11 部員たちの慚愧


 十八年前の支部大会で「風追歌」の飛び込み指揮者になったのは、ゴロー。そして死んだのは……先生の大切な人で……。

 恋仲だったのかな? フルートの一年生と。なるほど、腐れ縁の女の人なんていないはず。その時に死んじゃってるんだもん。いや、もしかしたら「風追歌」そのものが、今でもゴローの大切な人なんだろうか。

 そうか、あの先生はその娘のために、この曲を選んだんだ。きっと、彼女の魂の平安のために――。

 ちょっと頭のねじが何本か緩んだらしい。メンタルが弱くなってるところに、お涙頂戴っぽい文章がドツボにはまったせいもあったかも知れない。ホールに戻ってきた時、早苗は一人でしくしくと泣いていた。ずっと泣き続けていたのは憶えているけれど、自分がいつ千歳と別れて文化会館に戻ってきたのかは憶えていない。まずい、実にまずい。せめて無難に合奏が出来るようにならないと。

 舞台に上がってから、いったん下手の舞台袖に隠れる。吾郎はすぐにも現れそうだ。今顔を見たら、一発で大泣きしてしまうかも知れない。

 一年生が何人か、早苗を遠巻きにして眺めている。レギュラー以外の新人は、今日は楽器を吹かず、舞台練習のサポートに駆り出されている。舞台裏の闇がありがたいと思う。まあ、いじめられて泣いてるんだろうな、ぐらいには思われてしまうんだろうけれど。

 不意に白っぽい人影が目の前に見えて、早苗はひゅっと息を呑んだ。

「え、あの……ど、どうして!?」

 驚いたことに、それはスカイブルーのワンピースの彼女だった。自分でも滑稽なほどびっくりしてから少し思い直す。そもそもこの人、ゴローの隠し妹なんだっけ。そうだ。現れて不思議はない。不思議はないけれども……。

 ついいつもの調子で笑顔を作ろうとすると、女性の方で手を挙げた。珍しく心配そうな空気を感じる。

「夏実、に」

「はい?」

「久目夏実に、気をつけて」

「それは……どういう……」

 急に胸騒ぎがして、一歩詰め寄る。女性は暗い顔のまま首を振った。……さんざん泣いたせいだろうか、彼女がよく見えない。顔全体が霞のようにぼうっとしていて、輪郭もなんだかはっきりしない。

「目を離さないで。あの子を、守……」

 ちょうど上手から吾郎が現れる。楽器の音出しが順次止み、ぎりぎりまで周りと喋くっていた者も席に戻っていく。

「あの、済みません、また後で……」

 一度舞台に目をやってから、もう一度視線を戻すと、そこは無人だった。ライトの明暗差に目がついていかなくて、暗がりに去っていったのが見えてなかったのかな、と思いつつ、とりあえずダッシュで席に駆け込む。涙顔は、何とか引っ込ませることに成功した。

 午後の前半はさんざんだった。早苗もだが、他のみんなも調子がおかしい。慣れない湿度とか音の距離感とか、考えられることは色々あるのだろうけれど、何となく早苗は、午前中の自分を巡ってのぎくしゃくが、今になって改めて全体に波及しているような気がした。考え過ぎではなさそうだ。そうそうチェックを受けることもない夏実や夢子まで、明らかに集中力を欠いて、何度も指揮台から厳しい叱責を受けていた。

「……ちょっと長めに一息入れようか」

 予定していたよりもだいぶん早く、休憩が宣言される。顧問と副顧問はそのまま控え室の方に去っていった。

 幾分焦りを感じてきたのだろう。今回は誰も動物の鳴き真似で遊んだりせず、何人かは楽器も置かずに熱心に曲をさらいだした。夢子まで、音階とアルペジォを一から吹き直している。真島は、黙認の姿勢を見せた。けれど、腹に据えかねていたのだろう、トロンボーンを置いた夏実がつかつかとテナーサックスの横まで来ると、楽器を下からあおるようにして取り上げ、夢子の演奏を止めさせたのだ。

「つっ……な、何を! 何てことするの! リードが割れちゃったでしょう!?」

「知らん。ゆっくり休みたい人の前で、耳障りな練習してるからやろ」

「あ、あんたっ!」

 勢いをつけて夢子が立ち上がった。はずみで譜面台が傾き、楽譜の束がばさばさとライトブラウンの床に散らばる。足を踏み出す場所さえなくなって、片手で楽器を押さえながら片手で慌てて譜面をかき集める。

「アホやん」

 腹の底からバカにした笑いを浮かべて、夏実が背を向けた。割れたリードを一度手のひらでそっと包んでから、夢子は跳んだ。床に広がった楽譜をそのままに、ステージの端にさしかかった夏実へ向け、サックスを構えて突っ込んでいく。気配を感じて振り返った夏美が、瞬時に顔を引きつらせる。

 ちょうどその時、早苗は客席前列で休んでいた。舞台上で起きている事件にもすぐには気づかなかった。頭の中、錯覚なのか白昼夢なのか、脳裏の隅でスカイブルー色の何かがちらついた。早苗の注意を必死になって引いてるような。

 はっと起きあがって、手を伸ばす。見るよりも先に、考えるよりも先に体が動いていた。

「だめっ! 夏実!」

 逆上した夢子が、サックスのいちばん肉厚の部分を振りかぶったのと。

 反射的に逃げようとして、夏実が舞台から足を踏み外したのと。

 夏実の真下に早苗が駆け込んだのと。

 全てが一瞬だった。

 自分がどう動いたのか、早苗はまるで分からなかった。視界が真っ暗になったと思ったら、胸と背中と腰と後頭部に重々しい衝撃が来て、直後に左膝と左足首から強烈な痛みが駆け上がった。

 息が止まった。上にのしかかった夏美はすぐに起きあがったけれども、早苗はしばらく指先一つも動かせなかった。脂汗が吹き出ている。耳鳴りがして、目もよく見えない。息をつきたいのに浅い呼吸しかできなくて、頭もくらくらする。

 間近で凄まじい罵声を聞いたような気がして、早苗はやっとのことで首をわずかに回した。涙をいっぱい溜めた夏実が、真っ青な夢子の胸ぐらをつかんで、何かをわめいている。周りに集まっている部員達も、夢子自身も、何も言い返さない。

「な……つ……ごほ」

 せき込みながら手を伸ばした早苗に、夏実が慌てて振り返り、その横から輝未が猛ダッシュで飛んでくる。背後の人垣の中で、誰かがぼそりとつぶやいた。

「来たんだ……とうとう〝呪い〟が……」

「やめなさいよ!!」

 ヒステリックなほどの鋭い声がざわめきを貫いた。真島だった。困惑したように目を伏せる部員達をひと睨みしてから、輝未と一緒になって夏実の横に膝を突く。

「動かさない方が……椎路さん、そのままじっとしてっ」

「毛布持ってきて! 下手に置いてあるでしょ!」

 輝未が一年生に声を張り上げ、「私、先生呼んできますっ」とひとこと言い置いてから舞台下手に飛び込んでいく。入れ替わるようにして、夏実が早苗の元に跪いた。

「早苗っ、いややああ!」

「落ち着いてっ。椎路さん、声は出せる?」

「すいません……部長」

 かすれた声なら、何とか言葉が出るようだ。目だけ動かして、早苗は漠然と自分の状態を知った。夏実と床面との間で思いっきりサンドイッチになって、必要以上に体を打ちつけてしまったらしい。さらに足までねじっているようだ。控えめに見ても、病院送りは避けれられないだろう。息も苦しい。もしかしたら入院とか手術とか――いや、最悪の場合、今この場で――

「すいません……せっかく……他のみんな、気をつけてたのに……あたし……自業自得、かな?」

「バカなこと言わないで」「何言うてんの、あんた!」

 真島と夏実が同時に叫んだ。真島がせわしげに早苗の頭の下へ丸めた毛布をはさむ。片頬だけで、早苗は微笑んだ。ケガの具合が自分でも分からなくて、それがひたすら心細かった。どれぐらい吹けなくなるんだろう? 何よりもそれが不安だった。

(ダメかもしんない……コンクールも……やばいかも)

 これが〝呪い〟の結果なのかどうかなんて分からない。それでも、自分一人の欠席が部全体に大きく響くのは間違いない。ここしばらくずっと弱気で受け身だったせいもあるのか、早苗はどうしようもないほど重い罪を背負ってしまったような気さえした。

(これがさんざん引っ掻き回した罰?……だったら……呪われてもしかたないかも)

 でも、と不思議な気分で考える。でも、何でだろう。すごくほっとした気分なのは。

 自然と笑みが浮かんでくる。変に嬉しいような、安らげるような。ここしばらくずっと胸の底にあった怖さの塊みたいなものまで、きれいに溶け落ちてしまってるような気さえする。

 いったいあたしは何を望んでいたのだろう? 何に安心しているのだろう?

 視線を左右に動かす。夏実がいて、真島がいて、少し離れて夢子、他の部員達、一年生も、男子たちも、心配そうに、怖そうに、でもあたし以外は誰もケガ一つしてなくて……。

 ……そうか。そういうことか。

「そう、だったんだ……」

 深く息を吐きながらつぶやく早苗を夏実が叱りつけた。

「ええから、もう何も言うたらあかん! もうすぐやから」

「ちがうの、夏実……あたし、分かった気がする。……聞いて、今のうち……」

 何となく死ぬほどのケガではない気がしてきたけれど、病院送りの後はどうなるか分からない。その前に、伝えておきたかった。夏実がくっつけそうなほど顔を寄せてきた。

「何?」

「ごめん、みんなも、迷惑かけて……でも、今分かったの。あたし……あたしは、ね」

 背中を打って喉が詰まり気味になっているようで、時々つばを飲み込むために声が消える。そのため、意識ははっきりしているのにやたら重篤な印象になって、却って全員が一心に耳を傾けてくれた。痛みとしびれと気恥ずかしさの中で、早苗は言った。

「あたしは、心配したかったの……ちゃんとみんなの……心配して……言いたかったの、『大丈夫』……って」

「何やねん、それぇ」

 とうとう夏美が泣き出した。

「ただそれだけ……でも、よそから来たし……空気とか……読めないし」

 急に吐き気が襲ってきた。突き上げ感はすぐに収まったが、苦しそうにこらえている早苗の姿は、本人無自覚のまま、ことさらに悲壮感をあおってしまったようだ。

「〝呪い〟の中でも……みんな、しれっとしてるんだもん……なんか、心配もさせて……くれない、みたいな気が、して……」

「分かったよ! 分かったから、もう何も……」

「あたしが……いなくても……ちゃんと、仲、直りして……夢子、と」

 つい、「しばらく」という単語を入れ忘れた。あ、これは誤解を招いてしまうか、と思ったら、案の定だった。夢子までそばに膝を突いて、早苗の手を握ってきた。涙をぽろぽろ流している。

「ごめん……ごほ……コンクール……行きたかった、から……ずっと一緒……」

「やめてやぁ、早苗ーっ!」

 中途半端な単語の選択で、遺言に聞こえてしまったようだ。吐き気も冷や汗もだいぶんましになったのに、急に咳がちになってきたのが誤解に拍車をかけた。人垣の向こうでは、もらい泣きまで始まってるらしい。違うの、違うから、と手を振ろうとしたら、いよいよ苦しくなったのだと勘違いされ、何人かがわっと周りに集まってきた。

「椎路が!?」

 絶好のタイミングで吾郎が現れた。深刻な顔で駆け寄り、それでも早苗の表情からさすがに状況は見抜けたようだ。おもむろに早苗の上半身を起こすと、背中に軽くチョップを当てた。

「楽になったか、椎路?」

「はい……何とか……」

 素の声で返した早苗に、人垣が一瞬で崩壊した。


     ◆◆◆


「だめだよ……あたし、もう戻れないよ……恥ずかしくて」

 左膝と左足首にちょっと大げさな感じで包帯を巻いた姿の早苗は、上がり口に腰掛けたまま、自宅の玄関でうなだれた。バカ言ってるんじゃない、と三人の見舞客は異口同音にどやしつけた。

「治療が必要なのは、結局足だけなんでしょう? この時期、これ以上休めると思って?」

 目をすがめて、夢子。

「椎路さんが抜けて、今日の後半は合奏にならなかったんだからね。落とし前はつけてもらわないと」

 腕組みをしながら、真島。

「大丈夫やて。あれからもめっちゃ受けてたんやで。それに真面目な話、みんな結構感動してたみたいやし」

 頷きながら、夏実。

「え、感動って?」

「まさか、あんなクサいセリフが大ボケやったとは言わさへんで。あれで三年の先輩方もコロっとイってもうたんやから。でしょ、部長?」

「ま、個人差はあるけどね」

 適当に頷きながら真島が返す。

「率直な話、みんな開放された気分になってるの。〝呪い〟からね。一人犠牲になればその年はそれ以上がないってことになってるし、自分以外の犠牲者が確定したんだから」

「改めて聞くと、ちょっとひどい話よね」

 自身の過去の言動は棚に上げて、夢子がコメントする。早苗は混じり気のない目で三人を見上げると、明るく言った。

「うん、でも、あたしでよかったってのは、今でも思うんだ。何でかな。夏実じゃなくて、夢子でもなくて、バカ男子でもない、あたしだったってのが」

 率直すぎる視線に、夏実と夢子は同時に顔を背け、おもむろに玄関口に座り込むと、両側から挟み込むように早苗に抱きついて、同時に言った。

「「バカ」」

 おめでたい子ねえ、とでも言いたそうな真島が、ふと気がついたように尋ねた。

「てことは椎路さん、あなた、〝呪い〟はほんとにあるってことで納得したの? 私も、ことの真相に興味を感じないでもないのだけど」

 両手に花のままで座り込んでいる早苗が、困ったように真島を見上げた。

「どう……なんでしょうね。実を言うと、何人かの人のプライバシーにかなり入り込んじゃってて……あれこれ調べてるうちに、結局今の言い伝えをありのまま受け入れる方が誰も傷つかないんじゃないか、みたいな気分になって」

「そう。この機会に迷信を正そうとか思わないの?」

「思わないわけではないですけれど……結局私自身、気がついたら〝呪い〟の言い伝えにどっぷり浸かってたみたいだし……一番迷信深かったと言われても仕方ないし」

 ちょっとだけ自嘲気味に笑おうとしたけれど、あまりうまくいかなかった。真島は笑わなかった。

「そうですね。一度、直接話してみます。さる重要人物に。コンクールが終わった後にでも」

「あら。じゃあ夏の終わりが楽しみね。布施先生も、いい機会だからコンクール後に誤解を正す、みたいなことを言ってたけど」

「先生が?」

「ま、とりあえず安心しました。……あ、あと猪阪さんから伝言ね。『これで厄は落ちたはずだから、今日からしっかり前向いて生きてけ』だって」

「そ、そうですか」

「それじゃ明日」

 手短に話を終わらせると、真島は一人で帰っていった。残った二本の花は、両半身に絡みついたままだ。首筋とか背中とかおなかとかに、なんだかやたらぺたぺたと手を這い回らせている。

「ね、ねえ、分かったから、二人とも……」

「よかった。大したことなくて」

 夏実の潤んだ目にぶつかって、早苗はどぎまぎした。夢子もちょっと湿った目で、肩にほっぺたをのせたままだ。お互い汗でべとべとになってるけれど、不愉快な感触ではない。

「早苗は命の恩人やん。今度神棚作らんと」

「大げさだよ、夏実……」

「大げさやない。あんた、現場に何があったか憶えてないんか? ステージ下にバラした鉄琴なんかがあったやん。早苗が飛び込んでくれんかったら、うち、鉄パイプの列に頭から突っ込んどったかも知れへんねん」

 思わず身震いした。よく自分自身、そこを避けて転がれたものだ。

「本当にごめん」

 つぶやくように夢子が言った。見たことがないほど素直な表情だ。さすがに恐縮しきった様子でいる。

「後でゴロちゃんからすっごく叱られた。あんなに怒り狂ったゴロちゃん、初めて」

「あれはすごかったなあ」

 反対側の耳元で、夏実が笑った。

「『何のための音楽か!? 音楽で人を不幸にして、自分も不幸になってどうする!? そんなふざけた話は断じて許さん!』って」

 早苗自身はただいたたまれない気分になっただけだった。そんなことを叫ぶ人が、金賞のために部員を人身御供にして平然としているはずはないのだ。思えば自分自身、顧問の人となりを理解するのに、ずいぶんと遠回りをして、迷惑もかけてしまった。正直、どんな顔をして会えばいいのかいちばん分からないのが吾郎だ。

「早苗。ゴロちゃんは、決して悪いセンセじゃないよ」

 言わなくてもいいことを、夢子は囁いた。


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