49「のり弁」

 それからの私は、佐藤家に帰ることはなく、紫仁しにの葬式までずっと「G.O.」の宿泊施設で怪我の治療を行っていた。以前、私と紫仁が使用していた宿泊用の部屋に案内されたのは、きっと神田の仕業だろう。

「その部屋、使ってる奴がいるから汚すなよ」と神田に忠告されたことを思い出し、ベッドから起きた私はシーツの皺をきっちり整える。そして、私は用意された黒のスーツに着替えた。

 まだ全身の傷は残っているが感じる痛みは表面上のものでしかなかった。毎回ここで用意されたスーツの袖を通すたびに感じるのは、寸分の狂いもなく私の体にぴったりと張り付くような着心地の良さからくる、居心地の悪さだった。

 私の体格に合わせて作ったようなこのスーツが未だに用意されているのも、私の全てを手中に収めているんだぞと警告されているようでやはり気味が悪い。しかし、今はそんなことも言ってはいられない。

 私は鏡の前で適当な化粧をする。やけに清潔に保たれた洗面台の鏡には埃一つ付いておらず、鮮明に今の私の顔を写していた。



「なんで喪服なの? 普通に私服じゃダメなの?」

 細々とした白色の蛍光灯の下、私がそう文句を言い、鬱々としながらスーツに袖を通していると、すでに真っ黒なスーツに着替え終わっていた紫仁がこちらに寄ってきた。そして何も言わずに彼女は私の首の後ろに手をやり、寄れていた襟を直してくれた。

「ん」と小さく呟く彼女に対し、「あぁ」と言うだけで、当時の私は感謝の言葉一つすら返そうとしなかった。

 窓がなく、太陽の光も入らない刑務所のような簡素で色彩も無い部屋で私達の間に沈黙が訪れる。口を開いたのは私だった。

「でもさ、なんで私なの? 優秀な奴なら他にいっぱいいるじゃん」

「仕事だから、仕方ない」

「仕方ないことなくない? だって腐るほど血の気の盛んな奴いっぱいいるでしょ?」

「あなたより優秀な人は二人しかいない」

「いや、嘘だね。絶対何か間違えてるよ、社長は」

「仕方ないことなくない。だって血の気の盛んな奴らは腐っていくでしょ?」

「……まぁ、確かに」

「社長の目は間違ってない」

 紫仁がまっすぐな目で見つめるせいで、私はこれ以上何も言えなかった。

 一瞬の沈黙の後、「これ」と紫仁は手に持つものをぶら下げた。

「あ」と私が気付くと紫仁は視線を逸らしながら微笑んだ。彼女が持っていた物は私が身に着けるはずだった黒いネクタイだった。

「やば、忘れてたし」

 急いで私がネクタイを付けようと、紫仁から奪い取ろうとする。しかし、紫仁は手に持つネクタイを私に返してはくれず、私が突き出した手を避け始めた。

「ちょっと、ふざけないでよ! 急いでんだから」

 時間が迫っていることに焦った私は、数秒間、紫仁との攻防を繰り返した。

 私が突き出す腕を予測したかのようにすらりすらりと躱していく彼女の姿は、まるで大きな舞台で舞う踊り子のようにも思えた。そして彼女は急に私の視界から姿を消したかと思えば、はっと私の目と鼻の先に現れる。

 紫仁の彼女らしからぬ距離の詰め方に驚きを隠せず、私は身を固めたままだった。

「私がやってあげる。礼央、苦手でしょ、ネクタイ」

 紫仁はそういうと私の首の後ろに手をやり、襟を立て、鳴れた手つきで私のネクタイを結んでいく。

「……あ」

 彼女が現れた瞬間に舞った空気の流れが、彼女の髪の匂いを運んできた。いつもの白衣の処置室の埃っぽさとは違う、僅かに香るラベンダーの匂いが鼻をくすぐった。

 一生懸命に私のネクタイを結んでくれる紫仁は、まっすぐに私の首元を見ていた。いつものような伏し目がちではない表情の紫仁がこんな至近距離にいることに少しの恥じらいと気まずさを感じていた私は、わざと視線を外してしまう。

 なにか見てはいけないものを見てしまったような背徳感を受けながらも、私は必死で直立不動を貫いた。動いてしまえば紫仁に何か勘付かれてしまうのではないかと思っていたが、そもそも一体何を勘付かれてまずいのか、そしてそれの何がまずいのかすら理解できないまま、「動揺を隠す理由」よりも先に、体が「動揺を隠すという行動」に移している本末転倒なことに気付いていないほど、私の頭は彼女の真剣な表情とラベンダーの香りでいっぱいだった。



 そんなこともあったなと思い出しながら、私は冷蔵庫に向かいながらネクタイを結び始めた。私には鏡はもう必要ないし、誰かの助けなどなくても綺麗な結び目を作ることが出来た。

 冷蔵庫を開け、中にあった銀色のパウチのゼリー飲料を手に取り、蓋を開け咥える。それを飲み込みながら、顔を上に向け、ネクタイを結び目に通す。垂れた剣先を見てバランスを整え、首元の結び目をきつく締める。それと同時に飲み終えたゼリー飲料を、どこかのコマーシャルのようにクシャっと潰し、ごみ箱に捨てた。

「よし」

 気合いをいれるように言葉にしたのは、私の耳にもそれを聞かせたかったからだ。

 私はジャケットのボタンを一つ締め、革靴を履く。鉄で出来た刑務所のような薄い扉の玄関は大人になった私には少々狭く感じたが、大して10年前くらいから体格が変わっていないことは確かなので、狭く感じるのは、ただ単にこの場所よりも広い玄関に慣れてしまったからだろう。

 扉を開け、そのまま一歩ずつ歩みを進める。鍵を締めなかったのは、もうここに戻ってくるつもりはないからだった。

 薄暗く閉塞的な廊下には私の足音が響く。そのリズムは私の心拍数よりも早かった。

 紫仁が待ってる。早く行かなくては。


 葬式は簡易的なものだった。会場と言っても「G.O.」の宿泊施設の部屋よりも倍くらい広い程度の空間だった。扉は一つしかなく、壁には窓も無い。壁の灰色に覆われたみすぼらしい会場だった。そしてその会場が鬱々としたものだと思わせる最大の要因は、蛍光灯の明かりが今にも消えそうに途切れ途切れで私達を照らしていたからだった。

 黒ずんだ鉄の扉を開けて入ると、正面に白い棺が置かれており、その前に申し訳程度の花束が横たわっているだけだった。

 神田や社長はあれだけ「紫仁の功績は──」とか言っていたくせに、集まった人間は彼女と私の知り合いしかいなかった。神田はもちろん、社長と救護課の職員数名、そしてなぜだか伯父さんもいた。

 来るなら言ってくれれば良かったのにと思いながらも、驚きはしなかった。

 しかし、さらに意外なことに、そこにはシンの姿もあった。

 てっきり彼女のことだから「シニーの死体なんか見たくねぇし」とか言って、不貞腐れて来ないと思っていたが、そんなことはなかったようだ。ただ、式の最中、彼女は涙を流すこともなく、明らかに気怠そうな態度を見せるでもなく、無表情でそこにいた。

 一通りの流れが終わると、各職員に弁当が配られたが、私はそれを無視し会場の外に出た。

 会場の外と行っても地上の外ではなく、ただの廊下であり、窓もなく、白色の蛍光灯が照らし、壁の換気口からおじさんの嗚咽のような音が響く、人が二人すれ違えるかどうかも分からない幅のいつも歩いていた廊下だ。


 備え付けられた適当なベンチに私は腰を掛けた。そして配られた弁当を手にした伯父さんが私の後を追ってくるのが目に入る。

「まぁ、形式上ってのは分かるけど、コンビニ弁当はないわな。しかも、のり弁」

 鼻で笑いながら伯父さんは私の隣に座った。

「いいじゃん。のり弁。私は好きだよ」

「あっそ。じゃあ食うか?」

 伯父さんは歯で割り箸を咥えたまま、蓋を開けたのり弁を私に差し出す。

「いや、気分じゃない」と私は突き返した。すると伯父さんはジャケットのポケットに手をいれごそごそとし、取り出したおにぎりを二つ、私に差し出した。

「じゃあ、こっちは?」

 伯父さんの手のひらに乗る二つのおにぎりを凝視しながら、こんな得体の知れないおにぎりを食べる人間がいるのかと呆れた私は「いい」と返した。すると伯父さんは「おぉ、流石だな」と言い出した。

「何が?」と訊く。そして伯父さんは得意げに口を開いた。

「いや、さすがプロは違うね。『他人から勧められた物に口を付けちゃいけない』っていう鉄則が身に沁み付いてる証拠だ。プリンに毒を仕込んで始末した奴もいるしな」

「好きだね、その話」

「で、次に『おにぎりだけを渡してくる奴も信用しちゃいけない』」

「なんで?」

「なんでって、お前、おにぎりだけだぞ? 開口一番におにぎりだけを口に頬張ったら飲み込めないだろ? お茶がなかったら喉につまって死んじまうかも知れないし、むせてる間に始末されちまうだろ?」

「そうかな」と私は苦笑いする。

「そうだ。石橋を叩いて渡れ。基本中の基本だ。それと、もう一つ」と伯父さんはのり弁を食べながら言う。

「もう一つ?」

「あぁ、『のり弁の海苔を最後まで上手に残して食うやつは信用しちゃいけない』」

 そう言いながら箸でつまんだ米飯には、敷かれていた海苔が全て繋がってぶら下がっており、伯父さんの手元にあるのり弁の米飯は、ただの鰹節が乗った茶色い米飯と化した。

「……なんで?」

「なんでって、そりゃ。そんな奴いたら気持ち悪いだろ」

 伯父さんは言い終わると贅沢にカニを食べる通販番組のレポーターのように、垂れた海苔を啜るように下から口に運んだ。

「それ、ただの偏見じゃん。……まぁ、分からなくはないけど」

 こういった謎の持論は、兄の礼一によく似ていると感じる。というよりも、兄が伯父さんに似ているといった方が正しい。

 しかし、いま振り返ってみれば、伯父さんも神田に手を貸していたわけであり、神田達と一緒に私を騙していたといっても間違ってはいない。だが、面と向かってそれを問いただしても、伯父さんが白を切ることは間違いないだろうし、適当に話題を変えられてうやむやにされることは間違いないだろう。

 結局のところ、私と明日ちゃんと副社長の当事者達だけがいいように踊らされていたということだ。

 ──ただ、そのために紫仁を都合よい形で勝手に利用したことに納得は出来ていない。

 彼らはどう責任を取ってくれるのだろうか。葬儀をするだけでは私の腹の虫が収まらないことは神田は知っているはずだ。もしかすれば私が本気で「G.O.」を潰そうと考える可能性があることも神田は理解しているだろう。

 どのような選択肢を彼らが取るか次第で、私の人生も大きく変わっていくことになるだろう。

 

 のり弁を食べ終えた伯父さんは「じゃあ、社長のところにいってくるわ」と近くのコンビニに立ち寄るかのような口調で言い、去っていった。

 私が会場に戻ると棺の前にはシンと神田が立っていた。

 彼らの間には2mほどの距離が保たれており、おそらく互いにそれ以上は近付きたくないのだろう。私はゆっくりと近寄る。

「で、どうすんだよ狗野郎いぬやろう。こんなことあたしに何の許可もなく決めんなっての」

 シンのころころとしたビー玉のような声から発せられる不安定なノイズが徐々にハウリングに変化していく。

 まずいなと先に感じたのは私の頭ではなく体だった。少し強張ったせいで一歩踏み出す足が少し躊躇いを孕んでいた。

「お前の許可はいらねぇんだよ。ちゃんと社長に許可は取ったんだ」

 反論する神田の胸ぐらをシンは掴みかかる。先ほどまで互いに取っていた距離はなんだったのだろうか。

「うるせぇ! あいつの許可なんか知るかよ。あたしに許可は取ったのかって聞いてんだよ! あたしの可愛い弟子をどこにやったんだよ!!」

 シンは胸ぐらを掴んだまま神田を壁に叩き付ける。だが、神田は全く動じない。

「まぁ、落ち着けって」と困り顔で平静にシンを諭していた。

 きっと、神田も分かってはいただろう。紫仁を犠牲にすると厄介なのが二人いるんだと。

 ただ、私と違ってシンは何をしでかすか分からない。神田は腹をくくった上で紫仁を犠牲にすると決めたんだと思う。

「返せよ! なぁ! シニーを返せよ!!」

 怒りを露にするシンの声が徐々に濡れていく。彼女の血走った目が少しずつ潤んでいくのが分かった。

「……もう簡単に会えねーじゃねーかよ」

 彼女のコロコロとしたビー玉は、ポロリと地面に落ちどこかへ転がり、その勢いを止めてしまった。そしてシンは神田から手を放す。

「……全く」そう言いながら神田はスーツの皺を直した。

「……本当ですよ。気軽に会いにこれなくなったじゃないですか」

 私は出来るだけ温度を低くした声で神田に言う。

「いや、だから──」と神田は頭を無造作に掻きむしった。

「言い訳なんか聞きたくないです」

「言い訳なんか聞きたくねー!」

 同時に口を開いた私とシンの声がハモる。そして私は紫仁の棺に近寄り、真っ白で塗られた木の外壁を手で叩く。

「──で、 

 私が叩いた棺は心地の良い音を響かせた。何故かというと、それは棺には何も入っていないからだった。

 すると、神田は眉間を中指で掻き、溜め息を吐く。

「──いつから気付いてた?」

「だいぶ前からです。電話があったとき。紫仁が死んだって聞いた電話の時に、神田さんは紫仁じゃなくて、42番って言ってました。あの神田さんが一度、紫仁の名前を私から聞いたのにもかかわらず、名前じゃなくて番号で呼ぶなんてあり得ないって思ったんですよ。そこから怪しいなと」

「……あぁ、よく気付いたな」

「あれ、わざとですか?」

「まぁ、わざとだな」

 神田は声のトーンを下げたまま答えた。

「で、どこにいるんですか?」

「さぁな。それは知らん」

 答える神田に対してシンは唾を吐き捨てる。

「……ちっ、それが重要なんじゃねーかよ」

「うわ、汚ねぇな、お前はよぉ」と、呆れた神田は唾が吐き捨てられた場所を避けるように大袈裟に足を動かす。

「あいつには自主退職してもらったんだよ」

 神田は靴の汚れを気にしながら話した。

「なんでそんなこと」

 私は声を尖らせる。残響する私の声が、声色が冷たく硬くなっていることに気付いた。

「違げぇよ。紫仁から話があったんだよ、退職したいって」

「はぁ? んなわけ」とシンは元々丸い目をより真円に近付かせる。

「マジだよ。相談を受けたけど、こっちとしてはそう都合よく退職させる理由もないし、第一、普通の会社じゃねぇんだから、そんな申し出自体、あいつが初めてだったからな。で、俺は考えた。ちょうど副社長を始末したかったが決定打に欠けてると思っていた。だから、紫仁が殺されたことにして、組織内でも死んだことにする。こっちとしては救護課の課長が始末されたとなれば、副社長に非難が向く。それであいつは自由に外で生きていけばいい。あいつにそう言ったら二つ返事だったよ。俺たちは副社長の始末を進めたい。あいつは退職したい。『パズルのピースは無理やり嵌めろ』って言うだろ? ただし条件として、このことは口外しないように紫仁と約束したんだ。シンにも、もちろん礼央にも。だからお前たちが勝手に勘繰れるようにヒントは与えたつもりだ」

「副社長を始末できるからって、紫仁を追い出すなんてひどくないですか?」

 私はさらに声を尖らせる。神田は無理やり嵌めたパズルのピースが歪んでしまうことを知らないようだ。

「しょうがないだろ。死にましたってやつが『G.O.』の施設でうろうろしてたら、すぐにお前にも礼一さんにも気付かれちまうだろ? それに追い出したんじゃない。外の世界に解き放ってやっただけだ」

「外の世界に、って、紫仁は私と違ってずっとここで生きてきたんですよ? そんな急に外の世界に一人で生きろなんて無責任すぎると思いませんか?」

 思っているより口が回るのはなぜだろう。それはきっと私が気付いているからに違いない。

 神田は一呼吸置いて答えた。

「だったら、ここにいるほうが幸せなのか?」

 そして続ける。

「お前だって昔はずっとここにいたじゃないか。でも礼一さんに連れられて外の世界に行ったんだろう? お前には出来て、紫仁には出来ないと思っているのはなんでだ?」

 神田の問いに私は答えられなかった。

「──お前に、紫仁をここに留めておきたいっていうわがままがあるからなんじゃないのか?」

 そう。神田の言うことは間違ってはいない。私は紫仁を「G.O.」に留めておくことで、こっちでの居場所を守りたかったんだ。だから紫仁が居なくなって私は腹を立てている。それはただの私のわがまま以外の何物でもない。それに、私は自分の中に紫仁の感情を立ち入らせる余裕を作ってはいないことにも気付いていた。

「……わがままじゃないです。私には家族がいた。手取り足取り、普通の人間として生き方を教えてくれる人がいた。だから私は外の世界でもやってこれた。でも紫仁はそうじゃない。20年以上ここにいて、急に一人でなんて生きていけるわけない」

 そんなことはない。私の頭は知っている。どんな状況でも紫仁なら上手くやっていける。ずっとここにいたとしても、外の世界にいったとしても彼女はずっと彼女らしく生きていける。それを私の頭は理解している。でも私の心は追いついていかない。

 自分が手が届くところで紫仁を眺めていたいだけなんだと私は気付いている。自分よりも高く飛んで手が届かない場所に行ってしまって見えなくなるのが怖くて、彼女を鳥かごから出さなかったことを私は分かっている。

「あのなぁ……。お前がいない5年間、あいつは一人でやってきた。誰にも頼らず、ただ一人で生きてきたんだ。それは俺たちが守っていたからじゃない。あいつがそうしようと決めたからだ。──あいつはもうお前のルームメイトじゃない」

 そうだ。彼女はもうルームメイトではない。私が私の人生を生きたいと望んでここを出たのと同じように、紫仁も自分の人生を生きるためにここで一人でやってきたんだ。私はそれを見ていなかっただけに過ぎない。

 いつの間にか私は奥歯を食いしばっていた。そして、感情の塊は私の眼球の上で表面張力のお陰で辛うじて落ちては行かずにいる。


 黄色い沢庵は黄色いまま生まれてくるわけではない。私が見ていたかったのは紫仁の「黄色い部分」であって、どうして彼女が黄色くなったのか、どうやって黄色くなったのかを私は見ようとしなかった。

 紫仁は「熱川ばにおマグカップ」じゃない。私が欲しいと言って簡単に手に入るものでもなく、飽きたら記憶から消して代わりに別の物を使っていいような物じゃない。

 私は今朝泊まった部屋を思い出していた。もう、私と紫仁の部屋ではないあの部屋。私の部屋はもうここには存在しない。それを望んで私は「G.O.」を抜け出した。それなのに、私はいつまで経ってもここに帰ってくれば、あの紫仁といた部屋に帰れると思ってた。そんな自分が恥ずかしかった。

 それに比べ、紫仁は帰ってくる場所を捨てて外の世界を望んだ。きっと彼女なら「部屋なんか要らないので使っていいですよ」とか言ったに違いない。

 私は彼女との覚悟の違いに気付かされる。実際には彼女の返事は私の想像だが、安易に想像できるほど、私は紫仁の覚悟を理解しているということだろう。そしてそれを隠すために、彼女を外の世界にやった神田に八つ当たりをしているのだと自分でも理解できている。

 自分の甘さと幼さに気付いた私はそんな自分に嫌気が差した。外の世界に身を投じることで成長していると勘違いしていた自分に、そしてその間一人で戦っていた紫仁を見ようとしない自分に嫌気が差した。

 もうここで終わりにしなくてはいけないのだ。私も紫仁と同じように覚悟を決めなくてはいけない。

「礼央も一緒に終わりにしよう」と紫仁のした行動が私にそう言っているように感じた。


 私は大袈裟に溜め息を吐いた。それは、余計な空気を含ませることで私が吐いた感情の濃度を薄くして、神田やシンに私のそのままの感情を見られないようにしたかったからかもしれない。

 神田の言ってることは間違ってはいない。紫仁にとってはそれが正しい。そしてなにより私にとってもそれが正しい。私は自分にそう言い聞かせ、湧き上がった感情を弱火にしていく。

「──そう、ですよね。もう私達の部屋は無いし、もうルームメイトじゃない」

 そう言葉にした瞬間、余計な力が抜ける気がした。

 もう紫仁とは会えないかも知れない。それは私にとって彼女が死んだのと同じだと思っていたが、それは違う。

 紫仁はずっと紫仁のままだし、私の知る紫仁よりも、もっと紫仁らしくなっていくかもしれない。私と紫仁を繋ぐものはもう何一つない。それは互いに自由でいられるということだ。

「あのさー。どうでもいいけどよー。で、いつ会わせてくれんだよ、シニ―とよー」

 シンはそう言いながら地団駄を踏んだ。

「だから知らねぇって。ほら帰るぞ、猿」

 神田はそういうとシンの襟を引っ張り会場を後にした。引きずられるシンは「てめー、離せよ!」と喚き散らしながら両手足とバタバタと動かし抵抗していた。

 神田が会場を出る瞬間、何かを思い出したかのように「あっ」と振り返る。

「お前、もうルームメイトじゃないって言ったけどよ、そもそも根本的にお前らって普通に友達なんじゃないのか? まぁ、言うなれば『蛇の頭と尻尾』ってとこか」

 神田は私にちらりと目をやるとすぐさま「ん? なんか違うか」と興味なさそうに歩みを進めた。その神田に引きずられたシンは「何、苦ぇこと言ってんだ、お前」とぼそっと吐き捨てた言葉を残し、会場内は静寂に包まれていった。

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