めながら佐々木如水ささきにょすいが山田一郎をあざ笑う。

「なんだって?」

「商家の家に押し入って賊のをしとった男が、賊そのものに身を落とすとは哀れじゃのう。ここで、お主の始末をつけちゃるわい」

「ちょ、佐々木さまっ」

 この老人、状況があまりにも不利だというのに相手を刺激しすぎだ、琴は不敵に笑う佐々木を制止する。

「その僕の集めたお金で活動してた君たちはいったい何なんだい? 僕のおかげで新徴組はていを成したんだ。清河八郎がいなくなって、路頭に迷うはずだった君たちを、導いてあげたのはこの僕じゃないか。何が尽忠報国だよ、君たちは報いるべきものに報いてないじゃないか、この僕という存在にさぁ。とんだ不埒ものじゃないかぁ」

 ねっとりとした口調でくねくねと体を動かしながら山口一郎は語る。その道化ぶりっから、無害で無益そうな男だが、過去の経歴は凶悪そのものだ。

「ぬかせ、公儀からの支度金を私用に使うわ商人の家に強談をかけるわ、逆にそのせいで浪士組は取り潰しになる所じゃったぞ」

 細いささくれだった枝のような老人、佐々木如水はいよいよささくれ立つ。白髪の短髪も松の葉のように逆立ちそうだった。琴の制止を聞こうとしない。

「汚れ役を進んでやったんだ! 僕は新徴組のために資金繰りをしていたんだぞ! 大儀があった! それなのに、幕府の奴らときたら……この僕を……盗人扱いして新徴組から追放したんだぞ!」

 一転して山田一郎は激昂した。

「ほほぅ、遊郭で放蕩ほうとうしとったのも大儀かえ?」

「天下国家のために身を削ってたんだ! 少しくらい役得があって当然じゃあないか! 僕が注いだ心血を思ってよ! なのに、それなのに組除けになる時は誰も僕をかばってくれなかった! 僕を犠牲にして責め苦を背負わせて、挙句さげすんで追い出したんだ! 君たちはくそったれだ! おまわりさんって慕われるのは僕のはずだった! 僕が作った道を、何もかも、君たちが奪い取ったんだぞ!」

「やべぇ……」

 山田一郎の様子の普通でない様子のおかしさに弥一郎がつぶやく。

「ここで君たちが無残に死ねば、酢漿草かたばみも赤笠※も誰も頼りにしない、誰も恐れない。僕のいない新徴組なんて……そうなっちゃえばいいんだ」

(※赤笠:新徴組に制服はなかったが、揃いの赤笠をもって見廻りをしていたため、“赤笠”とも呼ばれていた)

 山田一郎は目を輝かせて嗤う、その時には全員がすでに抜刀していた。

「みなさん、お覚悟はよろしいですね」

 薙刀を上段に構えて琴は仲間に言った。中段の構えの方が安定はするが、姿勢が大きく見える薙刀の上段は、演武で好まれて使用されるほどに威嚇いかくが効く。

 じりじりと、六人の賊が三人の組士を取り囲んでいく。

 覚悟はあった。だが、輝く侍の矜持きょうじに、暗い死の恐怖が覆いかぶさろうとしていた。

「……ちょっとすまんが」

 新徴組でもない、賊でもない男の声がした。境内の隅で焚火をしていた物乞い風の男だった。

 奇妙なことに、寸前まで誰もその男が接近していたことに気づいていなかった、体が恐ろしく巨大でかいにも関わらず。

 異常なのは体の大きさだけではなかった。その男の気配が、かげに溜まった混沌どろの様に禍々しく濡れていた。

 月明りを背後にしているというのに眼光はぎらつき光っていた。長い頭髪は油も使われず、されど意志を持った草花の如くしっかりと後方に伸びている。凄まじい巨体だというのに、なぜか体は綿毛のように軽そうでもあった。ことごとくの印象がこの世の理にあらざる者だった。絵巻物から飛び出てきた牛鬼だと言われても信じられたかもしれない。

「「「「誰だテメェはッ!?」」」」

 同時に複数の男たちが叫び、そこにいる全員の切っ先がその男に向けられていた。

「……名乗るのは、かか、構わんが、その前にこちらの質問に答えてくれるのが筋だろう」

 口調に吃音きつおんの気がある男だった。

「質問? ……なんだ?」

 賊は切っ先を向けたまま聞く。その男の登場の異形さに、皆が状況を忘れていた。

「今は、ししょ、正保何年だ?」

「……“しょうほう”?」

「しょうほうってのは年号のことかい?」佐々木如水は言う。「正保はもう……二百年以上前、家光公の頃……だが?」

「二百……」

 男はそれを聞いて茫然ぼうぜんとしているようだった。

「テメェは何者だ、俺らに何の用だ」と、賊は言う。

 しかし、男は顎に手を当てて何か考え事をしているようだった。

「おい!」

「しし、新免武蔵だ」

「なに?」

「そうだな、もも、もしかしたら“宮本武蔵”の方が名が通っとるかもしれん」

「宮本武蔵? そう名乗ってるのか? あの剣豪の名を?」

「ほう? もしかして知ってるのか、俺の名を? ほほぅ」

 宮本武蔵を名のった男は満足げに「二百年も残りおったか……」と顎を撫でた。

 しばらく、全員が沈黙していた。

 もの狂いの類だ。即座に誰もがそう思っていた。

 しかし、観察をしていたのは男の方もだった。

 男の眼球は奇妙に動いていた。常人ならば首を動かすであろう所を、左右の眼球を別々に、ぎょろりぎょりと可動させているのだ。首も体も動かさず、男は周囲の観察を終え、そして琴たちのたずさえている提灯ちょうちんには揃いの酢漿草かたばみの紋が入っていることに気づいた。

「い、いい今は、未だ徳川の世か?」

「ああ、そうだ、殿。とはいっても、それどころじゃねぇがな」

「くく、覆りそうなのか?」

「幕府どころじゃねぇよ、もう日の本がどうにかなりそうなんだ」

 賊の話を聞いて、男・武蔵は目を爛々らんらんとさせて「ほぉ」と言った。

「用がねぇんだったら、とっととどこかに行けよ。あの武蔵様がこんなところで野宿してちゃあ名が泣くぜ?」

「うむ、俺もそう思う」

「なに?」

 武蔵は囲まれている琴たちを見て言う。

「貴殿らは、どど、どこかの家中の者か?」

「は、まぁ……」と、琴は言った。

「庄内藩預かり公儀御用方の新徴組様よ」と、佐々木如水が言う。

 武蔵はにやりと笑った。愛嬌と不気味さを併せ持った笑顔だった。

 すぅと武蔵が動き、賊に近づいた。静かすぎて誰もその動きを動きと捉えていなかった。六尺(約180cm)もの巨体であるというのに。

 そして武蔵は賊の腰から脇差を抜き取り、その賊の喉に脇差を刺した。

「……かは?」

 賊が口から血を吹き出すと同時に、武蔵は賊の手から刀を奪い取り、隣にいた仲間の賊の手首を切り落とした。

 二刀を手にした武蔵は、上半身をまったく揺らさずに、するするとまた別の賊に近づく。

「こ、このぉ!」

 賊が横面を振るった。

 武蔵は賊の顔面に脇差を突き出しながら、その攻撃を受け止める。

 眼前に切っ先を突き付けられのけぞる賊、その胸に武蔵は刀を突きさした。

「かぁ?」

 さらに脇差の横なぎで武蔵は賊の両眼を切り裂いた。

「ぎぃああああ!」

 三人目をやられて、初めて賊は事態を理解した。武蔵を名乗る男が自分たちの敵に回っていると。

「てめぇこの野郎何のつもりだぁ!?」

「ここ、これで数は対等だぞ」

「……!」

 状況を理解した琴たちは一斉に賊に切りかかった。

 琴は得意の脛への一撃で賊の足首を切り裂いた。速く、刀よりも遥かに長い間合いの薙刀のこの一閃を、初見で対応できる剣士はまずいない。

「ひ、ひぃ~~!」

 賊が戦闘不能になったことを確認すると、琴は切っ先を山田一郎に向けた。

「どうしてみんな僕の邪魔するんだよぉ!」

 刀を振りかぶる山田一郎、琴は再び脛を狙う。

 しかし山田一郎は寸でで足を引きそれをかわした。

 だが琴は素早く薙刀を操り、返す刀で袈裟で切りかかった。

「ぐぅ!」

 長身の琴から繰り出される薙刀の一撃、からくも山田一郎は刀で受け止めたが、その一撃で刀が刃こぼれを起こしていた。

 一方、佐々木如水は賊と鍔迫り合いになっていた。血気盛んだが、老齢の佐々木は賊に力負けし始めていた。

「う……ぬぅ……。」

 鋼と鋼が擦れる音が不快に響く。

 あわやというところだったが、賊の背後を弥一郎が切りかかった。

「がっ?」

 そして怯んだところを佐々木が抜き胴で切り裂いた。

 賊は口から唾の飛沫を飛び散らせながらうつぶせに倒れた。

 極度の緊張からの解放から息を切らせている佐々木、一方の弥一郎は背後から人を切ってしまった罪悪感で顔が蒼白していた。だが……

「でかしたぞ、わっぱ

 と、武蔵はそんな弥一郎を満面の笑みで称賛した。

「は……はぁ……。」

 しかし、突然現れた自称宮本武蔵に褒められても慰められるところはなかった。

「ん? 琴さんや、山田の野郎はどうしたんだね?」と、佐々木が訊ねる。

「……逃げられました」

 琴は苦虫を嚙み潰したような顔で答える。

「敵前逃亡で士道不覚悟っすか、どっちにしたって新徴組うちに残っててもどうしようもない奴だったっすね」

「いやはや、しかし震えが止まらん。よぅ考えたらわしらは六人の賊に囲まれとったわけだからな。ここに倒れとったのはわしらだったかもしれん。身の毛がよだつわい」

 弥一郎は内心「じいさんが挑発したんだろ」と思った。

「はい……でも」

 琴たち新徴組の面々は一斉に武蔵を見た。

「助かりました、貴方さまのおかげです」

「うむ、どうやら、こ、ここではお主らに加勢した方がだと見えたのでな」

「なる……ほど。それで……あの……」

 聞きづらそうに琴が問う。

「何だ?」

「あなたさまは、本当は何者なのですか?」

「だから、言っておるだろう。二度も名乗らせるな」

「えっと、では、つまり……宮本武蔵さまだと?」

「うむ、そそ、そちらが名の通っておるならそれでいこう!」

 琴たちは顔を見合わせる。腕は確かかもしれないが、頭は不確かのようだ。

 しかし、武蔵の両手の大小二刀が琴の脳裏にある言葉を想起させる。


──二天一流


 ほんのわずかだが、あの刀さばきは琴がこれまで見たこともないものだった。その片鱗は、攻防一体となった効率的なものだった。静かで、そして容赦がなかった。

「お~い!」

 ちょうどそこへ、弐番隊の面々がやってきた。

「遅いっすよぉ」

 そうぼやく弥一郎だったが、早く自分たちの功を伝えたくてそわそわしていた。背後からの攻撃だったとはいえ、少年は死線をくぐり抜けた童貞を捨てたのだ。

 山田寛司は琴たちの周りにある光景を見て驚く。

「何と、まさか貴殿らだけでこの人数の賊の相手をしたというのか?」

「おい、五人はいるぞ!」と、山田寛司に同行している隊士が言う。

「正確には六人っす。逃げられちゃいましたからね」

 千葉弥一郎は得意げに鼻を人差し指でこする。

「賊の中に、山田がおったわい」と、佐々木如水が忌々しげに言う。「山田といっても一郎の奴じゃよ」

 新徴組には山田姓が複数いた。

彼奴きゃつめ、我々に逆恨みをしているようだったが、まだ何か良からぬことを企んでおるのか……ん?」

 山田寛司は武蔵の存在に気づいた。

「その御仁は……? 組士ではないが、どうやら賊でもなさそうだが?」

 遠巻きに見ている隊士たちが「でけぇ」と呟いた。

「あ、はい……この方は……えっと、なんというか……。」

 琴が答えづらそうしていると、

「宮本武蔵だ」

 と、堂々と武蔵は名乗りを上げた。

 あの一瞬の剣技を見ていない限り、こう言われてしまうともうどうしようもない。

 山田寛司を以下全員が、もの狂いの類を見るような、痛ましい目で武蔵を見ていた。

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