第20話19 悲憤の魔女 1

 水路の街、ウォーターロウに夜が来る。


 ざわざわざわ


 風が不吉な音でいた。ここ数日、比較的大人しくしていたギマたちがうごめきはじめる。

「きこえるか?」

「ああ」

「今夜か?」

「今夜だ」

「しかし、どうやってほりを渡ると……以前のように、自分たちの体でき止めようというのか?」

「それにしてはこの濠は豊かで流れもある。いくらギマとて流されたら終わりだろう」

 川から直接取り込んだ水は、街をほぼ一周して元の川に流れ込むから、干上がることがない。

「それはそうだ。だが……妙だ」

「え?」

「見ろ! 流れが変わっていく!」

 セイジの言う通り、目の前に流れる水は逆流し、元の河へと戻っていく。と同時に下流の水門では激しい勢いで排水が始まる。新しい流れが戻ってくることはない。

 つまり、濠の中はどんどん空になっていくのだ。

「これは一体どういうことだ!? 水……水がなくなっていくぞ!」

「上流の水門は開いたままだぞ! な、なぜだ!」

「魔女だ! 魔女の仕業だ!」

「えええ!?」

「うああああ!」

「あれを見ろ!」

 そして、彼らは見た。曇った夜空よりもさらに黒く、大きな気配が、彼らの頭の上を通り過ぎていくのを。


 あはははははは!


 ざぁざぁと引いていく水の音に交じって、見張りの兵士たちの耳に、遥か高みから甲高い笑い声が降ってくる。憎悪と邪悪さを含んだ不吉な声が。

 そして、やがて粘っこくて細かい雨が降った。

「ああっ! ギマが、ギマが濠を乗り越えてくる!」

 誰かが叫んだ。

 その通り、ギマたちは次々と空になった濠の底へと身を躍らせ、何体かはそのまま泥にまみれて動けなくなった。しかし、その上を踏みしめながらギマ達は、街のほうへと渡ってくる。

 濠を囲む城壁は、ジェルマの街ほど高くはない。跳ね橋は上げてあるとはいえ、突破されるのは時間の問題だろう。

 とにかくギマの強みは数なのだ。

 魔女たちにとっては、今まで滅ぼした国や街に打ち捨てられている死体に、ほんの少しの血を垂らすだけで生み出せるのだから。

 そして、その内の何体かに<血の種>を埋め込めば、立派な軍団となる。

 戦えば戦うほど死体は増え、人間には不利な状況となってしまう。それが魔女との絶望的な戦いの真実だった。

「松明を灯せ! ギマの上陸をゆるすな!」

「ああっ! 向こうで這い上がろうとする奴がいる!」

「止めろ! 突き崩せ!」

 ウォーターロウは水の街だ。濠から街中に小さな水路が張り巡らされ、人々の生活を支えている。

 その水路があだとなった。

 水量が減った濠から、ギマ達が次々に街中の水路へと入り込んでいく。

 流域面積が多過ぎて、とても守り切れるものではない。紅油で焼き払おうにも、粘っこい水気で湿ったギマにはなかなか効果が上がらない。

「斬れ! とにかく、這い上ってくるギマの頭を切り飛ばせ!」

 戦士達は口々に叫んで、勇敢にギマに向かっていった。

 民家の屋根からは、火薬をつめたトウシングサから作った火矢を放って、ギマを内側から破裂させていく。

 それらはある程度効果が上がり、民間人を街の公会堂に避難させる時間を稼ぐことはできた。

 しかし、とても防ぎ切れるものではない。何人かは既に犠牲になっている。

「クロウ! クロウはどこだ! カーネリア!」

「それが……また」

「あいつ! <指令者>を探しにいったのか?」

「ええ。多分数体はいるからって……それさえ倒せば、あとはこっちでどうにかなるだろうって」

「それはそうかも……ただのギマなら濠をよじ登ってくる奴も少ないだろうし。夜明けまで持ち堪えられたら」

「でもそれだけじゃないの! クロウは……」

「なんだ?」

「いつもの剣とは別に、背中に大きな剣を背負って行ったのよ! 半月前にジャルマの街から届いたやつ」

「奴は本気なんだ……なら、多分本物の魔女が近くにいる。さっき笑い声が聞こえたろ?」

「しかしこのギマの数だぞ! 奴に魔女の場所がわかるのか? このままでは乱戦になる」

「クロウは『*****は、近いところにいて、動かない。こっちからいくしかない』って!」

「近い? それは……もしかして?」

 大胆なオーサーでさえ怖気を振るう、悲憤の魔女の名前。

「ええ。クロウはその名前を叫んだのよ。大声で何度も」

「な……名前を!?」

 それは挑発を意味する。面白半分にその名を呼んで惨殺された者を知っているだけに、皆は真っ青になった。

「クロウ……死ぬな」

 ブルーは湿気に満ちた夜空を見上げた。

 星も月もない、押しつぶされそうな闇を。


「ゾルーディア! 出てこい!」

 クロウはからになった濠の下から、どす黒くよどんだ空に向かって叫んだ。その背後にぬっとギマが現れる。<指令者>だ。

「お前じゃない!」

 ほとんど見もせずに、クロウは脇の下から背後に剣を突き出した。顎の下から脳天を貫かれて<指令者>は倒れる。

 抜いた剣先に<血の種>が突き刺さっていた。今までのものよりも透明度が高い。ほとんど真紅だ。

 次々と湧き出るギマだが、その大半はクロウの敵ではない。彼は老若男女、身分職業さまざまな姿形の、かつて人間だったものの間を掻い潜り、<血の種>を有する<指令者>だけを的確に倒していった。

 その度に「種」を抜き取りながら。

 二十体程度を倒した頃から戦いは容易になり、頃は良しとクロウは濠を飛び出して街の外に出る。

 街の外は広大な麦畑だった。

 麦が育つ北限のこの地域では、病気に強い良質の麦が穫れる穀倉地帯なのだ。今は夏で、青々とした麦の穂が出始めている頃合いだろう。

 平和な午後なら、さぞ美しい風景が見られたに違いない。

 しかし今、粘っこい雨に打たれた麦畑はまるで夜の海のようだった。

 ナギは風に煽られて倒れかかる丈の高い麦の間を進んだ。地面はぬかるみ、何度も足を取られる。通常の何十にも難儀な道行みちゆきだ。


 くそっ!

 こんなところで、もたついてたまるか!


 その間も襲い掛かるギマを次々にぎ払いながら、クロウは麦畑をひたすら走った。

 北へ北へと。

 やがて畑が切れていき、目の前に夜よりも黒い壁が立ちはだかった。

 イトスギの森である。墓場に生えると言われている、背の高い針葉樹の壁。

「ゾルーディア!」

 ナギは森の奥に向かって叫んだ。

「縮こまっていないで出てこい! 俺と相対しろ!」

 瞬間、雨と風が途切れる。

「ゾルーディアアアアアア!」

 雨の音をかき消すほどの叫び。それに雨の音の間を縫うような細い声が応じた。

『……聞こえておる、若者よ』

「いるのか! さぁ、返してやる! これはお前のものだろう?」

 クロウは胸の中に手を入れ、今まで集めた<血の種>を森に向かってばらいた。

「来い! 俺に来い! 悲憤の魔女ゾルーディア!」

 森は深い。しかも、よどんだ闇の空気の中である。なのに声だけは木霊のように響いてくる。

『若者。残念ながらその血は、わらわのものではない』

「なんだと!?」

 魔女は平気で嘘をつく。ナギはこの玉が放つ気をたどって、ここまできたのだから間違うはずがない。

「俺をあざむこうとしても無駄だ!」

『欺かぬよ。妾が放ったものもあったが、今ではすっかり少なくなったと言うたのじゃ。そなたにはわからぬであろうが』

「よく喋る魔女だ」

『ふふふ、許せ。久しぶりに人と話すでな。しかも、このような良い若者とな。じゃが、さらに残念なことにな、妾はそちらに出向いて行けぬ』

「逃げるのか! 魔女ゾルーディア!」

『今更逃げぬ。だから、そなたからやってくるがよい。そなたには妾の場所がわかるであろうよ。我が血を分けた者よ』

「血? 血だと!? 俺はお前から何も受け取っていないぞ!」

『ならば、その常人離れした力を持つ身体からだは、誰からもらったのだえ?』

 誰かが闇の中でわらう。姿も気配も見えないのに、笑っていることだけが伝わるのだ。

「なに!?」

『かつてそなたが属していた、愚かな組織での下積みがあったとはいえ、それだけの戦いには魔が混じっておるとは、今まで思わなんだか?』

「……」

『それ、その下に』

 濃い闇の中から、魔力の先端がひねり出る。

 それはクロウ──ナギの額を確かに指さした。


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