第49話 襲いかかった。


 大男の眼は、まるで狂気のような血走った眼で、それでいて虚ろだった。


「何だか様子がおかしいな」


 一番安全で闘いの場から遠くに位置する主賓席のレンですら、そう洩らすほどに、男は先程までとは違う空気を纏っていた。

 様子を察したタイガが、レンの一歩前に出て脇に立つ。

 お祭り騒ぎの熱気が観客の気持ちを高揚させて、些細な事など気にならなくさせているのだろう、その異変に気付いた者は、歓声渦巻くコロッセオの中、数少なかった。

 入退場の出入口から奥へ去ろうとしてたオータは、妙な感じに足を止めて振り返る。

 一方、闘技場では剣士が剣をスラリと抜き、構えてジリジリと摺り足で間合いを測って大男の周囲を動いた。

 突然、


「ひひひ…」


 大男はニヤリと緩い口元を歪ませて笑った。


「!!」


 血走るあまりに赤くなった眼球をギョロリと見開き、剣士の姿を捉えるとな何の前触れもなく棍棒を振り回し、剣士を殴り倒した。


「ぎゃっ!」


 潰れた蛙の様な声を発し剣士は地面に伏した。

 その剣士の頭に容赦なく大男は棍棒を何度も振り下ろす。

 オータは異変を感じ、元来た通路を取って返し、おぞましい光景に静まりかえった闘技場に駆け戻った。

 闘技場では、一定の間隔で肉の塊が潰れる音がして、人々の目を、耳を、口を、手で覆わせていた。


「銅鑼を鳴らせ!」


 オータは段上にいる銅鑼の係に叫ぶ。その声がやけにはっきりと響いた。

 はっと気がついた係の男は枹を振り上げ、銅鑼を叩く。

 叩いても止まない凶行に、ようやく観客は「止めろ」と、口々に騒ぎ出した。

 ようやく時の動き出したコロッセオ内は、それぞれに動き始める。

 危険を感じてコロッセオから去ろうとする者。

 野次を飛ばし物を投げ凶行を止めようとする者。

 混乱が波紋のように広がっていた。

 そんな中レンは腰を上げ、国王に侍っていた西の国の騎手達を王の前面と左右に配置させる。


「ここにまでは大事ないと思いますが、念のためお気をつけ下さい」

「おおレン殿。ご配慮、礼を申し上げますぞ」


 そしてレンは法王の方を見た。

 盲目の法王は何が起こっているのか近くの神官に尋ね、下がるようにと神官に導かれる所だった。

 そんな場外の動きなど気に止めることなく大男は、何かに気を触れさせたかの如く、涎を垂らし、口から零れる言語すら何かの叫び声にしか聞こえなくなるほどに暴れ始めた。


「ぐああああっ!」


 男は棍棒を振り回し、眼前の特別席の方へ走り出した。


「きゃあああっ!」

「こっちへ来るぞ!」

「逃げろ!」


 オータの視界にこぞって逃げ出す観客と、アンジェを引っ張って下がろうとするグエンとトミーの姿が見える。


「きゃあっ」


 人波に揉まれて二人の手を離してしまったアンジェが、人波に取り残されて通路に座りこんだ。


「アンジェ!!」

「やだ、腰が…」


 石積みの塀を棍棒で破壊した男は恍惚と一人取り残されたアンジェを見下ろしてニヤリと笑う。

 男の大きな影が細いアンジェを飲み込むみたいに覆った。

 まるで巨大な岩影にいるみたいに影が濃くてアンジェは顔をあげ、そして驚いて動きを止めた猫のように瞳だけを見開いた。


「させるかぁっ!」


 オータは身を踊らせて二人の間に飛び込むと、振り下ろされた棍棒を大剣の腹で受け止めた。

 ガキンッ!

 金属がぶつかる衝撃音がした。


「...っち」


 腕が痺れるくらい重い。

 オータは受け止めたままぐっと腰を落として踏ん張り棍棒を押し返す。

 その衝撃で被せていた布が裂け大剣の姿を顕にさせる。


「オータ、くん」

「ちょっとは惚れそう?」


 オータは肩越しに、にっと笑うとよろめいた男に向かって跳び、ぶんっと一閃、腕を斬りつけた。


「ぎゃっ!!」


 男は決して浅くない傷から血を流し、悶絶してもがきながら後退り獣の遠吠えのような叫び声をあげた。。

 それを目に留めオータは背中でアンジェに駆け寄る二人に叫ぶ。


「兄さん二人!早うっ!」

「分かってる!」


 トミーがアンジェを肩に担ぐみたいに抱えあげ、グエンが支えて出口に向かう階段を走り出した。

 観客席まで及んだ被害に、混乱は一気に広がった。

 満員のコロッセオから我先に逃げ出そうと人々がそれぞれに動きだしたせいで、かえって皆動きが取れずにいた。


「俺達も避難しよう」


 ライリースがそう言うのにアルシーヌは頷いた。

 夜から並んでいたから、結構良い席に座れた。

 故に闘技場に近い前列だ。

 現状、危険に近く出口に遠いとも言えた。

 腕を負傷した男はもがきながら下がって、今度は特別席の向かい側である二人のいる方へ近づいてきた。


「無差別かよ」

「行こう」


 アルシーヌが先に歩き出したその時、後ろで、


「わっ」


 子供の声と、ワンテンポ遅れてベチャッと転ぶ音がした。

 振り返ったアルシーヌの視線の先には、


「大丈夫か?」


 しゃがんで少年に手を差し伸べるライリースの姿と、その上から棍棒を振り上げる男の血走って笑う凶暴な顔。


「ライリースっ!」


 切羽詰まったアルシーヌの叫び声がコロッセオの晴天に響いた。




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