薬物の支配が爆煙に揺らぐことはなく

「……移動しないの?」


「時刻が来るのを待っている。この街の住民のうち最も多い割合を占めるのは四等級労働者だ。彼らは薬で疲労感、苦痛、負の感情を無かったことにして一日三時間の休憩がある。そのうちの一時間が――今からだ」


 元々人の多かった大通りが人間で溢れ返っていく。


 彼らは幸福剤に身を蝕まれていることを不幸とは思っていない。カフェで笑顔を振りまきながら食事をする者。何かを話しては笑う者。誰もが幸せそうに歩く。食べる。話す。


「奴らは何もかもが麻痺っているが生への執着心だけはある。死んだら幸福剤を摂取できないからだ。当然といえばそれまでかもしれないが危険なことがあれば我先にと逃げるはずだ」


 シルヴィは疎ましそうに眉間にシワを寄せた。別に彼らを上から目線に偽りだとか騙されてるとか言うつもりも思ったりもしてはいないが。単純に。


「あいつらが私達より楽しそうなのがムカつくなぁ。ねぇエストもあれぐらい笑えないの?」


「バカなことを言うな。そんなことをして嫌がるのは絶対にお前だろう」


 棘のない言葉。ふんと。確かにエストは鼻で笑った。


 自覚があるのか無いのか。それっきりだんまりなエストを、シルヴィとレーヴェは一瞥して互いに顔を見合わせる。秘密を共有するように笑みを堪えた。


「――気を抜くな。そろそろだ」


 まもなくして、街の一画の決して人が少ないとは言えない場所で爆炎が舞い上がった。大気を揺らす衝撃。周囲の窓ガラスが激しく揺れ、部分的に砕け散る。耳を劈く轟音と共に黒煙が淀んだ空へ広がっていった。


「……人を巻き込まない場所を爆破するように言ったんだがな」


 煙を見上げながらエストはぼやいた。爆発によって建物の一部が燃え上がり、周囲ではパニックになった人たちが慌てふためく。


「行こ。混乱に乗じるんでしょ。私達が無事なら正直、私にとってはどうでもいいことだよ。知らない人の痛みなんて知らない。なんなら、この爆発の方が効果的かもよ」


 彼らは家族だろうが、先程まで親しく話していようが関係なく我先にと逃げ出した。車道を構わず横断して道が詰まっていく。無数のクラクションが重なる。意味をなさない怒号が響く。


「離れるな。パニックになっていようが顔はバレている。特にお前の髪は主張が激しい」


 エストはシルヴィを見下ろした。向かう視線にしたり顔を返して、淡く蛍光する桃色の髪を自慢するように靡かせる。


「【緋刃】の色には負けちゃうかも。でも目立つのは確かだからぁ……私を離さずぎゅーってして♡」


 エストは深い嘆息を付きながらも強引に少女の小さい手を握る。ぎゅーとはしなかった。それからすぐにレーヴェを一瞥した。


「わ、私は大丈夫だよ? 確かにルドヴィコのやつには遅れをとったけど。流石にそこまで言ったら手をつなぐとか……そういう話じゃないでしょ? でもその、するなら、するけど」


 レーヴェはウェーブの掛かった黒髪を揺らしてもじもじと指をこねる。緊張を抑えるように胸に手を当てた。


「…………何の話をしている? シグナルジャマーを起動しろ。いつでも刀を抜けるようにしておけ」


「ああ、うん。そうね。そうだった……」


 レーヴェがベルトに掛けた小さな機械を弄ったのを確認して、エストは混乱の渦へと紛れた。人間の濁流を割って入るように押し進む。


 ハート共がすぐ近くを横切った。彼らは命令を受けていないのか、探るように周囲を見渡すだけで事態の収束を試みない。


 ――――怖いくらいに順調だった。エストが淡々と人混みを掻き分けていく。泳がされているような錯覚が過って、不安を押し殺すようにシルヴィは牙を噛み締める。


 鋭い喧騒と人の熱が広がっているのに、緊張の所為で雑音は耳に入らない。ぼやけた五感が静寂を思わせる。初めてビルの外に出たときと似た気分だ。


 先が見えなくて心臓がバクバクして、握る手から伝わる感触しか分からなくなってくる。


「平気か?」


「……我慢しなきゃいけないんだから。こんなときに優しくしないでよ」


 歯痒くなって俯いたものの、ゴツンとエストの背に頭をぶつけてすぐに顔をあげた。隠し持った武器にでも打ったのか金属の硬さが痛みとなって伝う。


「ッうぅ。なんで急に止まるの。もしかして私がこうやって痛がったり照れて困るところを見たくて意地悪してるぅ……? サディスト♡」


「人の流れが変わった」


 爆発で生じた黒煙と炎が建物の一棟を未だ覆っているにもかかわらず、秩序なく乱れていた人混みは一転して落ち着きを取り戻していく。


 何が起きたのかを探る必要はなかった。無数に聳えるビルの広告塔のホログラムがサイケデリックに明滅し、街全体に耳に残る音楽と歌姫の合成音声が響き渡る。


『どうもー! 皆の歌姫だよー♪ 朗報です。日頃から頑張っている皆のためにエスコエンドルフィア製薬は幸福剤の追加配給を決定しました! 場所は各自階級に合った薬局で行っています。今日限りなのでなるはやでどうぞー♪』


 人の流れが変わった。行き先とは真逆の方向へと押し寄せていく。エストは僅かに静止し、諦めるように首を横に振った。踵を返し人の流れに従っていく。


「……薬の配給に向かわない人間はお尋ね者でなくても捕まる」


「私は人間じゃないからスルーされたりしない?」


「お尋ね者だろう」


 冗談にクソ真面目な返答が返ってくる。くだらないやり取りは無数の声と頭上で奏でられる歌姫の楽曲に掻き消えて他の誰にも聞こえはしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る