第26話
★ 二〇一〇年 七月五日
期末テストを終えてお昼に帰ってきた娘が着替えもせずにウンウン唸っている。なんと二時間も。一体全体なにがあったのかと聞いたみたら「進路希望調査票が書けないぃぃ……」と机に突っ伏して頭を抱えてしまった。なるほど。原因はこのプリントか。
娘は高校二年生。夏休み前ともなるとこの手の悩みが浮かぶのは自然なことなのね。
「そんなの適当に進学とでも書いておけばいいじゃない。ただのアンケートなんだし」
「あんまり適当だとあとで呼び出し食らっちゃうんだよぉ……。進学なら進学でどのランク
の大学なのか、学部はどうするのかとか書かないといけないしぃ」
学部、かぁ。私は大学に進まなかったからどんな学部があるのかすら曖昧だ。パッと浮かぶのは文学部や経済学部、教育学部くらい。医学部は……縁がないにもほどがあるからノーカンね。客観的に見たら不勉強でバカな女だわホント。
「結弦は将来の夢ってあるの? アレがしたいとかコレになりたい、みたいな」
「うーん。しいて言えば……学校の先生や保育士、かなぁ」
それから結弦は顔を上げて「子どもを導く大人になりたいんだよねぇ」と言った。この子がそういった野望を秘めていたなんて知らなかった。私は二人の子育てでもうお腹いっぱいなのに誰に似たのかしら。
「ねぇねぇ。お母さんは子どものころ将来なりたいものってなかったの?」
「私? 私は……なんだろ。あんまりそういうの考えたことなかったわ」
「一回も?」
「一回も」
「えー? 夢がないねぇ……」
「仕方ないじゃない。私は親からそれほど愛情を注がれなかったから将来の夢なんて考える暇がなかったのよ。いつ家を出るか。そればっかり考えてたっけ。十八で妊娠出産したのもそのせいね。まぁ、そのおかげで結弦に会えたんだから今となっては悪い気はしないけど」
「えへへ、それほどでも」
「褒めてないから。調子に乗らないの」
昔の私を見てるようで頭が痛いわ。前の旦那と二十年近く前に出会った時も可愛い可愛いって褒めそやされて舞い上がっちゃったのよね。当時私は高校生だったか中学生だったか。あの男、今にして思えばよく逮捕されなかったわね。
「いずれにせよ、夢を持てる環境に感謝しなさいよ。世界の片隅では今日の命すら保証されてない人がごまんと居るんだから」
「なんか急に教師みたいなこと言い始めたね。そういうお母さんでも親に感謝してるの?」
「そりゃあ少しは、ね」
「どんなどんな?」
プリントそっちのけで身を乗り出す結弦。年頃の娘に話すにはちょっと気が進まないんだけど私から言い始めた手前、逃げるわけにもねぇ……。
「たとえば……容姿だけには恵まれた両親のDNAを引き継いでること、とか」
参観日やPTAの絡みで学校へ顔を出した時に周囲の眼差しから優越感を感じないと言えば嘘になる。私だって人間なのだから承認欲求のひとつやふたつくらいあるんだもの。だというのに娘ときたら「あー……お母さん、顔だけはイイもんね」と呆れた眼差しを向けるの。
「だけとはなによ、だけとは。自慢じゃないけどお客さんに誘われたパーティの会場で芸能人に間違われたことだってあるんだからね。名刺だって取ってあるんだから」
「ほんとお?」
「ホントよ。ほら」
単行本くらいある大きな名刺入れからそれを渡して見せると結弦の目がカッと開いた。
「こ、これ、芸能プロダクションの副社長じゃん!」
「そうなの? でも肩書きが違わない? ほら、統括マネージャーって――」
「それは当時の肩書き! ねぇねぇ! この人って今でも連絡とってたりする?」
「なわけないでしょ。会ったのはその一度きりよ」
「くっ……。上手くいけば私も今ごろ二世タレントとして売れてたかもしれないのに……!」
こぶしを握って心底悔しそうにする娘を見ると「教師か保育士になりたいんじゃなかったの……」と言わずにはいられなかった。意外と俗っぽいのよね、この子は。
「いっそのこと希望進路にタレントって書いたら? それか、アイドルとか」
「いやぁ、私もう十七だからアイドルはキツイでしょー」
「そこは現実的なんだ」
娘の線引きが分からないわ。
「あ、結弦。私そろそろ渚を迎えに行かないと」
「あーいいよ。早く帰れたから私が行く」
「そう? でもスーパーで買い物もするんだけど」
「それも私がする。お母さん、夜から仕事なんだから今のうちに寝ときなよ」
結弦は渚のことを溺愛してることもあって送り迎えを買って出てくれることが多い。私は勤務時間が勤務時間なので素直に助かっているけど、今時こういう子は珍しいと思う。そのせいで渚が結弦にベッタリな甘えん坊になってるけどまぁ、悪いことじゃないからいいか。
「帰ったらちゃんと調査票、書いときなさいね?」
「分かってるってー」
イマイチ信用ならないので私も仕事を終えたら確認しておこう。結弦のことだから大丈夫だとは思うけどあまりにも素っ頓狂なことを書いたら私にまで連絡が来るんだから。
「じゃあお母さん、いってきまー」
すと言い切る前に出て行ってしまった結弦は生き急いでると思われても仕方がないくらいせっかちな子だ。人生は長いんだからもう少しくらいのんびりしてもいいのにね。
*
「なにが”人生は長い”よ……」
閉店後の店内でこぼした呟きは思いのほか大きく響く。あの女に名前と連絡先を書いては貰ったが、そもそも新学期早々に貰ったプリント――渚のカバンの中でクシャクシャになっていたもの――に書いてあったから改めて記入してもらう必要性はなかった。〇八〇から始まる十一桁の電話番号と名前。提示された手がかりは少ないけど事前に下調べをしておいたからこれでも充分。
「似てる……」
何度見ても同一人物のものにしか見えない筆跡が私の解答欄を埋めていく。十三年前の七月五日、行ってきますと元気よく出かけて『ただいま』も言えずに私たちのもとを去ってしまった娘。あの日、結弦に行かせなければと思った回数は百や二百じゃない。
そして私の目の前に現れた飛鳥井こころという女。よりによって職業は教師。悪い夢なら早く覚めてほしい。
「結弦。アンタはまだ、私を恨んでるの? アンタを殺した私が許せなくて化けて出てきたの? そんなに渚を一人にするのが不安だったの?」
あの写真立てに向かって話しかけても答えなんて帰ってくるはずがなかった。分かってる。結弦が私を恨むはずがない。
私の手元には毎年二、三通届くある人物からの手紙がある。送る義務なんてないし、あったとしても十年以上も律儀に送り続ける必要なんてない呪いのメッセージ。不意にその手紙をグシャグシャに握りつぶしてビリビリに破り去ってしまいたい衝動に駆られた。でも、どうしても出来なかった。
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