詩的言語のバランス

作品楽しく拝見させていただきました。

短歌は俳句と同様に読み手を選別する。そして、二十首を並べてみて、比喩のバランスから読者はその作者の虚構の世界を(俳句は私小説のような雰囲気で読まれがち。寺山修司や春日井健、林あまり、さかいまみ、他にもフィクションでもいいから感覚を伝えるという作風の先人たちがいる)想像する。
さらに、極端にいえば、小説と同様に詩も、最初の読者とは作者自身という点は同じ。
僕らはどんな言葉も書き綴ることができるが、それがどのジャンルなのかを選別しながら書き綴ることになる。
それが何について書かれているのかを作者自身が理解できないまま並べたあと、最初の読者である作者が読解していくことも詩ではよくあることだろう。
「どうしてその言葉を使って綴ったのですか?」という質問に作者が答えられるとしたら、その言葉を使っている先人たちの作品を読んだからというしかない。
実際の体験でいえば何をどのように読んできたのかということが、強度として作品を支えている。
女性が男性を書く、男性が女性を書くのが可能なのは虚構の強度のおかげといえる。
自分の生活の実感をともなった言葉で綴られた作品はたしかに伝わりやすいが、そこに強度を加える必要が小説以上にあるのが詩だと思う。
さて、自分の類似した作品が他にもあると感じるとき、ああなるほど、この作者もあれを読んだのかとわかることもある。
それ以上に僕らが何を書いているのかということが、共通の認識として感じる時、先人たちが書き綴ってきた作品に対する自分なりの感受性と反応があらわれる。
それは時代性や共通の問題意識と書けば単純だが、オリジナリティの困難さでもあるだろう。
作者はちがうのに同じことを書いていると感じるのは、そこに現実の問題があることもあるし、それを作品として成立させてきた先人たちの問いかけのようなものを引き継いでいるともいえる。
詩的言語のバランスが強いか弱いかの選択は、小説や散文詩よりも短い詩型のほうが顕著にあらわれやすく作品全体の強度のバランスを維持するのが難しいこともある。

そこが今回のコンテストで試されるひとつのハードルなのだと思う。

いろいろな作品を読んでいる人だと作品全体から感じました。
しかし、それぞれの一首ずつが読み比べられて全体の魅力として立ち上がってくることがあると感じることができる作品だと思います。

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