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 佐々木胡桃は二十七歳でマニュアル車の免許を待っており、水商売の経験があった。それらが今、遥の推理により明らかとなったのだ。

「そうか、カフェでの注文とか、妙に落ち着いてるところとか、場数を踏んでいるからなんだなぁ」

 俺は感心して言った。

「まあね、この年になるとそれなりに身につくのよ。それか、みんなに比べたら多少大人ってだけよ」

 佐々木は言った。

「ねえ、佐々木さんと荒井先生はどうやって出会ったんですか?」

 遥が気安く聞いた。

「私ね、元々島根の出身でお父さんが町工場を経営する社長やってたの、小さな会社だったけど」

 佐々木は語り出した。

「地元でうまく行ったから家族で大阪に出てきたんだ。私が中学校に上がるタイミングで。吹奏楽部に入ったんだけど、その時の顧問がまっきー」

 佐々木は助手席の荒井先生を指差す。

「こいつその当時から部活の時以外は『まっきー』って呼ぶんだ。最初は抵抗感があったが、もう十年以上経つからいいけどな」

 どうやら荒井先生は諦めているようだ。

「佐々木さん凄くクラリネット上手いですよね! 『結婚の踊り』感動しました。やっぱりその時から佐々木さんはクラリネット上手かったんですか?」

 荒井先生は「まさか!」と吹き出した。

「センスのカケラもなかったよ。カスカスの音でリードミス多発。音楽初心者だったから楽譜も読めないし、全部の音符の上にドレミを書いてたよ」

 先生は懐かしそうに語る。これはあまりに意外だった。あのアンサンブルコンサートの舞台で注目を欲しいままにしていた佐々木が、センスのカケラもなかったとは。

「まっきー、厳しいねー」

「全くお前には手を焼いたよ。そんなんだけど誰よりもやる気あるし、何より楽しんでたからな」

「うん、クラリネットは楽しかったからねー。それにあの頃はお父さんの会社うまく行ってたからマイ楽器も買ってもらえたし、本当に燃えてた」

 佐々木も当時に思いを馳せるように言った。

「マイ楽器なんて持ってるのお前だけだったな」

「何言ってんの! まっきーこそ、ボンボンのくせに!」

 佐々木は拳を握りしめて荒井先生を殴る振りをした。

「当時の先生はどうだったの、佐々木さん?」

 遥が佐々木に聞く。

「なんか頭の硬そうな若いあんちきしょーだったよー。訳わからない音楽用語をさも知ってて当然のように言ってくるし、顔真っ赤にして『ピッチが合ってない!』って怒鳴って、合奏全然楽しくなかった。そのくせコンクールの結果は振るわない」

 佐々木はおえー、と吐くような表情をした。

「いや、本当に恥ずかしいよ。あの頃は教師になったばかりだったしな」

 荒井先生は苦笑いしていた。

「でも荒井先生、関西ではそこそこ名が通った指導者だって里見さんが言ってたけどなぁ。二人とも今とは全然違ったんですね」

 俺はそう言った。

「ああ、当時は音楽することばかり考えていたんだよ。昔話になるが大学ではクラリネットを専攻しててな、プロの奏者を目指してたけど全然ダメだったよ。ついでに取ってた教員免許もあったし、大阪の公立中学校の音楽教師になったんだ。

 でも、まだミュージシャン気分が抜けなくてな。あの頃は確か二十五だったな。今の佐々木より若い。音大の授業の真似事のようだったと反省しているよ。それも全部佐々木に気付かされたんだ。必死に練習してるこいつを見てたら、この子には音楽を理解してもらうのではない、このまま楽しんでもらうのがいいってな。その時、ああ俺は教師なんだって思ったよ。そうだ、俺は音楽家ではない、教育者にならなければ。そう思わせてくれたんだ」

 先生が傍の佐々木を見ると、彼女はいえーい、と腕を振った。

「まだ佐々木が中学生の頃には今みたいな指導が出来なくてな、当時のメンバーが納得いく結果は出せてやれなかった」

「いいんだよ、まっきー。今に生きなよ」

 佐々木は助手席の荒井先生の肩を軽く叩く。

「二人とも気になるだろうから全部言うねー」

 佐々木はちら、とこちらを一瞬振り返り言った。

「お父さんの会社ね。私が二年になる頃からもう経営傾いてたの。三年生の時に倒産して、借金生活。お母さんは反対したけど高校進学は諦めて中学出たら働いたんだ。お母さんは病気がちで内職しか出来なかったし」

 佐々木はそうして身の上を語り出した。

「コンビニとかチェーン店のバイト、学生がいっぱい来るからいいなぁって思いながら働いてた。私は高校生活諦めたからね。あと、工場の仕事もやってた。これが一番続いたかな。アクリルを加工する工場だった。朝早いけど十七時には上がれたからね。それで夜はラウンジやってた。もちろん成人してからね」

 なるほど、ここであの「お願いしまーす」が出てくる訳だ。

「工場では出来た製品を軽トラで運ぶこともあるから、免許持ってたら給料上げてやるって言われてね。その時、ラウンジのお客さんで結構いい会社の社長さんがいたから、それ言ったら教習所の金出してやるから、軽トラで出勤してみてって言うの。お酒飲むのにね。それにどうせなら借金の方、助けてくれよって思ったねー」

 佐々木は笑って楽しそうに語っていた。

「まあでも免許は欲しかったし、マニュアル車の運転もしてみたかったし、多分その時の彼氏がマニュアル乗りだったから影響されたのかもね。教習所通って免許取ったの。社長に報告したらおお、良かったなで終わり。変な人だったなー」

「そのラウンジなら俺も一度行ったよ」

 荒井先生は言った。

「まっきー、その頃は頭角を現し始めて、関西大会の常連だったんだよー」

 佐々木は誇らしげに言った。まるで自分が育てたような言い方だ。立場が逆転している。

「まっきー、全然飲めなかったよねー。でも結構お金使ってくれてたよー。一回しか来なかったけど」

「酒は苦手なんだ。それにあの月は相当紐じい思いをしたよ」

「ウケるー! で、免許も取ったし約束通り工場の方の給料も上がって、細々と生活してた。クラリネットを売れば多少は返済の足しになったけど、絶対売るつもりはなかった。もう毎日、とは言わないけどずっと吹いてたね。口うるさい坊やもいなかったしね」

 佐々木は悪戯っぽく荒井先生を見る。

「で借金返し終わったら二十五になってた」

「へえ、凄いなぁ」

 俺たちが放課後ダラダラ喋ったり、修学旅行ではしゃいでいる年頃の佐々木は、家族のために働いていたのだ。頭が下がる思いだった。

「でしょー。その時、もう中学を卒業してから十年経ったんだーって思ってね。借金返し終わって貯えもあったし、やりたいことやろうって思ってたの。そしたらまっきーが島根の私立高校に行くって聞いたからさ。私も行きたいーって、まっきーにお願いしたの」

「最初は単純に島根に引っ越したいのかと思ったけど生徒として入学したいって聞いてびっくりしたよ。青春を取り戻したいって真摯な表情で言うんだ。クラリネットもはうまくなったようだしな」

 あれで多少なのか、俺は音楽界の厳しさに戦慄した。

 「その頃、公務員をやめて南ケ丘高校に行こうかどうか、悩んでたんだが佐々木がそう言うからな。赴任は向こうから打診されていたんだ。だから理事長に佐々木胡桃という女性を現役の高校生として入学させてもらえるなら行くって言ったんだ。そしたらなんと許可された」

 荒井先生は両手を上げる。

「全くおかしなことがあるもんだ」

「私だってなりふり構っていられないよー。人生は一度きりだからさ。必死で青春を取り戻そうとする痛いコスプレおばさんって思われても構うもんですか! 明日だって制服ユニバ決めてやるー‼︎」

 そう言うと佐々木は車を飛ばす。気付くと京都に戻っていた。

「佐々木さん、それ素敵! あなたは正真正銘十七歳の女子高生よ!」

 遥は感動して言った。

「さあ、みんなホテルまで飛ばすわよー!」

 おおー、と遥の声が響く。

「だがまずは、レンタカーにガソリンを入れて返さなきゃな」

 荒井先生が冷静な口調で言った。

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