第2話

 *


「え、えっと……な、なぎさ、です」

 コアラみたいに父親の足にピッタリと寄り添って自己紹介する小さな子ども。それが私の新しい弟、渚くんだった。

 小さい。想像以上に華奢だ。三歳ってこんなにちんちくりんだったっけ。それだけじゃなく、なんと言えば適切なのか分からないけどこの子は存在感が希薄だ。世の中の女性陣が羨みそうな白い肌。染毛禁止の校則がある私の高校ではギリギリアウト扱いされそうな茶色っぽい髪。瞳も同じような色で全体的に色素が薄い。


 拭けば消えてしまいそうな儚さ。それがこの子から漂っている。これでは目を離した隙にどこかへ行ってしまっても気付かないかもしれない。それどころかテスト勉強や受験勉強中みたいなピリピリしてる期間は部屋にいても存在すら認識出来ないかもしれない。大袈裟でなく。ダメだダメだ。私は今日からお姉ちゃんになるのだからしっかりしないと。

 弟が出来ることに後ろ向きだった私はとうの昔にいなくなっていた。この子を守らなきゃ。他でもない私が。だってこの子の母親は育児ノイローゼになって自殺したのだから。


 お母さんから聞いた時はとにかくビックリした。それと同時に残され旦那さんと渚くんが不憫でならなかった。自殺したのは渚くんがまだ一歳の時だったらしい。

 話を聞く限りでは渚くんはとにかくよく泣く子だそうだ。旦那さんは若くして高給だったんだけど、その代償に朝早くから仕事に行って帰りも遅く、休日出勤も多かったので奥さんはいつも一人で渚くんの面倒を見ていたらしい。実家の両親は既に他界していたからたまの息抜きをしたくても頼れず、孤独感に包まれる日々を送っていた。

 旦那さんが購入したばかりのマンションのベランダから衝動的に飛び降りたのは渚くんが二歳の誕生日を迎える直前だったそうだ。そして失意のどん底に叩き落とされた旦那さんが出会ったのがスナックで働いていたウチのお母さんだったらしい。傷心の男とコブ付き未亡人。まぁ、だいたい想像はつく。

 いずれにせよウチのお母さんからはデリケートな話題だからこの子の前では口にしないようにとキツく言われているので細心の注意を払わないと。

「渚くん。私は結弦。キミの新しいお姉ちゃんになるの。よろしくねぇ」

 緊張させないように屈んで渚くんと同じ目線になりながら言ったのだけど、ちんまりとした少年はその体躯をさらに小さくさせて父親が履いているズボンをむんずと掴み、その背後に隠れてしまう。なるほど、予想以上にシャイで手強い。物静かなことは私にとって都合が良いのだけど一抹の寂しさも感じてしまう。


 それに加え、こう見えて私は子どもに懐かれやすいタイプなので拒絶に近い距離の取りかたは少なからずこたえる。とはいえそれくらいでへこたれる私ではないのだ。

 この子は母親を喪ったことできっと感情をも失ってしまったんだ。だってよく泣く子だと聞いていたけど微塵もそんな気配がないもの。幼い子どもが最も甘えられる存在がいないまま成長したのではあまりにも気の毒だし、この子のためにもならない。

「お姉ちゃんでも結弦姉ちゃんでもなんでも好きに呼んでね。キミのことはなんで呼ぼっか」

 相変わらずモジモジとして「あ……」だの「うぅ……」だの言いながら顔を赤くする渚くんは今にも泣きそうだ。拾われた子猫かな。ってかまさかとは思うけど私、嫌われてないよね。

 そんな私たちをお母さんと新しいお父さんは苦笑で見守り、恥ずかしさから渚くんに釣られるように私も顔を赤くしてしまった。ちょっと気合が空回りしすぎたのかも。


「まだ恥ずかしいかな? そりゃそっか。いきなり新しいお姉ちゃんですよって言われても混乱するよね。無理しなくていいよぉ。ちょっとずつ慣れていけば」

 これは長期戦になるだろうなと覚悟しつつ、屈んでいるのも辛くなってきたので立ち上がろうとした私は謎の力に引っ張られてバランスを崩して転びそうになってしまった。

 見ると、さっきまで父親のズボンを掴んでいた渚くんの手が私の履いている制服のスカートに伸ばされている。そのせいか。それにしてもこんなに小さくても結構力があるのね。さすが男の子。

「どうしたのかな?」

 危うくスカートがずり落ちそうになったことを隠しながらもう一度屈んだ私は今度は下から渚くんを見上げるように姿勢を落としてみる。そのほうがちょっとでも威圧感を与えないだろうと踏んでのことだ。やっていることが警戒心の高い猫に対するそれなんだけど、実際に猫みたいな子だから効果がありそうだと思ったのは秘密。

「あ、あの……」

「うんうん」

 小さな声を聞き漏らすまいと私は顔を横に向けて耳と渚くんの口との距離を物理的に縮める。おまけに照れ屋な子は人の顔、取り分け目を見ることが苦手だからこうすればちょっとは話しやすいはず。


 さて、なんて言ってくれるのかな。この小さな恥ずかしがり屋の王子様は――

「おねえちゃん。ちゃんとみみそうじしてる?」

「……はい?」

 ちょっとなに言ってるか分かんない。え、耳掃除? なにゆえ?

「だ、だってみみアカがたまって……こえがききづらいのかなって……」

 ……失礼だな。


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