第7話

 一昨日の夕刻、神保町のコインパーキングで黒服共に囲まれた。相手は三人。二人は銃口をこちらに向けていた。ここで暴れるのは得策ではない。おそらく、脚を撃ち抜くくらいのことは平然とやってのけるだろう。榊は大人しく指示に従うことにした。

 拉致されたことを仲間たちに知らせるためにデュポンを落とし、愛車の影に蹴り入れた。黒塗りのベンツに押し込まれ、厚手の黒い布を頭から被せられた。


 それから小一時間車に揺られて連れて来られたのはこの部屋だ。

 元極道という経歴から過去に恨みを買っている可能性は充分ある。しかし、なぜこのタイミングでここまで大がかりな誘拐を計画したのか。その点に関しては心当たりが無い。

 仲間達は約束の時間に烏鵲堂に現われない自分を探して、コインパーキングでデュポンを見つけるだろう。しかし、そこからここへの手がかりは何もない。面倒なことになった。


 榊は使い込まれたガラス製の灰皿でフィリップモリスを揉み消しながら、見張り番の長友と玉木を見比べる。奴らは下っ端だ、殴り倒してこの部屋を出て行くことは容易い。しかし、外に武装した連中が待ち構えているに違いない。情報がなさ過ぎる。まだ動くには早い。榊はソファに倒れ込み、脚を組み直した。


 榊の鋭い視線を感じた長友と玉木は慌てて目を逸らす。

「なんであんなヤバい奴の見張りなんだよ」

 長友は漫画雑誌で顔を隠しながら玉木に愚痴を漏らす。

「馬鹿野郎、奴は囚われの身だ。俺たちの方が立場は上だろ」

 そう言いながらも、部屋の真ん中のソファで悠々と脚を組む榊と、パイプ椅子に座って怯える情けない自分たちとでは格の違いは分かっていた。


 ***


 一四年分ぶりの再会は、重苦しい沈黙で始まった。

 高谷の母、真央は思いも寄らぬ場所での息子との再会にひどく動揺している。いや、微かな期待はあったのかもしれない。榊原組の若頭、大塚を通して母の久美子が病院に運ばれたことは伝えていた。

 しかし、実際に息子の顔を見た瞬間、複雑な感情が絡み合い、真央の心に不協和音を響かせた。


「どうした、大丈夫か」

 真央の動揺に勘づいたマスターは彼女の肩を抱く。その様子から二人が親密な関係であることが窺えた。

「え、ええ。大丈夫よ、二人きりにしてもらえませんか」

 真央は微かに口角を上げて微笑む。手を差し伸べたくなるような儚い笑みだ。高谷は母のこの表情をよく覚えている。

 マスターは高谷を見やり、危険が無いと察したのか店の奥に消えていった。


「母さん、久しぶり」

 高谷は真央を真っ直ぐに見つめる。年相応に刻まれた皺はあるものの、母の美しさは衰えていない。参観日で見るどの同級生の母親よりも美しいと、子供心に自慢に思っていた。

「結紀、元気にしてた?」

「うん、今は大学に通ってるよ」

「そう、立派になったわ」

 真央は頬を緩める。親戚のおばさんとでも話しているような感覚だった。互いに距離感を掴めず、どこか他人のようだ。


「母さん、実は時間が無いんだ。大切な人に危険が迫っているんだよ」

 高谷はカウンターに身を乗り出す。真央はその真剣な顔に、思わず圧倒され息を飲む。

「寺岡組に関係しているのね」

 真央は我が子が極道と関わっていることを察知して青ざめる。大塚から榊原と離縁した、つまり組とは無関係となったことを聞いて、実のところ安心していた。それが、どうして。


「俺の兄さんが寺岡の連中に掠われた。手がかりを探している。昨日、奴らがこの店に来たことを聞いてるんだ。何でもいい、情報を教えて」

「英臣さんのことね」

 大塚から聞いていた。榊原の腹違いの息子、英臣は年の離れた我が子の面倒をよく見てくれたのだと。高谷の悲壮感漂う表情から、本気で兄を心配していることは見て取れた。


「俺のたった一人の兄さんなんだ」

 暗闇の中鎖に繋がれ、はだけた白いシャツを血で濡らした兄の姿を想像する。乱れた前髪から覗く切れ長の瞳は、矜持を忘れず強い光を放っているだろう。

 その目が気に入らない、と無法者は兄を殴る。口の端から滴る血が白いシャツに赤い花びらを散らす。


「寺岡は榊原と揉めているわ」

 真央は言葉を選んで話し始めた。

「昨日は取引成功の前祝いだと騒いでいた」

 うまくいった、これで榊原は言いなりになると。テーブルに酒を運んだ真央は寺岡の連中に酌をするよう強制され、嫌でも話が切れ切れに耳に入ったという。


「横浜港とか、船とか、そんな話をしていたわ。何かあれば始末は牛頭会がつけるとも」

「ありがとう、母さん」

 榊は横浜港に停泊している船に囚われている。高谷は椅子から立ち上がる。

「待って、結紀。一体どうするつもりなの」

 店を出て行こうとする高谷を真央は引き留める。


「兄さんを助けに行く」

「やめて危険よ。そうだ、大塚さんに連絡をしておくわ」

 真央は高谷の腕を引く。

「ううん、俺が行かなきゃ」

 高谷は静かな声で真央を諭す。真央は覚悟を決めた息子の顔に榊原の血を垣間見た。固い意志と矜持に満ちた瞳に、説得は無理だと理解してそっと手を離した。


「無事に戻れたら会いにくるよ」

「ええ、必ずね。待っているわ」

 真央は高谷の手を握り絞める。男の割に小柄だと思っていた息子の手は思ったよりも大きかった。

「行くぞ」

 扉を開くと、曹瑛が仁王立ちしていた。高谷は強く頷く。その様子に聞き込みが成功したのだと伊織は悟った。


「高谷君、話はできた?」

 伊織は高谷を気遣う。扉まで見送ってきた黒いドレスの小柄な女性を見て、高谷の母だと確信した。ぱっちりとした大きな目元と形の良い眉がよく似ている。

「榊さんの居場所のヒントは掴んだよ」

 それに、と高谷は店の看板を見上げる。

「母さんは離れても俺のことを思っていてくれた、今はそれだけでいい」


 アンティークライトの温かい光に照らされた看板には「結」の文字が刻まれていた。

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