第22話
*
「姉ちゃん、久しぶり。紹介するよ。僕の担任の飛鳥井こころ先生。なんか、姉ちゃんに会いたいみたいでさ」
目の前に結弦さんがいる。私を連れてきた要くんは誰かに話しかけるような独り言をこぼして古い花を替え、バケツに入れた水にタオルを浸してからせっせと墓石を磨き始めた。
「要くん、結弦さんって……」
「亡くなってますよ。十三年前にね」
私は愕然としながらどうにか口を動かした。学校が終わってから郊外にある墓地へ足を運んだので差し込む夕陽と相まって相当暑いはずなのに、私の体、とりわけ手足が酷く冷たかった。
「だってキミ……亡くなってるだなんてひとことも言ってなかったじゃない」
「だから遠い所にいるって言ったじゃないですか」
「……それ、屁理屈って言うんだよ」
「国語教師の先生にちょっと対抗してみたんです」
墓石を磨きながら言った要くんはこちらを向いて少しだけ微笑んだ……ように見えた。これは笑顔じゃない。人間はどうしようもないほどの惨状を目にして現実を認識できなくなると自我とは関係なく笑ったりすることがあるという。宿主である人間を守るために脳がそういった判断をするらしい。昔から災害現場や事故現場で多くの事例があるけど、要くんの笑みとも言えない笑みはそれと同じだ。正常性バイアスに近い。
「なんで亡くなったか聞いても大丈夫?」
「それ、聞いてるのと同じですよ」
また同じような表情を。今のは私の問いに呆れただけかもしれないけど。やがて要くんは「不幸な事故でした」と言った。
「飛び降り自殺を図った女の人の下敷きになったんです」
★ 二〇一〇年 七月五日 結弦
「あっづー……。渚くん平気? 溶けてない?」
「とける……」
「だよねぇ……。織姫様と彦星様にもっと涼しくしてくださいって願わなきゃ」
七夕を目前に控えた金曜日。保育園からの帰り道で殺人光線といっても大げさでない太陽光が降り注ぐ駅前通りを私と渚くんはヘロヘロになりながら歩いていた。ただでさえ期末テストと進路希望調査で頭がヤられ、夕飯のお買い物で疲労が溜まっているというのに。それに追い打ちをかけるように建物や地面が吸収した太陽の熱が夕方になって放出されて西日がダイレクトで差し込んでくるせいで体感気温はエラいことになっている。はぐれないように手を繋いでいることもあってお互いの手のひらはもう汗でベチョベチョだ。こーんなに暑くてもネクタイ締めて働いてる人が沢山いるんだから本当に尊敬しちゃう。
やだなぁ。大人になんてなりたくないよ。とはいえ学生でいられるのもあと数年。高校生でいられる期間に至っては半年くらいしかないという重い事実がただでさえ暑さで憂鬱な私をさらに暗くさせる。
渚くんは成人するまでまだ十四、五年もあるから羨ましい。当たり前と言えば当たり前だけど私が渚くんの歳の頃は将来のことなんてなんにも考えてなかったなぁ。自分からアクションを動かさなくても大人が守ってくれてたしね。今こうして高校生ながら子育ての真似事をしてるのはその頃の反動かな。
「おねえちゃんおねえちゃん」
「んー?」
汗でしっとりした手が引っ張られたので足を止めた。猫でもいたのかなと思って周囲をざっと見渡してみたけど視界に映るのは人の山ばかりで特におかしな点はない。というかこの雑踏の中で立ち止まるのはなかなかに勇気がいる。小さな子連れだとあからさまに不機嫌そうにするサラリーマンも。なんだいなんだい。そんなおじさんにだって可愛い時代があったのにヤんなっちゃうね。
「渚くん、隅っこ寄ろっか」
「あのひとなにしてるのー?」
私が言うことも聞かずに渚くんは指を空に向かって伸ばした。空に人ってどういうこっちゃ。スーパーマンか? 一応指の先を追ってみたけど眩しいし、そもそもの目線が違いすぎて分からなかったので屈んでみた。
「渚くん、何が見えるの?」
「アレだよアレ。ビルのおくじょうのね、はしっこにたってるひと」
「端っこぉ?」
眩しさを軽減するため手でひさしを作り、眉間に皺を寄せながら頭上を見上げる。ビルの端っこってそんな危ない所に人が立ってるわけないでしょうに。多分何かの見間違い……じゃない。私は目を凝らし、パチクリと何度もまばたきした。
いる。確かに人が立っている。目の前の五階建てくらいのビルの屋上に制服を着た女の子が。いったいなんのために?
「あっ」
気付いた時にはその子の顔が目の前にあって――
☆ 飛鳥井 こころ
「ドーンというかバーンというか、とにかく信じられないくらい大きな音がしたのはその直後でした。いつの間にか尻もちをついていた僕はビックリして反射的に両耳を塞いで目を瞑った記憶があります。でもすぐにおかしいぞって思ったんです。僕は姉ちゃんと手を繋いでいたはずなのになんで尻もちなんかついて両手で耳を塞げてるんだろうって」
私も耳を塞ぎたい衝動に駆られた。怖かったんだ。当時の話はもちろんだけど、それを他人事のように淡々と話す彼のことが。
「おそるおそる目を開けたら、壊れた人形みたいに手足が変な方向に折れ曲がった姉ちゃんたちがいて、そこから少しずつ血溜まりが広まっていったんです。そのあとのことは……あんまり覚えてません。周りにいた人の悲鳴や怒号があったはずなんですけど全く記憶になくて……。多分、気でも失ったんじゃないかな」
不幸な事故と言うからには車に轢かれたとか階段や建物から転落したとか、当初はそういったものを想像した。ただ、要くんの口から告げられた内容は事故とくくるにはあまりにも理不尽極まりないものだった。
「飛び降りた人は高校生だったみたいですけど妊娠してたんです。親に言えなくて悩んだ末の凶行だとかなんとか。だからって人の往来がある中で飛び降りるなよって話ですけどね。ニュースにもなったみたいですよ。僕は幼すぎたのでそこまでは記憶にないですが先生は覚えてないですか?」
「いや、ごめん。十三年前っていったらまだ入院してたから外の情報には疎くて……」
「あぁ、言ってましたね。すみません、不躾に」
「いやいや、謝らなくていいよ。キミが謝ることじゃない。むしろ謝らなくちゃいけないのは私のほう……」
「何故です?」
要くんは本当にただ疑問をぶつけただけといった様子で幼子みたいにクリクリっとした目を向けた。その純粋すぎる眼差しが今の私には眩しすぎる。
「私のせいでキミに辛い記憶を思い出させちゃったから……」
「平気です。もうあんまり覚えてないので」
嘘だ。ついさっきあれだけ詳しく当時の状況を語ってくれたのに。これは私に気を使った嘘に違いない。ダサいなぁ、私。一回りも離れた男の子に気を使われるなんて。
「あ、それと母さんが先生を見て姉ちゃんの名前をこぼしたのは分からないでもないです」
「……なんで? 見ての通り外見は全然似てないと思うけど」
「確かにそうですね。姉ちゃんのほうが可愛いですし」
ムッ。
「似てるのは見た目の話じゃないですよ」
「じゃあなに?」
「仕草とか言動ですよ。あと、聞かせられないから確認しようがないんですけど声も少し近い感じがします」
「仕草? 言動? 声?」
と言われても動いて喋る本人を見たことがないからなんとも言えない。
「先生はよく髪の毛をクルクルいじってるじゃないですか。ほら今も」
「え? あ……」
要くんが私の耳のあたりを指さす。全く意識してなかったけど私は確かに毛先を指に巻き付けていた。話を聞く態度じゃないなぁ、反省……。
「確か姉ちゃんもそうやって毛先をいじってました。本人は『枝毛がないか確認してるの』って言ってましたけどクルクルこねくり回して枝毛なんて見つけられないでしょうからただの手遊びだと思うんですけどね」
「そっかぁ、仕草ねぇ。そりゃ盲点だったなぁ」
「あとそれです。語尾を『かぁ』とか『ねぇ』みたいにちょっと独特な感じで伸ばすの、凄く姉ちゃんっぽい」
改めて指摘されるとマジマジと観察されてるみたいでなんだか恥ずかしいなぁ。……また伸ばしちゃった。心の声だからノーカンにならないかな。
「姉ちゃんと先生は同い年らしいですし、実は生まれ変わりだったりしません?」
「なわけないでしょ。なに真面目な顔してアホなこと言ってんの。そもそも生まれ変わりだったら早くても二〇一〇年生まれなんだから十三歳より上にはならないでしょうに」
「あ、そっか。言われてみればそうですね」
言いながら、私は飛び降りた高校生が妊娠していたことを思い出した。もしも順当に生を受けていたらその子は十三歳だから中学一年生。人生これからのはずだったのに。
「僕の話はこれで終わりです」
「その子のこと、恨んでる?」
「どうなんですかね。自分でもよく分かりません。どちらかと言うと妊娠しちゃったことを親に打ち明けられないような環境に恨みみたいなものを持ってるかもしれないです。なってしまったことはもう仕方ないんだからその次にどんな行動を起こすかが大事なのに」
「そっか……。キミは大人だね」
「そんな大したもんじゃないです。ただまぁ、こうやって誰かに話したのは初めてだから少し気が楽になりました」
要くんは私のほうを向いて「先生のおかげです」と言った。けど私は礼を言われるようなことは何もしてないから少し居心地が悪かった。
「むしろ私のほうこそこそわがままを聞いてもらってありがとって言わなきゃいけないよ」
「いえ、荷物を持ってもらったので助かりました。夏はバケツや花を抱えてると暑くて敵わないので。来月と再来月も今日みたいな暑さだって考えるとちょっと憂鬱ですね」
「来月と再来月って……なに、毎月来てるの?」
「えぇ。月命日にね。今月はこういう事情があったのでちょっと前倒しになっちゃいましたけど。本当は明日来る予定だったので」
「前倒しって……まさか明日サボるつもりだった? もしかしてこのあいだ用事があるとかで来てすぐ帰ったのってお墓参りのため?」
「さすがにバレましたか」
要くんは少し恥ずかしそうに頬をかいた。いつもの私ならきっと無言で拳骨を振り下ろしていただろう。たとえ体罰と言われようとも。でも今日は、今日だけは見逃してもいいかなと思った。
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