乾いた牙に滲む本能

「ここは……どこ? なんで、二人がいるの……ッ? わたしは」


 幸福剤を打たれた自覚はあったのだろう。自分に理性があることに疑問を抱いて、ぼんやりと潤んだ瞳をぐしぐしと拭った。


 幸福剤の作用が残っていたらこうはならない。シルヴィは安堵するように胸を撫で下ろして、自嘲的な笑みを浮かべた。


「私が助けたの。……って言ってみたいけど。本当は私の所為でレーヴェは酷い目にあったし助けたのもエスト。……ほら、なんか言ったら?」


 こうでも言わないとエストは何も喋ろうとしない。案の定、エストはこちらを一瞥して視線が何かを訴えてくる。僅かな沈黙、諦めるように溜息をついた。


「運が良かった。偶然コレが幸福剤の作用を打ち消す薬を持っていた。偶然、解体屋に入ったところを見つけて助けた。それだけでしかない」


「偶然ぅ~? 手あたり次第解体屋の怪物共を殺して回ったくせに? 照れ隠しも過ぎると滑稽にッ――痛ぁい! エストが叩いた!」


 エストが本気になって探してたことを伝えたかった。自慢したかった。  


 シルヴィは小突かれながらも満足気に笑う。エストが感情的になっているのが余計に嬉しくなって挑発的に頬を染めた。


 レーヴェは呆けていた眼差しでおどけたやり取りを見詰めていたが、パチパチと瞬きでリセットして、安堵するように微笑んだ。


「……飲めるか? 禁酒はしていないだろう」


 溜めに溜めていた密造酒の一瓶を手に取ると金属コップに注いでいく。レーヴェはスクンと匂いを嗅いで、懐かしむように顔を上げた。


「私が好きなやつ……まだ造っててくれたんだ」


 果実のような匂いと揮発するアルコールの刺激が香る。レーヴェは透き通った酒を一気に飲み干した。不満げに、シルヴィはエストを睨む。


「私のはないのぉ?」


 言葉を予測するようにエストはすぐにシルヴィへコップを押し付け、トクトクと赤い飲料を注いでいく。


「ぐずぐずと言われるのが嫌だっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。お前のにアルコールはないがな」


 ――酒ではないことに愚痴を零してくるかと思ったが。シルヴィはズズズと啜ると閃いたかのように目を煌めかせて見開いた。


「これを……! 私の分を造るために赤色甘味料なんて買いに行ってくれたの?」


「ぐずぐずと言われるのが嫌だっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」


 同じ言葉を言い直した。シルヴィは余計に機嫌を良くして蠱惑な笑みを向け鼻歌を吹き始める。エストは苛立つように座ったまま脚を揺らした。


「……そうだ。師っ……! エストっ。ここは危ない! 私……きっと喋った。【緋刃】の居所を尋問されて、幸福剤を打たれたから――――」


 思い出すようにレーヴェはベッドから飛び起きた。壁に掛けていた黒い刀を即座に手に取って神経を巡らせるように鋭い眼差しを四方に向ける。


「……冷静になれ。慌てるのは良い癖ではない。外を見ればいい」


 エストは動揺する様子もなかった。レーヴェは訝しむように水垢だらけの窓から薄汚れた外を一瞥し、首をかしげる。


「……引っ越してたの?」


「言い忘れていたがな」


 ああ、息を吐くように嘘をついたなと。シルヴィは軽蔑するようにジッと睥睨をくべる。エストは視線の意味を理解したうえで気づいていないフリをした。


「何故、【緋刃】を追っているか教えてもらえたりはしたか?」


 シルヴィは隠すように薬瓶を握り締める。レーヴェは首を横に振りながらも、噛み締めるように歯を軋ませた。


「組織的な理由はわからない。……でもハート共が動いてるからエスコエンドルフィア製薬の奴ら。それと、――――ルドヴィコが生きてた」


 ガシャンと、酒瓶が砕け散った。エストが手を滑らせるのを見るのは二人とも初めてだった。表情をガスマスクで覆い隠したまま、確かな動揺と共に長い沈黙を張り詰めた。


「…………そうか」


 たった一言。重い相槌を零した。


「あいつはまだ師匠に会いたがってる。それ、その子のことを探してる」


 レーヴェはシルヴィへ視線を向けた。黒く大きな瞳に、無数の虹彩を放つ異質な髪が映り込む。シルヴィは居心地悪げに牙を軋めた。


「……問題はない。殺そうとするなら対応するだけだ」


 エストは脱力するように俯いて、【緋色の剣】を強く握り締める。行き場のない力が手を震わせた。


 シルヴィはそんな様子をジッと見詰めて、不安げにガスマスクを見上げた。


「……その、ルドヴィコって人と。何があったの?」


「お前には関係のはない話だ」


 エストはすぐに言い切ると、手荷物だけを纏め始める。


 ――関係ない。その通りだから何も言い返せなくて。前にも感じた疎外感が胸を突き刺した。


 落ち込むみたいに顔を反らすと、突っぱねた癖にエストの手が頭に置かれる。顔を覗くと、彼の視線が窓の向こうへ行っているのが分かった。


「レーヴェ、シルヴィ。すぐにここを出る準備をしろ」


『気配がします。ルドヴィコではないようですが、複数』


 【緋色の剣】の警告にシルヴィはすぐに銃と短刀を手に取った。レーヴェはもう戦えると言いたげにゆっくりと息を整える。


「数は少ない。このまま正面から出る」


「私も戦える」


 シルヴィは爛々と目を輝かせて牙を見せて笑った。エストはじっと見下ろし、自衛の域を超えた感情を、【緋色の剣】が好いてやまない好戦的な想いを感じ取ると膝をついて視線を合わせた。


「……自衛だけしろ。キミは戦うな」


「なんでダメなの? 私が怪物に殺されそうになったから? 私が子供っぽいから? 人間相手なら戦える。足音だってわかるよ。ここに向かってきてるのは六人。明確な所在までは分かってない」


 ドクドクと心臓が高鳴り始めている。五感が敏感になってきている。この衝動は『弱い体を補助する薬』一錠ごときじゃもう抑えられないのに。


 エストは理由すら言ってくれなかった。ただ黙ったまま見下ろす。


 重く息苦しい威圧感だけでシルヴィは従わざるを得なかった。不満が渦巻く以上に、――敵わない。


「そ、そうやってこんな女の子を無理矢理黙らせるんだぁ。変態♡」


 こんなこと言ってる場合じゃないけど、猫撫で声を発すると乾いた牙に溜まる熱が全身へ分散していった。


「行くぞ」


 エストはシルヴィの様子を見て鼻で笑うと、【緋色の剣】を抜きながら躊躇なく外へ疾駆した。

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