5 夏実の鷹揚
やっとのことで、夏実が折れた。部活からの帰り道、夢子と別れた後の、夏実と二人だけの短い時間を狙い、集中的に口説き続けたその何十回目かのことだ。
いつかの三人での会話後も、早苗は折を見て夏実や夢子に話題を振ろうとしてきた。たいがいは会話の流れを敏感に察した二人にさりげなく弾かれていたが、コンクールも近づき、一時は全体の足を引っ張りかねないほどのスランプに陥った早苗を不憫にも思ったのか、ようやく夏実は限定的な範囲での協力を約束してくれた。もっとも、
「ほんまはうちも大したことは知らんねん」
あっけらかんとそう打ち明けられた時は、さすがにがくっときた。少しは何か秘密が解けると思っていたのに。
「じゃあ、何でみんな大したことを知らないまま、ここまで〝呪い〟に素直なの?」
「素直なわけやない。ただ、やっぱり金賞になりたいやん。ほんで、話題さえ避けてたら、災いは最低限になるっちゅう話やねん」
「誰がそんなことを」
「いや、とにかくそういう話や、としか。古来からの言い伝えや」
十八年前で古来も何もあったものではない。眉をひそめる早苗に、夏実はとりなすように話を続けた。
「実はな……」
夏実の親戚の叔母さんが、楓谷吹奏楽部のOGなのだという。今年三十五で、十八年前の事情も多少は聞き及んでいるらしい。昔の話を聞きたい、と試しに振ってみると、ぜひいらっしゃいとのことだそうだ。もちろん〝呪い〟の話こそが本題だと言えば逃げられるだろうから、四方山話と偽って、慎重に聞き出さないといけないだろう。それでも、情報量は充分期待できるはずだ、との夏実のコメントである。
「ほんと!? ラッキー! ありがとう! あたし達、親友だよね、夏実!」
わかりやすい変化に苦笑いしながら、夏実が釘を差した。
「やけど、これ一回だけやで。うちは何も聞かへんし、見いへんし、知らんからね」
「うん、分かってる。夏実の分の呪いはあたしがかぶるから」
不穏なことをにこにこしながら言う早苗。一瞬夏実は絶句して、憂鬱そうに首を振りながら、長いため息をついた。
普通の日なら土日に関係なく練習があるので、二人が出かけたのは期末考査前日だった。短い自主練習だけで部活が終わるのは、テスト期間中ぐらいしかなかったのだ。
叔母さんは町の中心街の外れで喫茶店を営んでいるのだという。制服姿で繁華街を突っ切るのは、ちょっとした覚悟が必要だった。
田舎町である。二十一世紀の今なお、テスト直前に町で遊んでいるのが見つかったら、下手をすると呼び出し案件になる。都会暮らしを知ってる早苗からすれは、そんなバカな、と言いたいのだけど、田舎町ってそんなもんだから、とクラスメートたちから返されたら何も言えない。
もっとも、相手は一応夏実の身内だ。家族親戚が絡むとルールがガバガバになるのも田舎町の特徴だ。何とか言い訳はできるだろう、と楽観的に割り切ることにする。
「三十五だったら、十八年前は、えーと……十三?」
「十七。早苗、引き算ぐらいちゃんとやろうよ」
「ユーフォのピストンは四つしかないんだから、ユーフォ吹きは四まで数えられればいいの」
「むちゃくちゃや。んなら、トランペットは三つまででええやん」
「数字が3までしかない自然民族も、どこか南の島にいるって聞いたけど。本来人間が生きるのに、10より大きい数なんていらないんじゃないの?」
などとわけの分からない会話を交わしながら、商店街の裏通りにある、ちょっと古びたガラス戸を開ける。カランラン、とカウベルの音が頭上で鳴って、「いらっしゃい」と落ち着いた声が店の奥から投げかけられた。カウンターのマスターが首を伸ばして、ああ、という顔を見せる。途端に、夏実の顔が満面の笑みにあふれかえった。
「おっちゃーん、やっほー」
「おっちゃんやあらへん。お兄さんや」
「えー、だって、ほんまにおっちゃんやんー」
「ほならせめて叔父様と呼ばんかい。お前の発音、本場の大阪もん以上に品がないねん」
なるほど、と早苗は思った。どうやら夏実のこれは、この土地に婿入りした叔父さんから
ひとしきり漫才みたいなやりとりがあって――後から思うと、大した話題でもなく、マスターもむしろ口数の少ない話し方だったが、関西弁のムダ口は、非関西人の耳にはどうしても漫才に聞こえてしまうものだ――早苗はレジの前にいた夏実の叔母を紹介された。大柄な女性で、カジュアルなワンピース姿でいながら花柄がやたら派手々々しく、エプロンもフリルだらけだ。
「よう来たね。あんたが早苗ちゃん? 楽器は何?」
「ユーフォニアムです」
「なんだ、夏実と隣同士みたいなもんやないの。ええねえ、金管なんて。わたしもねえ、最初メロフォンやってたんだけど……あ、メロフォンって分かる? ホルンなんやけど、実体がトランペットみたいな」
よっぽど少ない客に退屈していたんだろうか、テーブルに着く間もあらばこそ、さっそく熱弁をふるいだした。こちらは一度しゃべり出すと止まらないタイプらしい。
下手をすると吹奏楽にすら関係ない衣だらけの〝おばちゃんの思い出話〟の中で、早苗と夏実は(「うちは何も聞かへん」と言っておきながら、しっかり聞き耳を立てていた)、じりじりしながらタイミングを計っていた。正面切って〝呪い〟のことを聞けば、さすがに引かれる。遠回しに誘導して、自然とそれっぽい話へと移るように見せかけなければならない。
二人の忍耐は小一時間続いた。やはり旦那から半分ぐらい関西弁が感染っている、中途半端に調子のいい響きが、しばしば眠気を誘った。
そろそろ疲労がピークに達しようかという時に、ようやく話が今年のコンクールの話に届いて、一つのセリフが彼女の口から転がり出た。
「しかしまた、ずいぶんと曰く付きの曲をやるんやねえ。何事もなかったらええけど……」
もしかしたら、OBの間ではその一言でさっと素通りすることがマナーになっていたのかも知れない。が、鈍感なよそ者を装うと、早苗は正面から斬り込んだ。
「〝呪い〟の話ですね? やっぱりほんとに祟るってみなさん思われてるんですか?」
あまりにも見え見えの食いつき方に、何秒間か、夏実の叔母は半口を開けたまま、早苗を見つめていた。聞こえなかった振りでもされたらたまらない。早苗は続けた。
「正直、どうしてそんな迷信じみた話が定着してるのか分かりません。はっきり迷信だと決めつけるつもりはありませんけど、いったい十八年前に何があったのか、少しでも納得できそうなことを教えていただけませんか?」
「あんた達……それを訊きに出かけてきたん?」
夏実は思わず顔を伏せたが、早苗は目を逸らさなかった。真剣勝負の顔に、夏実叔母が渋い表情を作る。
「まあ……狭い町やし、色々聞いてはいるけどね。知らへんよ? 何が起こっても」
「覚悟してます」
どこまでも大まじめな早苗に、さすがに夏実叔母も吹き出した。そら、聞いたぐらいで死ぬもんやないし、どこまで〝呪い〟がほんまなんかも知らへんけどね。そう言って、姪に顔を向ける。
「あんたも聞きたいの?」
「いや、その……まあ聞きたい、かな? 聞きたくないって言ったら嘘やん」
「後でお祓いしときや」
「うん」
神妙に頷く夏実に、眉を上げて肩をすくめると、叔母は喋り出した。
一度喋りだしたら、楓谷OGの情報開示はさらに一時間以上止まらなかった。嬉々として喋り散らす夏実叔母を目の当たりにして、早苗は考えた。絶対この人と夏実は同じ血が流れてる。関西弁の染まりやすさといい、実は秘密好きな性格といい、もしかしたら家庭の事情か何かで別所帯になっている、本物の母娘なのかも。
話し手への印象はともかく、聞かせてもらった情報は、一応〝呪い〟の全容を説明する内容ではあった。
十八年前の「不幸」とは、支部大会前に起きたある交通事故だった。練習帰りにフルートの一年生がひどいケガを負い、コンクール後にどうやら亡くなった、とのことだ。一方、後日のことになるが、「風追歌」という曲に関しては専門家の間で不可解な議論があって、どこかの作曲家が「これは世に出てはいけない作品だ」などとコメントしたそうだ。そのせいなのか、なぜか「呪われた曲」という噂が立って、自然、曲と交通事故が結びつけられるようになった――。
余分なぜい肉をそぎ落として要約すれば、そんなところだった。
「もう少し具体的なことはご存じないですか? 亡くなった部員のお名前とか?」
さすがに聞き疲れてきた顔を必死に包み隠して、早苗が質問を口にした。
「名前? 名前ねえ。何て言うたかなあ。私ら、もう高校で、中学へは時々遊びに顔出してるだけやったから。まあ、一年でコンクールメンバーやったし、上手い子やったのは憶えてるわ。フルートは三人しかおらんで、ピッコロソロも兼任するほどでねー」
「ええと、その妙なコメントを残した作曲家ってのはどなたですか? 音楽雑誌か何かで言ったってことですか?」
「いや、そんなんやなかったと思う」
「じゃ、なんでそんな不気味な話が広がるんです? おばさんご自身はどこでそれを?」
しばらく腕組みをしていた夏実叔母だったが、やがて「あー、そう言えば」と妙に気の抜ける声を上げて、
「この町におった人やもん。そやから、人づてに聞いたんや」
「この町って……こんな田舎町にプロの作曲家なんかが? 信じられない」
「ちょっと!」
早苗の横腹に、夏実のエルボウが食い込んだ。渋い笑いを浮かべながら、それでも夏実叔母は頷いて、
「まあその通りやけどね。その頃にはおったんよ。割と有名な人。ええと、確か、ふ、フニクラ?……」
「!
「そうそう、その名前……どうしたん、あんた?」
叫びと同時に早苗は立ち上がっていた。心持ち血の気の引いた顔で、テーブルに両手をついたまま、鳥肌まで立てて硬直している。
「まあ座り。それか、何か面白い話でも知ってるの?」
「いえ、あの……」
しばらく早苗は迷ったが(叔母と姪のわくわくするような視線を見て、さらに迷ったが)、結局教えてもらう一方ではフェアではないと思った。先日の千歳との会話をかいつまんで説明する。津見倉峻が、
「ふーん、そういう話もあるんか。そやけど、やっぱりその盗作の話は、ネットのまんまでええんとちゃう?」
「どういうことですか?」
「津見倉ってセンセイが怒ってたって話は確からしいから。『風追歌』がコンクールに乗ってからも、色々音楽室でも揉めてたみたいやし」
「え、それは盗作ってことやなくて、曲の中身が〝呪い〟になってるから警告をしに来たっちゅう話……でもなくて?」
「いや、そこはどういうことか知らんけど」
「けど音楽的に〝呪い〟の響きを察知したからわざわざ教えてくれたっていうんなら、他の作曲家の人も何か言ってもいいですよね? 『この世に出てはいけない音楽』なんて言い方したの、津見倉先生だけなんですか? だったら――」
「うーん、それはそうなんやけど、あの曲吹いたらヘンなことが起きるっていうのは、なんかはっきり噂になってたし」
「え、その一年生の事故以外にも、ですか?」
「そう」
「どんな?」
「それが」
急にタメを作って、暗い顔でうつむいてみせる夏実叔母。宙に目をやりながら、低めた声で、ぼそりと、
「そこは今でも謎やの。誰も話してくれなかったんよね、あの子たち――」
早苗は思わずゾクリとした。つい引きつった顔で、身を引いてしまう。
やっぱり本物だったってこと? 「風追歌」、マジでヤバイ曲? そんなふうに思いつめると、恐怖感で視界まで狭まってくるような錯覚にとらわれる。
が、隣の夏実はがたっと立ち上がり、ぐるっとテーブルを回ると――
手を振り上げて、叔母の肩のあたりをぴしゃんぴしゃんとはたきつけた。
「いたっ」
「もう、しょうもない演出入れんといて」
「え? え?」
戸惑った早苗が二人を見回す。夏実叔母はいたずらがバレた中学生みたいに、屈託のない笑顔で夏実の攻撃を避けている。
「じょ、冗談……だったんですか?」
「ごめんな、早苗。このおばちゃん、頭の中身、中学生以下やから」
「失礼やね! それに、嘘やないのよ! ほんとの話よ!」
胡散臭そうに、夏実がじっと叔母を見る。
「ほんまぁ?」
「ほんとだって。まあ、わたしも詳しいこと聞いてないけど。でも、なんか妙なことがあったってのは確か。顔色悪くして、後輩たちが口をつぐんでたのも確か」
「ふーん」
夏実の疑い深そうな声は、あるいは話にビビってしまってるのをごまかしてたのかも知れないけど、それをわざわざ確かめようとは早苗も思わなかった。
まあ、情報として、当時の部員たちが何らかの怪異を感じていた、というのは事実かも知れない。裏付けが取れない以上、それだけの話ではあるけれど。
気を取り直して、前から疑問だったことを振ることにする。
「そもそも宋光春って人、どこにいたんです?」
「さあ? 津見倉センセイの弟子やったんか、それか案外十八年前の顧問の先生やったとか……いや、それはないか」
「どうして?」
「あの当時って、ちょうどやり手の先生が転勤した少し後でね。部がはっきりと落ち目になっとった頃なんよ。んで、あの年の顧問って、形だけやったん。コンクールでも生徒が指揮したほどでね」
「生徒が……中学生で!?」
高校吹奏楽でたまに学生指揮者というのはあるが、中学では珍しい。まして「風追歌」のような難曲を演奏するのであれば。そう言えば、例の写真の中でも顧問は控えめに端に立っていただけで、手ぶらの男子生徒が真ん中にいたような気がする。どんな顔だったのかは印象に残っていないけれど――。
「『風追歌』を中学生で……尊敬してしまうかも。その指揮者って、今は?」
「いや、プログラムに載ってるのは顧問の名前やったし、名簿もないし。ほら、あの世代って部員数も減って何かと混乱してたから。OBの集まりの中でも浮いてる世代でねえ。ちょっと調べようがなくて」
その後はだんだん話があっちこっちに飛んで、あんまり有意義な会話はなかった。時刻は八時を回り、夏実叔父が二人を家まで送ってくれることになった。最後に姪へのサービスと思ったのか、叔母は「あんた達にはまだ刺激が強いやろけど」と前置きして、極め付きのゴシップを教えてくれた。
交通事故に遭った女生徒というのが誰かはともかく、事故現場は比較的よく知られている。町の南部にある住宅街で、田舎町の町人達が「楓谷のセレブ界隈」と呼ぶ地域である。
「少なくとも、その子はそんなお金持ちの家やなかった。何でそんな所におったんか、妄想を逞しくした奴もおってな」
津見倉氏がけしからんサービスを中学生に要求したのではないか、という噂まで立ったそうだ。つまり、揉めてる吹部と話をまとめる対価として。
「むちゃくちゃやん! 何で中学生がそこまでせんとあかんの!」
「そやから、それは無責任な想像やって。みんな分かってて嘘を広げて遊んでただけや」
「そりゃ津見倉さんも居心地悪くなりますよね。この町を出ていったのは、やっぱりそんな噂のせいで?」
「かもな」
「とんだとばっちりやなー。噂立てられる中学生の方かて、めっちゃ気分悪いと思うんやけど」
「やけど、確かにその時の部員、特に三年生やけど、みんな熱心やったわ。下品な話やけど、そんなアホな噂が説得力持ったのも分かる気がするほどになあ。コンクールも三十人ぐらいやったし、顧問は名ばかりやし、絵に描いたような逆境やった」
「そんな中で叔母ちゃんは、ただふらふらと遊びに行ってるだけの卒業生やった、と」
「嫌な子やね、あんた」
叔母と姪の罪のないやりとりを聞きながら、ちょっと飽和気味の頭で早苗は思う。フルートの子はさぞ心残りだったろう。自分だったらどんな気がするだろう? 死んでも「風追歌」を吹き続けたいと思うだろうし、音楽室にも居残りたい。けど、自分だけ何でこんな目に、なんて思っちゃうかも知れない。一人の生け贄と引き替えに部を金賞にするような矛盾した呪いってのも、その子の正直な無念さの表れなのかも知れない。
しかし、支部大会直前に事故るなんて……。ソロも吹きたかったろうし、銀賞まで取れていたのに。
「あれ?」
唐突に疑問が転がり出た。首を傾げている早苗に、漫才を続けていた二人が怪訝そうに尋ねる。
「今度はどないしたん?」
「その子が受け持ってたパートって……支部大会でどうしてたんです?」
夏実叔母が、今さらのように気づいた声で言った。
「ああ、それは……」
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