第九章

『旅立ちの杯(一)』

 青龍派せいりゅうはとの交流試合から数年が経ったある日————、

 

 お気に入りの原っぱに水瓶を持ってたたず成虎セイコの姿があった。

 

 身体の大きさはさほど変わらないものの、左頬に走る深い刀疵のためか数年前は僅かに残っていた少年っぽさが抜け、すっかり青年といった風貌になっていた。

 

 成虎の視線の先には簡素な墓があり、墓標には『シュウ烈女之墓』と刻まれていた。成虎は清水を柄杓ひしゃくすくって丁寧に墓に掛けていく。

 

「————どうでえ、周姉さん。涼しいかい……?」

 

 水を掛け終えた成虎は以前、永蓮エイレンに教わった『梅花婉転掌ばいかえんてんしょう』を墓の前で披露して見せる。それは技の上達具合を師父に見てもらう弟子のようであった。

 

 一通り套路とうろを終えた成虎は永蓮の墓の前にどっかりと座り、続けて墓へ話しかける。

 

「どうでえ、姉さん。出来のわりい弟子の上達具合はよう。これでも暇がある時にゃあ、しっかりとおさらいしてたんだぜえ?」

 

 しかし、周囲には風の吹く音や鳥のさえずりなどが聞こえるばかりである。成虎は寂しげに微笑むと、再び墓に話しかけようと口を開けたが、何かが喉につっかえたように言葉に詰まってしまった。

 

「…………考えてみりゃあ、俺はアンタのことを何にも知らなかったんだなあ……」

 

 世話好きの永蓮だったが同門の者にも自分のことはほとんど話さず、彼女の人となりを詳しく知る者はいなかった。

 

「アンタはいってえ何が好きで、何がきれえだったんだい……?」

「————周師妹は桃が好きで、毛虫が嫌いだったぞ」

 

 背後からの声に、成虎が振り返ると熊のような風貌の大男の姿が見えた。

 

「こいつぁ驚いたぜ。周姉さんはヒゲづらのオッサンに転生しちまったのかい」

「馬鹿なことを言うな」

 

 呆れ顔の将角ショウカクは成虎の隣に立った。

 

「————そういやぁ、姉さんから桃を貰ったこともあったっけか。俺ぁそんなことも気に留めちゃあいなかった。……そうかい、桃が好きで、毛虫が嫌えだったかい」

「師妹は自分のことは極力明かさぬようにしていた風に俺には感じられた」

 

 家伝の技を教えてくれた永蓮だったが、身の上を誰にも話していないのは何か理由があったのかも知れない。

 

「……そうかい。それで遺骨を親元に返さねえで、こんなトコに墓を……」

「この場所は師妹の気に入っていた場所だからな」

「そいつぁ俺と同じだな————で、いってえ俺に何の用だい?」

 

 成虎が尋ねると、将角は向き直って包拳礼を執った。

 

「————ガク筆頭、オウ掌門がお呼びです」

「おめえまでその呼び名はしてくれよ。くすぐってえったらねえぜ」

「そうは参りませぬ。私は半年前、筆頭弟子を決める試合で貴殿に敗れました」

「ちぇっ、分かってんだぜ。面倒くせえ役を俺に押し付けるために、おめえが手を抜いてたってことはよう」

「…………」

 

 将角は無言で首を振ると、脇に立つ大木へと顔を向けた。

 

「————熊将ユウショウ、来い!」

「…………?」

 

 将角の声に成虎も大木へ顔を向けると、将角からヒゲを取ってそのまま小さくしたような少年がおずおずと姿を現した。

 

「————何でえ、このシャオ将角はよう!」

 

 新しい玩具おもちゃでも見つけたような表情で成虎が尋ねると、熊将と呼ばれた少年は成虎に包拳した後、慌てて将角の背に隠れてしまった。

 

「この子は熊将と言って俺の遠縁の子でな。ある事情で身寄りが無くなったので、桃源郷とうげんきょうで預かることになった」

「ほお、おめえの親戚ならきっと強くなるだろうな」

 

 成虎に褒められると熊将はますます深く将角の背に身を隠した。

 

「ん? どうしてえ? 何か気に障ったかい?」

「実はな、この子は半年前の試合を観ていて、その時からお前に憧れているようなのだ」

「そいつぁ光栄だねえ。よし、熊将。しっかりと見とけよ?」

 

 成虎は立ち上がると、得意技の崩拳ほうけんを放って見せた。

 

 それは見事に真氣を孕んだ一打で、数丈離れた桃の樹が振動で揺れ、大きく熟れた桃の実がボトボトと落ちた。

 

「こいつぁ、俺からの餞別だ。しっかり修行して、俺や将角よりも強くなるんだぜ?」

 

 そう言うと成虎は後ろ手に手を振って去って行った。熊将は感激した表情を浮かべて、その大きな後ろ姿に叩頭した。

 

 

 

 ————掌門のに着いた成虎は面倒くさそうにガリガリと頭を掻いた。

 

「————筆頭弟子・岳成虎、掌門に拝謁致します」

「……入るがよい」

 

 数年前と変わらぬ魔性の声を確認すると、成虎は扉に手を掛けた。中に入ると既に御簾みすが上がっており、優雅に扇子を舞わせる西王母セイオウボの姿が見えた。

 

「お呼びでしょうか、西王母さま」

 

 成虎が片膝を突いて挨拶すると、西王母は婉然と微笑んだ。

 

「ホホ、そなたも歳を重ねて礼儀というものが身についてきたようじゃな。初めて桃源郷に足を踏み入れた時とは大違いじゃ」

「そうですな。人間嫌でも歳を食うモンですが、西王母さまは数年前と不自然なほどに変わらぬ美貌で何よりなこって」

「褒め言葉と受け取っておこうかの」

 

 西王母に嫌味をサラリと躱された成虎は小さく舌打ちをすると、その場に座り込んだ。

 

「————それで? わざわざ俺を呼びつけたのは何の用なんでえ?」

「可愛い弟子の顔を見るのに理由がいるのかえ……?」

「……用がねえなら俺は行くぜ」

 

 冷めた表情で立ち上がった成虎を西王母が呼び止める。

 

「————待つがよい」

「…………」

 

 先ほどまでとは違う西王母の口調に成虎は無言で足を止めた。

 

「そなたが『あの一件』からわらわを避けておるのは分かっておるが、そう邪険にするでない」

「……周姉さんが死んじまったのは誰のせいでもねえよ。どっかのロクデナシが未熟だっただけだ」

「ふむ……、それでこの数年、あれほど出たがっていた外界へ行くこともなく鍛錬に明け暮れておったかえ」

「…………」

 

 沈黙をって成虎が答えると、突如西王母が話題を変えた。

 

「————白州はくしゅう(西方)の南で妖怪の退治要請が出ておる。そなたが鎮圧して参れ」

「ああ? 何で俺が?」

「つべこべ抜かすでない。岳成虎よ、白虎派びゃっこは掌門として命じる。荷物をまとめて即刻、出立せよ」

「…………!」

 

 成虎は唖然とした表情で西王母を見遣った。西王母はいつになく鋭い顔つきでおのれを見据えていたが、その眼の奥には我が子の旅立ちを後押しする母性のようなものが感じられた。

 

「……きったねえな、こんな時にだけ掌門風吹かしやがって」

 

 苦笑いを浮かべた成虎は西王母にしっかりと向き直り叩頭した。

 

「————筆頭弟子・岳成虎。その任、謹んでお請け致します!」

 

 顔を上げた成虎は入ってきた時とは別人のような足取りで掌門の間を後にした。その背を見送りながら西王母が優しくつぶやく。

 

「……怖いもの知らずの若虎は大きく成長した。そなたにはもう桃源郷ここは狭かろう。外の世界で思う存分、暴れてくるがよい」

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