蝕み続ける弱さを、ガスマスクで覆うことはできず

 沈黙すると重く、長く、永遠に静けさが広がった。完全な静寂ではない。どこか遠くで声が聞こえる気もした。


「…………」


 足元に、記憶に残り続ける光景。視界がぼやけた。息が詰まり、側頭部が鈍く痛む。頭を抱え、膝から崩れ落ちた。


「……便利屋風情が、大切な誰かをつくるべきではなかった。…………わかっていただろう。なぜ、こんな――……嗚呼」


 ――今のルドヴィコ・アーヴェはもう腕を斬られた程度では死なないだろう。顔を削いだ程度では殺せないだろう。そんなことは分かっていたにも、かかわらず死んだ扱いにして、無かったことにしようとした。


 やがて目の前の亡骸は炎に包まれた。火の粉が舞い、聞き慣れた音が耳を撫でる。揺れるような灯火がガスマスクを照らす。


「……師匠。僕にさぁ、くれた……【緋の糸】。あの子に渡したんですね?」


 声だけが悪夢のなか響いていた。


「僕のことは忘れよう、無かったことにしようとして。もう誰との関係も全部断ち切ってさぁ……。二度と同じようなことが起こらないようにしてたはずじゃあないか。師匠はすぐにでも繰り返すだろうね」


「…………黙れ」


 炎から目を離せないままぼやいた。ヘラヘラと、引き攣った笑い声が止まることはなかった。


「エスコエンドルフィア製薬だとか、仕事がどうとか。そんな些細なことはどうでもいいんだ。師匠はさぁ、分かってるだろう? 逃げることなんてできないんだ。すぐに会うことになる」


「……喋らないでくれ」


「殺意も、無機質さも。全部無くした師匠がどうやってさぁ……。僕を殺すんだい? 嗚呼、無理だろうね。代わりに師匠を斬り裂いて、残ったあのクソガキも企業に返しておしまいだ。そうだろう?」


 その言葉の音だけは指向性を伴っていた。ほぼ同時、靴音が響く。


 気づいたときには既に、気配はすぐ背後に立っていた。振り返り、剣を握るよりも先に首筋を白い刃が触れた。僅かに走る痛み。刀身を引いたが最期、肉は容易く裂けるだろう。


「……ルドヴィコ」


「殺さないとも。こんなつまらない場所ではさぁ……」


「……いつからいた。これも夢か? それとも何処かの企業の特許技術、いや、異界道具で夢にでも入り込んだか?」


「ハッ、あの【緋刃】も夢ではこんなにさぁ……。なんてみっともない姿だろう。夢に入る異界道具? 技術? そんなものがあったら、僕は毎日だって会いに来ただろうに」


 エストは声の方を向くことはできなかった。刀身が首元にあてがわれているから? ――違う。こんな力のない構えはいつだって振り払えるだろう。


 ……直視できないだけだ。できることをしようと、どれだけ考えたところで根本を変えることができないだけだ。


「俺を恨んでいるのか? アーヴェ……、ルドヴィコ・アーヴェを助けられなかったことを。今のお前と向き合おうともしなかったことを」


「さぁ。師匠はどう思いますか? 僕はさぁ――――」


 声が途切れた。雑音がどこか遠くから重なるように響いて、脳が揺さぶられる。


『――スト!』


「嗚呼、師匠。また会いましょう? 近いうちに」


『エスト!!』




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 パシンと、乾いた音が頬を叩いた。エストはゆっくりと目を開けたがガスマスクに隠れた状態では伝わらず、そのままガクガクと上体を揺さぶられる。


「……休ませろと言ったはずだ」


 すぐ目の前にシルヴィがいた。眩しい薄桃色の髪を激しく靡かせながら、無遠慮に胸ぐらを掴んでいた。少し遠巻きに、レーヴェが不安げな顔を覗かせていた。


 シルヴィはエストが起きたのを見て僅かに微笑むと、すぐに真摯な眼差しを向け、自責の籠もった影を差した。


「それは分かってるよ。けど、エストが凄くうなされてたから、起こした方が良いかなって思ったの。……俺の所為だ。すまなかった。って、ずっと、ずっと、うわ言みたいに言ってたよ」


「……そうか」


 声が掠れる。手が震えていた。――これではまるで薬物中毒者だ。


 シルヴィもすぐに気がついた。真剣だった表情がニヘラぁと、一瞬で溶けて消える。赤らんだ笑顔が眼前に迫った。


「もしかしてぇ……怖い夢見て泣いちゃったぁ? しょーじきに答えたら私が甘やかしてあげるけどぉ?」


「………………嗚呼、そうかもな。酷い夢を見た。泣きたくなる夢だった」


 沈黙することもできなかった。こんな少女に弱さを見せた。自嘲が溢れると、シルヴィは虚を突かれたように硬直しながら、代わりに沈黙するように静かに口を閉じた。


「……」


 エストの手をぎゅっと握り締めた。振り払う理由も、余力もなく、エストはそのままでいた。


 ――思い出が増えれば増えるほど苦しくなると分かっていたはずだ。


 だというのに、無くしたときの喪失感に耐えられる訳がないというのに、彼女の手を振り払うこともできなかった。


「…………」


 レーヴェも対抗するように空いているもう一方の手を握った。エストは呆然としたまま言葉を交わすことはなかった。


 ――こんなことをしている猶予は無い。地上のそう遠くはない場所で不自然な爆発音が響き、壁や天井を震わせている。殺傷や破壊を目的とする火薬の量ではない。


 思考だけが巡っていた。理性が体を突き動かそうとする。二人の手を振り払おうとする。それ以上の力が重く、全身にのしかかっている気がした。


 …………振りほどけない。冷えた指に熱が滲み伝うまで、微動だにも動けなかった。

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