二章:終わった世界の幸福な都市

メスガキの仮面とガスマスク

 二章:終わった世界の幸福な都市




 便利屋をする上で守るべきことがある。一つは、誰かを信じないこと。裏切られる可能性はいつだって消えることはない。


 第二に、仕事中は顔を隠すこと。仕事上、恨みを買いやすいために不用意に正体が知られるのはリスクでしかない。


 最後に一番重要なことは、誰かと深く関わらないことだ。信頼できる誰かがいる、孤独を癒す誰かがいるのは心地良いことだろうが、いつまでも一緒にいられるわけではない。突然消えるかもしれない。次に消えるのは自分の可能性もある。


 大切なものがあるほど、それを失ったときに立ち上がれなくなる。だから便利屋は孤独であるべきだ。


 ――――だと言うのに。


「……悪癖だな」


 エストは誰にも聞こえない声でぼやいた。慣れない足取りで、不安そうに周囲を見回しながら歩く少女の手を引いて。ネオンの光煌めく街を進んでいく。細い路地を抜けていくと、電飾の輝きとは対照的に暗い影が差していた。


 地べたに転がる痩せ干せた人間。掃き溜めは無秩序で、点々と注射器が捨てられていた。箱入り娘でしかない少女が怯え、緊張するのは仕方のないことで。


「怖くない、から。こんなのずっと上から見てたし……」


「…………そうか」


 ――違う。もっともまともな返答はできないものか。彼女はどう見ても怖がっている。自問するが、これ以上何も言葉は出ない。


 そもそも、仕事以外の案件で会話をしたこと自体が久々だった。まして、今の拠点に誰かを連れてきたことはない。


 裏路地を通り抜けると、電灯の途絶えた廃墟街に出る。赤い荒野と黒い海に隣接する区画はまともな住民は近寄らない。建物は放棄され外部から不法に滞在する奴らと犯罪者、それにアングラな店の巣窟になっている。


 便利屋などという仕事をするエストも同類だった。


「中に入れ」


 ガスマスクで顔を隠したまま少女を見下ろす。大企業の巨大な窓から都市を見下ろしていた彼女からすれば、こんな場所は酷く汚く、狭く、息苦しいだろう。まして家は建造物ですらない。


 廃棄されたバスを買い、シートを引っぺがして生活できるように改造しただけだった。


「……秘密基地みたい」


 少女は不快感よりも好奇心を表に出した。押し詰めたようなテーブルにキッチン、ソファを一瞥してからエストの顔を見上げる。


「適当に座っていい。何か用意する」


 そうは言ったものの。出せるものなどろくになかった。栄養の確保を目的とした味気ない完全食のレーションと不自然に甘い合成飲料を差し出して、少女の向かいに腰を下ろした。


「…………」


 言葉は出てこないから、エストは沈黙を貫いた。薄暗い部屋のなか、空調ファンだけが音を響かせる。


 少女は落ち着かない様子で脚を震わせて、目が合ってしまうとびくりと肩が跳ねた。青ざめた表情のまま顔を背ける。


「ン、ぶ……ッぐ」


 深紅の瞳は限界まで見開くと、涙に潤んでいた。少女は嗚咽を堪えるように手で口元を覆い隠す。


 おそらくだが彼女は……見ていたのだろう。自分以外の全員が殺されるところを。殺すところを。


 ――――何か言ってあげるべきだ。励ませばいいのか? 同情すればいいのか? …………分からない。せめて、命の危険がもうないことぐらいは教えればいいのだろうか。


 エストは長考した。何とか言葉を頭のなかで設計していき、少女に声をかけようとして……喉が詰まる。


「…………名前はなんだ」


 聞くべきではない。便利屋として活動するなら感傷の要因は捨てるべきだ。こんな子が長生きできるはずがないのだから。


「シルヴィ・ラヴィソン……。みんな、ヴィヴィって言ってくるけど。それは、名前じゃない」


 ふわりと、桃色の髪が柔らかに揺れる。最初よりも随分と色の低く落ち着いた声で少女は答えた。


「そうか。ならシルヴィ、ひとまずは安全なところまで移動した。それも好きに食べていい」


 もっと言い方はなかったのか? ……しかし、深入りするべきではないことを考慮すると間違った対処ではないはずだ。


 シルヴィは意を決したようにレーションを頬張った。……食べ慣れてないらしい。口元からぼろぼろとこぼれていく。


「…………牙」


 八重歯ではない。歯全体がギザついていて、人間の歯とは違った。


「な、なんで私の口なんかジッと睨んでるわけぇ? シルヴィの口がそーんなに興味深いならどーしてもってお願いするなら見せてもいいよぉ。あーん♡ って感じで」


 シルヴィはなんとか自分の得意分野に、唯一自分が誰かと対等になれる土俵に持ち込もうと扇情的に舌を見せた。ぺろりと巻いて、赤い双眸が妖しく煌めく。


「…………」


 エストは黙り込んだまま、嫌な汗を拭った。――言っていることは意味不明だが、ガスマスク越しに視線がバレたらしい。素人の、なんの技術もない少女に。


 ……本当に素人なのか? この少女が暗殺者である可能性は否定できない。そういう事態は実際にあった。他人と関係性が生じることほど危険なことはない。


「アハぁ♡ 焦げそうなくらいジッと睨んでどーしたの? この歯は、私が愛玩用に造られたからあるの。可愛い? 私を無茶苦茶にしたくなった? どんな雑魚ザコでもお願いするなら、私は全部、どんなことだって肯定してあげるけどぉ?」


 シルヴィは捲くし立てるように考えずとも飛び出る言葉を口にして、内心後悔していた。……睨まれると怖いって言いたかっただけなのに。引き攣る表情から苦い汗が流れ落ちていく。


 言葉にも態度にも出ないそんな想いが伝わるはずもなく。


 ――殺そうとすれば本性を現すか?


 冷徹な疑問のもと、エストは試しとばかりにシルヴィの頬をつねり、引っ張った。むにむにと肌に触れて気を反らしながら足に転がしたナイフを蹴り飛ばせるように身構える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る