10 状況説明をしました

「私も若い頃は色々ありましたけど……あなた……」


 午後。庭の一角にセッティングされた椅子に座り、背筋を伸ばしたまま、けれど困った様子で頬に手を当てる母は、そう言った。


「ごめんなさい……でも、その時はどうしても気が収まらなくて……」


 対面の椅子に座っている私は、少し肩身の狭い思いをしながら、母の様子を窺う。

 三ヶ月放置されていたことによって心が疲弊していたこと。突然夫が様変わりして『これは呪いのせいで本当は君を愛していた』などと急に言い出したこと。それにカチンときて『愛の証明』とやらの約束を取り付けたこと。そして、夫の呪いの解呪によって魂が不安定になっていると知って、今は一時休戦中なのだ、と言えるだけの全てを言った。

 周りにいる侍女達には口止めしてあるので、ここまで詳細に話しても問題はない。

 けど、母はどう思うか。


「……リリア。あなた、公爵様にどれだけ思いやりを持たれているか分かっている?」

「……それなりには。あの方が鬼畜生でしたら私は主人であるあの人から罰を受け、もっと酷いことになっていたでしょうから」


 そのほうが、話もすぐに纏まってなんの憂いもなくあの家を出ていけたのに。


「……けれど、離婚したい思いは変わらないの?」

「……」


 あの、三ヶ月。籠の中の鳥ですらなかった、見向きもされなかった三ヶ月。あの時のことを思うと、やっぱり私は、あの人の愛の言葉を真正面から受け止められない。


「……はい」


 私は、なんだか悔しくなって両手を握り込んだ。


「けれど、一時休戦中なのよね?」

「はい。旦那様は私の言動に一喜一憂するらしく、それでは魂の安定なんてとてもできないでしょう? ですから、私のことは頭から追いやって、仕事に没頭して、魂をしっかり安定させて下さい、と、申し上げました」

「あなたねぇ……」


 母は溜め息を吐き、紅茶を飲んで、


「あなたのその性格は誰に似たのかしら……私かしら……」

「? お母様もお父様に似たようなことをしたことがあるのですか?」


 父も母もとても仲がいいのに。……少し、父が母の尻に敷かれ気味だけど。


「似たようなことというか、なんというか。私とアルヴィンは家同士が決めた婚約者だった話はしたことがあるでしょう?」

「はい」

「それが決まってすぐの頃は、あの人、私に他人行儀に接してきたのよ」

「ええ?」


 あの、母にべた惚れの父が? 想像がつかない。


「それで私、言ったの。『家が決めたことですから私のことをどうお思いになっていても構いませんが、少なくとも人前では婚約者らしく振る舞ってください』って」


 母は、ふふ、と笑って、


「普通なら、私は将来の夫に口ごたえしたとして、婚約は白紙になっていたと思うわ。けど、そうならなかった。どうしてだと思う?」

「……それでも、婚姻の利益のほうが勝った、から?」

「いいえ」

「えぇと、……お母様がお父様のなにか弱みを握ってたとか」

「そしたらわざわざそんなこと言わないわよ。そうじゃなくてね、リリア」


 母は微笑みながら、


「あの人が、とても真摯な方だったからなの。私がその言葉を告げた途端、アルヴィンは驚いた顔をして、次には謝ってきたわ。なんで謝られるのか分からなかった。だからそれを率直に聞いたの」


『どうして謝るのですか? 私は今、生意気なことを言ったのに』

『……すまない。私の振る舞いが君を傷付けていたことに、気付かなかったんだ。家が決めた婚約者という私を、君はよく思っていないだろう? 好いてもないのに恋人のように振る舞わなければならない、それが、君の苦痛になると思っていたんだ。だから……』

『だから、他人のように振る舞っていた、と。……あなた、見た目より馬鹿なんですね』

『え』

『私達は貴族なのですから、愛のない婚約や婚姻など当たり前です。私もそれくらい承知しています。けど、そこから生まれる愛だってあるのですよ?』

『……えっ、と……それ、は……』

『アルヴィン様。私、あなたのこと、別に嫌ってなんかいませんよ。仲良くなって、家族になって、愛を育めればと思っているんです。……お嫌ですか?』


「そしたらあの人、顔を真っ赤にして! 下を向いてぶつぶつ言うものだから、はっきり言ってくださいと言ったら、『僕も君を嫌っているわけじゃない』ですって! ああ可笑しい!」

「はぁ……」


 母は珍しく声を上げて笑っているけど、両親の惚気を聞かされた私は、どう反応すればいいか迷った。

 えっと、そもそもなんの話してたっけ。……ああ、私と夫の話だった。


「えっと、お母様? そのお話は素敵だと思いますが……それと、私の話とどう関係が……?」

「そのままよ」


 そのまま。


「死なないようにするためとはいえ、あなたはその行為に傷付いた。ついた傷は簡単には消えない。心の傷なら尚更のこと。でもね」


 母は、私をまっすぐに見つめて、


「公爵様のお気持ちも、少し考えてみてくれないかしら。その三ヶ月、あなたのことをどう想っていたか。本当は半年もかけなければいけない解呪を、無理を押して三ヶ月で終わらせた意味。そして今、あなたのことを、公爵様がどう想っていらっしゃるか。そのお人柄を、まっすぐに見て」


 覚悟を決めたように、


「それでも嫌なら、堂々と胸を張ってここに帰っていらっしゃい。公爵様がどう言おうとも、どんな手を使おうとも、私達はあなたを守ります」


 そう、言い切ってくれた。

 ──ああ、私は。


「ありがとうございます、お母様」


 私は、家族に愛されている。


 ☆


 父とディートには、頃合いを見てこちらから話をしておくと母に言われ、私は自室に──嫁ぐ前に使っていた自室に行くことにした。


「……当たり前だけど、本棚が空ね」


 一人でゆっくりしたいと言ったので、侍女達は出ていってくれている。

 花嫁の生活道具は、基本婿の家が揃えることになっている。だから私は、それには該当しない、自分が好きな本達を詰めるだけ詰め込んで、家を出たのだ。

 壁の一辺を全て本棚にして、好きな本をありったけ詰めて、夜になったらどれを読もうかとワクワクしていた、成人する前のあの頃。


「……」


 あの頃が、夢のよう。もう、遠い昔のようだ。

 と、扉を叩かれた。


「はい? 誰?」

「姉様、いいですか?」

「ああ、ディート。いいわよ?」


 扉を開けて入ってきた弟は、少し不安そうな顔をしていた。


「? どうしたの。こっちに来ていいのよ?」


 私はベッドに腰掛け、その隣を叩く。

 すると、不安そうな顔のままだけど、ディートは素直にそこに座った。


「で、何をそんなに不安そうにしているの?」

「……姉様は、まだ僕を、弟として接してくれますか?」


 ディートが不安な顔を私に向けて、そう言ってきた。

 今度はなんだ。


「それは、どういう意味かしら? 誰かになにか言われたの?」

「……友人が言っていたんです。嫁いだ女性は夫のものになるから、家族だとしても他の男はその妻に一歩引いて、他人のように接しなければならないと。……けど、僕、姉様と他人のように接するとか! 出来そうにないんです! 嫌なんです! ……でも、姉様からそう言われたら、僕、我慢します。姉様の言葉なら、」

「そんなことはさせないから大丈夫よ」


 私はディートを抱き締めた。


「あなたはずっと、私の大切な弟よ。それは一生変わらないわ。接し方なんて変えなくていいの」

「い、いいんですか……?」

「ええ」

「……良かった……」


 ディートが安心した声で、私を抱き締め返してくれる。その背中をぽんぽんと叩いて、


「あ、そうだ。ディートに聞きたいことがあったのよ」

「聞きたいこと?」


 私はディートから体を離すと、


「あなたも、公爵様の呪いについては教えてもらっていたんでしょう? どう思っていたの?」

「えっ、あ、それは、……その」


 ディートの目が揺らいだ。これは、何か隠しているな。


「ディート? なにか言えないことでもあるの?」


 少し凄んだ声で言えば、


「……いえ、あの、秘密にしろとは言われてないので……たぶん、大丈夫だと思います……」


 秘密?


「……公爵様が家にいらっしゃったあの日、公爵様は僕のところにも訪ねてきたんです」


 はい?


「そして、公爵様自身の口から呪いや解呪や姉様について話されて──」


『君の姉は、十中八九私のせいで苦しむことになる。君の唯一の姉君をそんな環境においてしまうこと、謝って済むことではないが、謝らせてほしい。そして、彼女が、……私を拒んだら、君は彼女の味方になって欲しい。私が公爵だからと無理に彼女をこちらへ帰さなくていい。彼女が私を悪だと言っていたら、それを肯定して、彼女に寄り添い、その傷を癒やしてほしい』


「って言われたんです」


 ほぉ? そんなこと、誰からも一言も聞いてないぞ?


「どうして爵位も下の、まだ成人もしていない僕にそんなことを言うのかと聞いたら」


 ディートは少し口をもごつかせ、


「その、僕達姉弟はとても仲が良いと聞いたから、と。家族仲が良いことは素晴らしいって、その強い絆は計り知れないほど尊いから、君は彼女の……姉様の傷を癒せるだろうからって……言って、帰っていきました」


 ……なんか、頭痛がしてきた。


「ね、姉様? どうされたんですか?」


 頭を押さえて唸る私に、ディートが心配そうな声をかけてくれる。うん、弟は優しい。


「いえ……少し……旦那様は、少し……馬鹿なのではないかと……思えてきて……」

「え?! 優秀な方だと聞いてますけど……」

「そうね。仕事に関しては優秀な方よ。私は見たことがないけれど、社交も華麗にこなすのでしょうね。でもね……そこじゃなくて……」


 言うべきか、言わざるべきか。ディートはまだ十三歳。下手なことを吹き込むと、それをまっすぐに信じてしまう可能性もある。


「そうね……なんと言えばいいか……お父様がポンコツになるのと、少し似ているかもしれないわ……」

「それは……さっきの……?」

「ええ。あれ程ではないと思うけれど……」


 なんなのかしら。あの人、何がしたいのかしら。ああ、私と夫婦になりたかったんだっけ。

 ……なんだろう。イライラしてくる。


「ええと、それで、ディート」


 顔を上げ、愛らしい弟の顔を見ると、少し溜飲が下がった。


「はい。……あの、本当に大丈夫ですか?」

「ええ。それで、ディートはそれを聞いて、どう思ったの?」

「……その時は、相手が公爵様ということもあって、緊張してて、話が頭に入るまで、時間がかかって。けど、だんだん理解できてきて……あの方は、とても誠実な人なのではないかと、思いました。……でも、姉様は、公爵邸で嫌な思いをされたんでしょう?」

「ええ、したわ。それは私の中で紛れもない事実よ。……けど」


 私は自分の額に手を当てて、


「あの人がなんなのか……分からなくなってきたわ……」



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