第19話
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま。あ、食器置いたままでいいよ。私が片しとくから」
両手で土鍋を抱え、ペタペタと足音を立てて流しへ向かう先生の後ろ姿を見てるとどうしても姉ちゃんとダブって見える。けどそれは間違いなく虚像なんだ。高熱が幻覚を見せているのか、あるいは僕が勝手に重ねているだけか。いずれにせよ女々しくて情けないことに変わりはないけど。
「ていうかキミさぁ、今日くらいその小さな服着るのやめなよ。汗で張り付いちゃってアンダーシャツみたいになってるじゃん
「……ゆったりした服が苦手なんですよ」
「ふぅん。まぁそこは好みか」
「ですです」
「じゃあキミの生存も確認したし私はぼちぼち帰ろうかね」
生存て。
「要くん、月曜は来れそ?」
「いやぁ、今はまだなんとも……。起きた時の体調次第ですかね」
「そっか。無理はしなくていいからね。ただのサボりなら引きずってでも連れて行くけど」
この人だと冗談に聞こえないんだが……。
「それとあと、んー……」
「ま、まだ何か?」
先生は値踏みするかのように顎に手を当てて覗き込んでくる。そんなにジロジロ見られると目のやり場に困るし、何より恥ずかしい。
「要くん」
「はい?」
「体、拭いてあげよっか?」
「……はい?」
カラダ、フイテアゲヨッカ? はじめ、僕はその言葉がどこか別の国の言葉が暗号かと思ってしまった。あんまりにも突拍子がなくて馴染みのない問いかけだったから。
「せ、先生。僕の耳がおかしくなったんじゃなけりゃ体、拭いてあげよっかって聞こえたんですけど」
「だからそう言ってるじゃん。汗いっぱい掻いたんでしょ? お風呂入ろうにも今日はやめといたほうがいいしね。私の経験上、多分途中で頭がクラクラしてぶっ倒れるから」
「いや、確かに汗掻きましたけど……掻きましたけど! けどね……」
「なに、もしかして恥ずかしがってんの?」
「そりゃそうですよ。ただでさえ汗いっぱい掻いてるから汚いのに。先生だってちょっとは思うところとかないんですか」
「あのねぇ、私からすれば高校生なんてガキンチョ同然なの。いちいち変な感情なんて抱いたりしないわよ」
「その言い方だと僕だけが邪なことを考えてるみたいじゃないですか?」
「へぇ、邪なこと考えてるんだぁ。スケベ」
「だから違いますって。だいいち、先生に体拭いてもらうくらいなら自分でシャワー浴びたほうが断然マシですよ。その間、先生は僕が倒れてないか確認するだけで。そのほうが時間も掛からないし全身洗えるし」
「ふむ、一理ある。じゃあそうしよう」
「えっ」
「私ここで待ってるからひとっ風呂浴びてきなよ。水分をしっかり摂ってぬるめのシャワーだけで済ませれば多分大丈夫だから。間違っても湯船に浸かっちゃダメだからね。汗掻きすぎて体の水分が持っていかれるから立ち上がった瞬間にバタンよ」
「えっと……何故だか僕がお風呂に入る流れになってますけどさすがに先生を待たせるだけってのは気が引けると言うか申し訳ないというか……」
「今さらじゃない? ご飯まで作らせておいて」
先生が勝手に作ったくせに。ありがたかったけどさ。
「じゃあ、まぁ……入ってきます。さっぱりしたかったんで助かります」
「ふむ。行っておいでー」
はて。なんでこんなことになったんだっけ……。
イタズラに待たせるのも悪いので僕は手早くシャワーを済ませ、ドライヤーで乾かすのもそこそこに居間へ戻った。そこで目にしたのはローテーブルに突っ伏すようにうたた寝している先生という途轍もなくデジャヴを感じる光景だった。
「またかよ……」
小さな声で呼んではみたが、全く起きる気配がないところを見るとだいぶお疲れのようだ。やっぱり教師って激務なんだろうか。先生が忙しいのは半分、いや三分の一……五分の一くらいは僕のせいな気もするけど。
しかしいくら疲れてるとはいえどこでもすぐに寝ちゃうこの人の悪癖はどうしたもんか。一応、今は男の家なんだからもう少しくらい気を張るというか警戒するとかさぁ。でもまぁ、僕のことなんてガキンチョだとしか思ってないって言ってたしな。心が休まるんだと好意的に解釈しておくか。
とりあえずどうしよう。前みたいに起きるまで待つか、罪悪感に苛まれながら体を揺すって起こすか。先生はこれから家に帰ってご飯の用意をしたりお風呂に入ったり、場合によっては残った仕事までしないといけないから本当は起こすべきなんだろうけどどうにも気が引ける。
何故かって、やたら気持ち良さそうな寝顔だったからだ。実家のような安心感に包まれてる人の顔だよこれ。さて、困ったぞ。姉ちゃんや母さんに見られたらなんて言い訳しよう。
☆ 飛鳥井 こころ
ハッとして目を覚ました時には全てが手遅れだった。時は午前二時。草木も眠る丑三つ時である。
「またやっちゃった……」
今度はお店じゃなくてお家。しかも他人の。あろうことか生徒の。二時ってことはざっと六時間くらい眠ってしまった計算になる。普段の睡眠時間と同じだ。
「シャレになんないって……」
要くんが掛けてくれたであろうタオルケットを胸元に引き寄せ、深呼吸して冷静になろうとする私。あ、なんかこのタオルの匂い落ち着くかも……いやいやそんなことしてる場合か。ってかどうして要くんは自分の布団じゃなくてテーブルを挟んだ向こう側で眠ってるの。わざわざ枕まで持ってきて。そのくせ体には何も掛かってない。そんなんじゃ治る風邪も治んないでしょうに。
取り急ぎこのタオルケットを彼に掛けておこうと身を乗り出すとテーブルに置かれたメモ書きとこの家の物と思しき鍵を見つけた。
『すごく気持ち良さそうに寝てたので起こすに起こせませんでした。すみません。色々してもらったのに僕だけ布団に入るのは忍びないのでここで寝ます。今日はありがとうございました。鍵、ここに置いておくので帰る時は郵便受けに入れておいてください』
大きなメモ用紙には不釣り合いなほどの小さな字を見た私は眉尻を下げて笑うしかなかった。
「気を使うところが違うでしょ。病人のくせに一丁前な」
将来、この子と付き合う女の子はこのズレた感性に苦労しそうね。そもそも彼女なんて出来るのかしら、などと失礼なことを考えつつ私はタオルケットを要くんにそっと掛けた。普段は大人ぶってるけど寝顔だけは誤魔化しようがないみたいで年相応にあどけなく、肌はスキンケアとは無縁のはずなのに青白くきめ細やかで、私が生きてきた月日との差を残酷なまでに突き付けられる。
「ガキンチョめ」
別に意趣返しのつもりでもないけど私は彼の頭をクシャリと撫でた。そしてふと我に返って自分の手のひらを見つめる。こんなことをするなんてらしくないよなぁ。最近、自分が自分じゃなくなってるような気がしてならない。まるで、この子の姉代わりにでもなっているような……。いや、いい。考えるのはやめよう。意識すればするほど自分らしさが失われていく。
いい加減帰らなければと気持ち足早に玄関へ向かった私は女性モノの靴だけがやたら多いことに閉口した。要くんのはスニーカー……と買い物中に遭遇した際に履いていたサンダルの二足だけ。こういうところを見るとどうしても母親に良い感情を抱けない。電話は繋がらないし、お店に伺えばちょうど留守にしていたりと巧みに躱され続けること早三ヶ月。もう七月だからなんとか直接顔を合わせないと。せめて夏休み中にでも。
そう考えながら履いてきたパンプスに足を通してドアを開けた瞬間、目の前にその人はいた。今まさに鍵を差し込もうとしていたのか、中途半端に抱えた鍵を手に固まる女性は袖の部分がレースになっていることを除けば喪服と言っても通じそうな服と、後ろ髪をまとめて右肩の前に出しただけの簡単な髪形をしているせいか、必要以上に憂いを感じさせる。ただ、暗がりでも分かる程度に少し化粧が濃いけどとても綺麗な人だった。首すじや手の甲のシワでようやく若くないんだと気づくほどに。若いころはさぞやモテたんだろうなぁ。
状況から察するにこの人が要くんの母親と見て間違いないだろう。内心で冷静に分析する私ではあったけど本当は焦りに焦っていた。だってこの状況だ。なんて説明すればいい? けれど想定外だったのは目の前のお母さんが愕然としながら私のことを「結弦……?」と呼んだことだった。
この日を境に私の人生は一変した。
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