夢の天使

吸血鬼事件

 とある休日の朝。少女は一人、呆然としていた。部屋に漂う血の匂いは、今や彼女には喉を乾かす欲望の香りだ。

 信じられない。何をしたっけ? 朝起きて、喉が渇いて、両親の声がして……鍵が壊れて。それから、何をした?


「パパ、ママ……?」


 か細い声が、地面に横たわる二人を呼ぶ。母の赤くなった肩を揺り動かすと、手にポタポタと涙が落ちた。赤い。拭った顔も赤くて、鋭い牙が見える唇なんて、まるでルージュでも塗ったかのようだ。妙に鮮やかな口が、引きつって歪な笑顔を作る。


「なんで……僕はっ」


 ただ生きたかった。それだけなのに──。


─── **─── **


 朝起きて朝食を終えたリーラは、自室の化粧台に腰を下ろしていた。今日はロイエの営業日だから、化粧をする必要がある。しかしファンデーションの蓋を開けて、中がほとんどないのを知る。顔以外首元にも使うため、普通より減りが早いのだ。

 化粧台の小さな引き出しを開ける。いくつか予備の化粧品が丁寧に眠っている。


「ん? あー」


 しばらくカチャカチャと中を漁り、別の引き出しを試しに開ける。だが目当ての物は無かった。


Oh Mannしまった……買い忘れてる」


 リーラは椅子の背もたれに項垂れ、少しの間天井を見上げた。仕方なく、机に置いたスケジュール帳を開く。幸い、今日は誰も予約を入れていない。予約がない場合、奥まった場所にあるロイエには、ほとんど客が来ない。

 流石に人間にはほど遠い肌の色をそのままに、接客はできない。今日は臨時休業にしよう。


(しかしどうするか……ネット注文はもう嫌だしなぁ)


 苦手なネットで注文して失敗した事がある。むしろ成功した事なんて指で数えられる程度で、もうこりごりだった。顔を隠して行くのは不可能ではないが、今日のような晴天では目立つ。ただでさえ普通にしていたって視線があるのに。


「リーラ?」


 悩んでいると、リーベがひょっこり顔を見せる。頭を抱えているのを心配したのか「具合悪いのか?」と、額に小さな手を添えた。


「大丈夫だよ、気にするな」


 そう言って頭を撫でながら、リーラは「あぁ」と、何か思い付いたように笑顔を見せる。

 リーベが目覚めて、もう少しで一か月が経とうとしている。まだおぼつかなくとも、日常生活の事は一通りできるようになった。リーラも早く慣れるよう、できるだけ一人で行動させて見守っている。しかしまだ、不安でさせていない事があった。


「坊や、おつかいをしてみよう」

「おつかい?」


 そう、まだ一人で外出させた事がなかった。リーベはすぐ誘拐されそうで、気が気じゃない。なにせ話しかけてくれた人はみんな友達という認識になってしまうから。しかしいつまでも子供のままいさせられない。


「ワタシは今日、化粧品を切らしてしまった。このままでは外に出られない」

「い、いちだいじだ」

「そうだね。だから、オマエに買ってきて欲しい。頼めるかな?」


 リーベは緑色の瞳を数回瞬かせると、黄色に輝かせて「お手伝い?!」と身を乗り出す。リーラを手助けできる。しかもそれは自分しか出来ない。となれば、いつもの恩を少しだけ返せる絶好の機会だった。


「やる!」

「ははは、そう急ぐな。ちょっと待ちたまえ」


 リーラは机に置いたズッシリとした財布から、一万円札を取り出す。それを渡されたリーベは、あまり見慣れないのか興味深そうに見ていた。


「余ったら返さなくて結構。チップだ」

「チップ?」

「あ~サービス料? んー……お駄賃だったかな? とにかく、余ったお金は好きに使いたまえ。無駄遣いはするんじゃないよ?」

「パンとか?」

「ふふふ、パンもいいね。ちなみに、その一枚で食パンが何十枚と買える」

「ほあ……たくさんだ」


 リーベは喜ぶというよりも恐ろしいと感じているのか、慄いた様子だ。お金の怖さを感じるのはいい事だ。これから狩人として活躍すれば、リーベの懐にも大金が入る。だから少しずつ慣れさせて、お金というものの扱いを覚えていけばいい。

 リーラは紙に必要な化粧品と、いつも買っているショッピングセンターへの道を書いた。それを小さな財布にしまったお金と一緒に、首から下げるポシェットに入れる。


「Ups……忘れていた。いいかい坊や、危険な人間、もしくはテンシに遭遇したらこれを撃つんだ」


 渡されたのは、小さな麻酔銃。実はリーベがこれを持つのは三回目。大天使であるリーベはテンシに狙われやすい。少年にしては可愛らしい見た目も、厄介な人間を誘う。そのため護身用として、最初に持つ武器は麻酔銃になった。


「さあ問題だ。どうやって使う?」

「えっと……人がいない所に行ってうつ」

「上出来だ。もし警察を呼ばれたら抵抗せず、来た警官に狩人の証を見せる事」


 ポケットに常備してある、狩人の証。革製の手帳で、開くと顔写真と所属地域、パートナーなどの情報が記載されている。狩人はいつでもテンシや天使に遭遇しても対峙できるよう、最低限の武器を持てる。もちろん一般人に使えば即、リーラが処理する手筈だ。


「大丈夫だね?」

「うん、頑張る!」


 二人はクローゼットを通して、客間から店に出る。最後に持ち物と、車に気を付ける事、何かあったらすぐに連絡するようにと、最終確認させる。なにせ初めてのおつかいなのだから、確認はしつこいくらいがいい。


「気を付けるんだよ」

「行ってきます!」


 元気よく手を振って出ていくリーベを店内から見送ったあと、リーラは小さく「大丈夫かな」と呟いた。顔が見えないよう、帽子をかぶって後をつけようか? それだと不審者だし、なんの成長にもならない。そんな独り言をぶつぶつ呟く。

 ここまで心配するのには理由がある。ドイツでのパートナーであるゾネが、まだ小さい頃、一人で外に出た事があった。理由は内緒でテンシを狩って、リーラのためになりたかったから。だがまだ幼かった彼は数人の人間に捕まり、なんとかギリギリの所をリーラが助けた。


「いや……ここは日本だ。良くも悪くも無関心でありながら、親切な人は多い。そもそも時代も違うし、そんなに物騒でもないんだ」


 リーラはそう言い聞かせながら、手を置いていたショーケースを覆う布に、指で三回トントントンと鳴らす。

 それに武器も持たせてあるし、リーベには感情を読む力があるんだ。自然に扱えているから、悪い人間は避ける……と、思いたい。何かしていないと悪い考えが回るのは、良くない癖だ。

 そう思って立ち上がり、客間の扉を開けた時、隅に設置している電話が鳴った。店に置いてある電話器は、ひと昔前のレトロなデザインをしている。早速リーベからかと思ったが、彼ならスマホを使うはずだ。お客だろうと咳払いをして、受話器を耳に当てる。


「はい、こちらは宝石店ロイエでございます」

『リーラ様、お久しぶりでございます』

「ギャレン?」


 通話相手は、礼儀正しい男。リーラの代わりに、ゾネとドイツの屋敷に住んでいる狩人だった。口調の通り几帳面な性格で、ゾネとは真逆だが一番相性はいい。


「久しぶりだね。だがそっちは夜中だろう? どうした」

『実は今日、テンシの騒ぎが起きたのですが……お恥ずかしながら、肝心のテンシがそちらに逃げてしまったのです』

「何故日本に?」

『被害にあった夫婦が日本人で、テンシ化したのはその娘かと』

「ふむ、故郷というわけか。分かった。詳細を頼む」


 事件が起こったのは、推定朝を過ぎたあたり。被害者は五十嵐夫妻で、その日予定していた訪問医が遺体を発見した。発見場所は娘の部屋。全身が血まみれだったが、奇妙な事に外傷は少ない。首筋と腕、その他所々、噛み跡があり、そこから体内の血がほとんど抜かれていた。

 人間の仕業には見えず、警察はテンシ狩りに連絡した。そこで駆け付けたゾネはよく効く嗅覚を生かし、テンシによる事件であると断言した。外傷や遺体の状況から見て、娘は吸血鬼に似たテンシとなったのだろう。

 現在はゾネが、関係した天使を探している最中だ。そこまで語ったあと、ギャレンは次の言葉を少し言い淀んだ。


『少し……気になる事が』

「なんだい?」

『ゾネが、涙の匂いがすると』

「まあ、娘の行動を見たら涙も出るさ」


 しかしギャレンは「いいえ」と否定した。確かに母と父の涙もあった。だが遺体にはテンシの涙もあったと言う。そして不可思議な点がもう一つ。娘の写真が何者かによって顔だけが消されていたのだ。

 暖かな家庭だったのか、夫婦共に娘の部屋にも、いくつもの家族写真が飾られていた。だがそのどれも、娘の顔だけが不自然に黒く焦がされていた。


「ふむ……気になる点がいくつかあるね。遺体の写真と、その娘さんの写真を撮影して送って欲しい」

『承知いたしました』

「そのテンシの処分は、ワタシの判断でいいね?」

『はい。始末を連絡していただければ』

「じゃあ新たに情報が上がり次第、連絡を頼む。こちらもそうするよ」


 リーラは受話器を置き、レジ奥に置いた椅子に腰を下ろした。話を聞く限り、そのテンシは望まない力を手に入れ、嘆いている可能性が高い。となれば、むしろ日本に来てくれて良かった。殺さず保護という選択肢がある。

 スマートフォンが振動する。早速写真が送られてきた。見れば、その可能性が確信に変わる。


「わぁ、真っ赤」

Ohaうわ!」


 突然の予想外な声に、リーラのスマホを持った手が慌てて滑らせる。足掻くが虚しく変な方向へ飛んで行ったスマホを受け止めたのは、一緒に画面を覗き込んだあまだった。


「あはは、オハーって初めて聞いた」

「キミねぇ……人間になった時に気配も置いてきたんじゃないのかね?」

「ちゃんと声かけたし」


 ドアベルも鳴ったし、いつも通り声をかけた。しかしリーラはスマホの画面をじっと見つめていて、全然気付かない。足音にすら反応しないのを見て、珍しく何に夢中になっているのかと、天は画面を覗いたのだ。


「新しい仕事?」

「まあそうだね。キミにも話しておきたい」

「いいよ。でも紅茶飲みながらね」


 天は手提げ袋を見せる。またお土産を持って来たのだろう。リーラは客間に天を通し、キッチンでローズティーを淹れた。その間、天は持って来た袋から紺色の箱を取り出す。何やら高級感があって、いつもの和菓子ではなく洋菓子が入っていそうな雰囲気だ。


「今日はなんだい?」

「なんだと思う?」


 天はいつも以上にご機嫌で、ニヤニヤしながら「じゃーん、見てよ」と蓋を開けた。中には鉱物の形に綺麗にカットされた琥珀糖が、丁寧に収まっている。


「琥珀糖って言うの。手作りだよ。凄くない? 宝石みたいで、リーラ好きでしょ?」

「へぇ……たいしたものだ」

「もっと褒めてくれてもいいよ」

「わざわざ持って来てくれたのかね。ワタシのために」


 リーラは自分の目と同じ色をした琥珀糖を、天井の明かりに透かす。天はその言葉に表情を固めると、そろっと目を逸らした。


「違うし。余ったからだし」

「ふふ、そうかそうか。こんなに、紫と青ばかりが余ったんだねぇ」


 リーラは紫と青が好きだ。長い付き合いである天もそれを知っている。にこにことした笑顔で言われ、彼は悔しそうに顔を真っ赤にさせた。


「あーもううるさい! 事件の写真さっさと説明してよ!」


 これ以上からかうと可哀想だ。リーラは挟んだテーブルの上で、互いに見えるようにスマホを置く。それから、ギャレンに聞いた事件の詳細を伝えた。


「ふーん。分かったけど、逃げるために日本まで来るって、相当だね」

「逃げたとは、少し違うんじゃないかな」

「捕まりたくないから来たんじゃないの?」

「ここからはワタシの考察だがね、噛み跡を見たまえ」


 人間より遥かに長く生きるリーラは、吸血鬼の知り合いがいる。そんな彼らは皆、人間界で生きられるよう、丁寧に食事をする。一回の食事で一々人間を殺していれば、吸血鬼狩りが起こって仕方ない。だからこんなに雑な噛み跡にはならないはずだ。涙があったと聞いているから、娘が両親を恨んで故意的に殺したとも思えない。


「これは、相当血を我慢していた結果じゃないだろうか」

「我慢してて、餓死寸前すぎて吸っちゃったって事?」

「ああ。そして発見した訪問医は、娘の掛かり付け医だそうだ。医者が言うに、娘はよく『いつ日本に戻れますか?』と尋ねていたそうだ。常々、故郷に帰りたかったんだろうね」

「じゃあもしかして……日本に来たのって」


 想像したのか、顔を青ざめた天にリーラは頷いた。

 娘は必死に吸血欲を耐えていた。それが爆発し、両親を殺害したのを後悔している。とすれば、最期に日本の景色を見たいと思ったのだろう。目標が達成すれば、彼女はきっと自死を試みる。


「いち早く見つけて、保護をする。娘の顔写真が残っていないから、すぐに人物像を理解はできないが……分かり次第、キミにも送るよ」

「分かった。その子も、リーベ君の核に関係するかな?」

「さて……リーベに聞かないとだね」

「寝てるの?」

「外出中だよ」

「え、一人?」

「ああ、おつかいだ」


 化粧品を切らしたと聞いて、だから店を休業にして、灰色の肌のままなのだと天は理解した。「ふーん」と言いながら、自分の作った琥珀糖を食べて紅茶を飲んだ。華やかな香りが、琥珀糖の甘さを優しく包んで美味しい。ほっとひと息ついたあと、ふと気付く。


「ん? ねえまさかさ、メモ、手書きで渡した?」

「……丁寧には書いたよ?」


 天はやっぱりと顔を歪めた。リーラの日本語は、漢字は間違えるため使わず、確実性を持ってひらがなだ。それなのに走り書きが癖付いていてミミズのような文字で、解読に頭を悩ませる。そしてたまに、本人も首をかしげる芸術性もあった。

 絵も同じで、彼女が猫を描けば犬やうさぎかと感想があらぬ方へ分岐する。今頃リーベは、地図にもならない不可思議な絵とメモに翻弄しているだろう。

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