第44話【魂と肉体】


今から3年前。

エリエスがまだ15歳の人間だった頃。


カトリシアの巨城の中。

眠りにつくため自室に入ったエリエスは、窓際でなびくカーテンに気付いた。


月明かりが隙間から入り込み、暗い室内を照らしている。

ひんやりとした風が肌に触れて寒気を覚えたため思わず身を撫でる。

窓を開けた覚えなどないのに、変だなと思いつつエリエスは窓を閉めた。


その時、背後から不意に何者かの気配を感じた。


「こんばんは、王女様」


「…!?」


女の声。


振り向くと部屋の隅、月明かりの届かぬ影の中に誰かが立っている。

赤く光る二つの眼光がこちらを見ていた。


すぐにただ者ではないと悟ったエリエスが声を上げようとすると、突然顔に水がまとわりついて口元を塞ぐ。

出した声は水に吸収されてブクブクと泡に変わった。


「声を上げたらこのまま窒息させるから、静かにしててよ」


水が顔から離れ、吸い込んでしまった水をゲホゲホと吐き出すエリエス。


「…あなた誰?どうやってここに入ったの?」


苦しそうにかすれた声でエリエスは謎の人物に怯えた瞳を向ける。

その人物が一歩足を踏み出したことによって、月明かりが姿を暴く。

黒ずくめの服を身に纏い、仮面を被った人物だった。

右肩には青い蛙が乗っていて、異様という他ない出で立ちである。


「あたしはガルマで、彼はクレイス。いきなりで悪いんだけど、あなたの体をちょうだい」


エリエスは驚愕する。

喋ったのは仮面の人物ではなく、蛙の方だったからだ。


そして次の瞬間仮面の人物が手をかざしてきたかと思うと、エリエスは得体の知れない力に引っ張られて意識が飛びそうになった。

まるで脳を直接鷲掴みにされて引きずり出されているような感覚。


「~~っ!?」


全身が痺れて息ができない。


仮面の人物が手を下ろすと同時にその感覚が解け、膝をついて倒れるエリエス。


「…やはり駄目だな。抵抗してる」


仮面の人物、クレイスが呟く。

若い男の声である。


地面に手をついて荒い息を吐くエリエスの前に、ガルマと名乗った蛙がやってくる。


「大人しく魂を出してくれない?さもないとこの町の人達を皆殺しにするから」


「……何が…目的なの?」


「あなたの代わりにあたしが王女になって、人間と魔族の争いを終わらせる。そしてクレイスと結ばれるの」


何の悪気も無く、キラキラとした目で言ってのけるガルマ。

あまりにも純粋な悪を前にしてエリエスは目眩を覚えた。


「…魔族なんかの思い通りにはさせない。たとえこの命が奪われようと!」


「ふぅん…」


もしも要求を飲んでしまえばきっと人類にとって悲惨なことになる。

王の娘としてのプライドが、死の恐怖に勝る勇気をもたらす。


その時である。


「…エリエス?どうかしたのか?」


何者かが部屋の扉を開けて入ってきた。

それはこの国の王であり、エリエスの父だ。


王は部屋に入るなり、倒れたエリエスとその前に佇む謎の人物に気付いて目を見開いた。


「エリ…!!」


王の顔に水が覆い被さる。


「お父様!」


「…助けたい?だったら魂を差し出して」


「そんな…」


「ほら、早くしないと溺れ死んじゃうよ」


ヘラヘラと笑うガルマに怒りを覚えて唇を噛み締めつつも、エリエスには苦しむ父親を見捨てることなどできなかった。


「分かった!言う通りにするから!!」


仮面の男が再び手を翳す。

目を閉じたエリエスの頬を、一筋の涙が伝わり落ちた。







(……私…どうなったの?)


一瞬意識が飛んだ気がする。

朦朧とする意識の中、エリエスはひとまず体を起こそうとして、力が入らず体勢を崩した。


顔を上げると、そこには自分の何倍も巨大な人間が横たわっていた。

よく見ると自分と全く同じ姿をしている。

巨人がまぶたを開けて、二つの眼がギョロリとこちらを見た。


「っ!!」


恐れおののいて飛び退いたエリエスは何かにぶつかる。

慌てて振り向くと、目の前に青い蛙がいた。


だが様子がおかしい。

表情や仕草が、自分自身の動きと連動しているような違和感。


「そんな…まさか…!」


やがてそれが立て鏡に映った自分の姿であることに気付いたエリエスは、声にならない悲鳴を上げた。


「…やった、成功した!」


エリエスと肉体を交換したガルマは、はしゃぎながら立ち上がるもバランスを崩してクレイスにもたれ掛かる。


「これでやっとあなたと…」


クレイスに顔を近付け、熱い視線を送るガルマ。


「エリエス…これはどういうことだ?」


見知らぬ男に抱きつく娘の姿を見て、王は理解が及ばず混乱する。


「…いけない、忘れてた」


ガルマは振り返ると、王を黙らせるべく手をかざした。

しかし水の魔石が反応しない。


「あれ……力が!?」


「……!」


即座にクレイスが動く。

彼はガルマを突き放して腰のナイフを引き抜くと、躊躇なく王の喉を切り裂いた。


王はとっさに首を押さえるも、その血は止まることを知らずにボタボタと溢れて綺麗な床を赤く汚す。

娘の姿をしたガルマに手を伸ばしながら、王は為す術もなくその場に倒れて絶命したのだった。


「お父様っ!」


すぐに父のもとへ這い寄るも、既に彼の瞳からは輝きが失われていた。


「いやあぁぁああ!!」


蛙に変えられただけでなく、父親の命まで奪われたエリエスの心が絶望に塗り潰される。


「クレイス!?なにも本当に殺さなくても…」


オロオロと戸惑いを見せるガルマに、クレイスはナイフの血を拭き取りながら答える。


「…どの道こうするしかなかった。全ては平和のための尊い犠牲だ」


「それは分かってるけど…」


「…あとはあいつだけ」


クレイスがこちらを向いたことにエリエスは気付いた。


(殺される…!)


すぐに逃げる素振りを見せるエリエスだったが、慣れない蛙の体をうまく動かすことができない。

床を這うようにしか進めない彼女にクレイスが迫る。


(…このまま死ぬわけにはいかない!)


彼の手がエリエスに触れようとした、その瞬間。

クレイスのポケットから水の魔石が光を放って飛び出したかと思うと、死んだ王の血を巻き上げて歪な人の形へと変貌したではないか。

さながら血の精霊である。


「うそ!?」


ガルマが口元を手で押さえて驚きをあらわにする。

魔力を暴発させたエリエスは訳も分からないまま精霊に飛び乗り、部屋から飛び出した。


「何だ!?」


廊下にいた兵士達が異変に気付き、わらわらと集まってくる。

警戒して槍を向けてくる兵士達に向かってエリエスはどうにか説得を試みようとするが…。


「待って!私はエリ…」


「その魔族がお父様を殺したの!」


だが無情にも後から出てきたガルマが、彼女の言葉を打ち消す。

王女の姿をしたガルマの言葉を疑うものなどいなかった。


「そいつを逃がすな!」


「…っ!」


敵意を剥き出しにする兵士達にもはやどうすることもできず、エリエスは城の窓を破って外へ飛び出した。

遥か下の地上へと落下するエリエス。

暗くて地面が見えず、ここが何階の高さなのかも分からない。


誰にも知られることのない涙を空へ舞い上げながら、彼女の体は深い闇へと落ちていった。




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