第2話 現実世界の蒼と僕

 人々の娯楽があらゆる進化を遂げた今、VR技術やAI技術が各段に進化し、それは人にとって豊かな生活を送るために必要不可欠の要素となった。それは様々な場面でも見られるし、人々の生活を支えるものとなっている。それはもう、自然と溶け込んでいるものだ。

 ――これは、そんな現実世界の話だ。



 胸ポケットの中にあるスマホが僅かに震えた。画面を見ると差出人は『紅也』と書かれており、僕はすぐさまそのメッセージを開け、書かれた文章を読む。

「……。変化が起きている、か」

 僕は足早で彼女が眠っている病室へと向かう。「外」の彼女に何か変化があったのかもしれない、と淡い期待を持ちながら。

 B病棟の205号室。静かに病室の扉を開けると、そこにはベッドの上で彼女が静かに眠っていた。本型のデバイスを抱きかかえているという点以外は、至って普通に眠っているとしか見えない。

「……蒼さん」

 静かに眠る彼女の髪の毛に触れる。彼女は確かにここで生きているが、意識はない。意識は全て『箱庭世界』にあり、彼女はそこで楽しく暮らしているのだろう。身体の弱い彼女にとっては夢のような世界で、そこで穏やかに暮らし、楽しんでいるのであれば問題はないと見える。だが、現実の彼女の肉体は日に日に弱まっているため、命の危機も少しずつ迫っている。

 彼女――空庭 蒼が箱庭型VR『蒼空庭園そうくうていえん』へ入って1ヵ月。彼女の意識は未だ戻っていない。VRの機能のせいで囚われているだけなのか、それとも彼女の意思で現実に戻りたくはないと願っているのか、それは僕にとってわからない。


 僕――赤鳥 紅也あかとり こうやは、空庭 蒼くうてい あおの主治医であり、そして婚約者だった。

 僕の親と蒼さんの祖父に繋がりがあり、蒼さんの祖父が希望しての婚約だった。ただ僕は31歳、相手は10代の少女で蒼さんも窮屈に思うだろうと感じていたのだが、蒼さんは次第に僕自身に興味を持ち、やがて互いに好意を持つようになった。

 いつの間にか好きになっていたけれど、彼女の心に触れていくうちに心から愛したいと願うようになっていった。そんな日々を築き上げていき、蒼さんが二十歳になったら僕たちは結婚するはずだった。けれど、それはある出来事で叶うことはできなくなったからだ。

 思い更けていると、胸ポケットの中にあるスマホがまた震えた。メッセージの差出人は「伊翠 緑都いすい りょくと」と映し出していた。緑都は僕の高校時代の友人で、ソフトウェアの開発等を手掛けている。気まぐれで飽きっぽいが、腕は確かだとその界隈では有名らしい……と、どこかで聞いた。僕は急いでメッセージ画面を開くと、こう書いてあった。

『よっす。さっきAIの紅也からメッセージ飛んできたから見た。箱庭内に変なイベントが発生したらしいな?解析できるかどうかわからんけど、やってみるわ』

 今、この事について頼れるのは緑都しかいない。緑都は昔、VR関連のソフトも手掛けていたと聞いたから。僕は急いで彼にメッセージを返信した。

『今日、緑都の家に行く。詳しくはそこで聞いていいかい?』

 すると、即返信がやってきた。

『ええゾ。それまでにチキチキやっとくわ』

 彼の腕前を信じ、僕は彼女の帰りを、目覚めを待つ。それしかできないのが歯がゆい。でも僕はそういう人間なのだと感じている。


 ――僕は無力過ぎて、婚約破棄になったのだから当然だ。



 病院での業務を終え、僕は車を走らせて緑都の家へと向かう。病院から彼の家は少し距離があるため、長い道のりとなる。そんな退屈な道中の間に思い出したのは、婚約破棄の話があったあの時だった。


 それは突然の出来事だった。蒼さんの父親が突然、僕を呼び出した。何かしでかしただろうかと戦々恐々としながら、家へ赴いたのを思い出す。だが、蒼さんの父親に言い渡されたことは僕にとってあまりにも衝撃が強く、返事もあのとき声が震えていたと思う。

「蒼との婚約を破棄させてもらう」

 この一言で僕は心に刃物が刺さったかのような、痛みを抱いた。どうして急にと思い、僕は蒼さんの父親に震える声で、問いかける。

「君より腕の良い医者が私の知り合いにいてね。彼を新たな婚約者にしようと思っている」

 そしてこのことについて、僕の口から蒼さんへ説明してほしいと同時に頼まれた。僕はどう言ったら、どう伝えていいのかわからなかった。こんな事を言ったら、蒼さんはきっと悲しむに違いないのだから。せっかく安定してきた体調を、ここで壊すようなことをするのか、と。

 その話を聞いて、僕は蒼さんの部屋へ向かった。道中、足が重くて心も張り裂けそうで、涙が出そうになっていたのを覚えている。蒼さんの部屋に着くと、そこにはベッドの上で楽しく本を読んでいる蒼さんがいた。

「蒼さん」

「なあに、紅也さん」

 僕が名前を呼ぶと、蒼さんは笑顔でいつも出迎えてくれた。そしてその後には僕を抱きしめる。それが愛おしくて、たまらなくて、僕にとって救いのような時だった。それを僕が今から壊すんだと思うと、胸が苦しい。

 一呼吸ついて、僕はついに切り出した。それを伝えると、蒼さんは震えた声で「どうして」とつぶやく。

「どうして、紅也さんは悪いお医者様じゃない!なのに、何故!!」

「……僕から言えることはこれだけなんだ。ごめん」

 蒼さんは大粒の涙を零していた。僕はそれを拭く役目はできない。

 心の中でさよならと唱え、僕はその場を後にした。僕も言いたいくらいだ、どうして、と。僕は僕なりに、彼女のケアをしていた。最近は精神状態も安定して、病状が酷くなることは少なくなっていった。僕がやれるのは彼女の病を和らげることだけしかできないけれど、それでも良いと蒼さんは言っていた。


 そしてその出来事から数日後、蒼さんはVR箱庭の世界へ旅立ってしまう。悲しみと現実から逃げたくて、きっとそうしてしまったのだろう。さらに厄介なことにあのVRから出られる方法は、本人が帰りたいと願わなければ戻れない仕様だった。

 蒼さんは戻りたくないと願っているから、今でもこうして病室で眠っている。そして僕は弱りゆく彼女を見過ごせなくて、悪あがきのように友を頼り、ある方法で救い出そうとしていた。緑都が密かに僕をモデルにして制作していたAIアバターをあの箱庭世界へ向かわせ、彼女を説得させるという方法だった。最初は彼女にバレるのではないかと思ったが、どうやら箱庭世界の蒼さんは現実での記憶がないとうことが後にわかった。

 AIアバター「紅也」が、彼女の住まう箱庭で何をしているのか、どういう変化があるのかと随時報告が飛ぶように仕向け、そして彼女を現実に戻す別の方法も同時に探ってもらっている。


 そうこうしているうちに、緑都の家に着いた。近隣のパーキングに車を止めて、緑都が住んでいるマンションへと向かう。オートロックの部屋番号を入れると、彼は無言でオートロックの扉を開けた。

「緑都」

「今いいとこだゾ。ちょっと待って」

 部屋に入って声をかけると、画面から視線を外さずただひたすらキーボードを打ち続ける親友の姿が。やっと終わったのか、手がぴたりと止まり、こちらへ顔を向けた。

「よっす、紅也」

「……やあ」

 緑都は、ずれた眼鏡を戻しニヤニヤと笑っていた。どうやら解析の作業が楽しかったらしく、彼の顔はずっと笑顔だった。

「それで緑都。何かわかったかい?」

「んー、そうだな。このイベント仕様についてはなんとなく把握できた」

 緑都がいうには、このVR箱庭には突発イベントが少しだけ入っているらしく、今回はそのうちの一つだったそうだ。またイベントは発生すると思うが、そんなに大したことじゃないと語っている。

「あっちの紅也にも指示出したから安心していいゾ。それともう一つわかったこともあってだな」

「何かあったのかい?」

「このVR箱庭を作った人、誰なんだろうなーってずっと探ってたんだわ」

 画面を見ろと言われたので、僕は緑都が座っているデスクまで近づいて見る。画面に映し出されたのは見慣れた名前と、そしてその製作者の写真。

「空庭、藍一郎あいいちろうさん……。蒼さんのお祖父さんだ……」

「名字からして身内かなんかとは思ってたけどよー。個人で開発するには相当だぞ、これ」

 蒼さんの祖父である藍一郎さん。生前に会ってはいるし、むしろお世話になった人物だ。そして蒼さんが最も信頼をし、そして死後、莫大な遺産を蒼さんに手渡した張本人でもある。蒼さんはこれで父親と揉め、頭を悩ませていた節もあった。

「んー……お前の婚約者、色々やべーな」

「元、ね」

 僕はそこをすかさず訂正した。僕と蒼さんはもう、婚約者同士ではないのだから。……本当ならもう見捨ててもいいはずだけれど、これが僕にとって償いなのかもしれない。あの日あの言葉を言ったのは、紛れもなく僕であり、彼女があの世界へ行かせてしまったきっかけを作ったのも僕なのだから。

 その日はそれ以外の新しい情報もなく、雑談を少ししてから僕はそのまま緑都の家から出た。

「紅也」

「何?」

 出ようとした時、緑都に声をかけられた。

「……無理すんな」

「ああ」

 僕は無理をしていると見えていたのだろうか。僕自身は何もそう思ってはいなかったが。

 緑都の家を後にし、僕は自宅へと帰っていった。自宅へと向かう道中、僕はある人の言葉を思い出した。


 ――蒼はね、案外寂しがり屋なんだよ。だから、頼んだよ紅也くん。


 蒼さんのお祖父さんの言葉を思い出しては、心を締め付けられそうになった。


第2話 END

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