嵐
我が母ヘルミーネとわたしは顔立ちがよく似ている。
34歳となった今でも衰えを知らぬ容色、旅装とはいえ完璧に着こなされたドレス、洗練の域に達した立ち居振る舞い。
まさに最上級の貴族女性の見本のような人である。
顔以外は似てないと昔からよく言われたものだ。
なお前世の感覚からすれば34歳というとまだまだ若々しい外見をした女性が多いが、この世界では訳が違う。
若々しい外見は美容に金をかけられる特権階級の証と言ってもいいだろう。
ただし一応母上の名誉のために、彼女が決して浪費家ではないことを付け加えておく。
予期せぬイェレミアスとの遭遇から数日後、とうとう帝都の我が邸宅に到着した母ヘルミーネは、正装してエントランスで出迎えたわたしの姿を批判的な目つきで長々と観察した後、落第生を受け持つ教授のような口ぶりで質問してきた。
「髪の毛の手入れは欠かしていないようね。オイルは何を使っているの?」
オイルは使っている。
使っているが、何のオイルだか知らん。
クラリッサやメイドが調達してきたものを言われるままに使っているだけだ。
「……アズラク産のアーガニアです、奥様」
わたしが答えられないことを察したクラリッサが助け舟を出してくれる。
「……よいでしょう。あなたの黒髪は精霊様の祝福の証。ゆめ忘れることのなきように」
「はい、母上」
ただ単に黒髪になる遺伝子が発現しただけだろうに。
と言いたいのを堪え、わたしは殊勝な返事をした。
なお精霊というのはオレステス教会の発生以前から存在する土着信仰だ。
教会からすると本来異教ではあるのだが、あまりにも民衆の間に深く根差していたためヒューベンタールでは排斥より融合の方向で進み、現在の教義ではいわば神の眷属のような立ち位置を与えられている。
聖人として迎え入れるだのどうだのという聖女フロレンツィアの言葉もこの辺りが関係している。
ただ神の眷属はあくまで教義上の体裁を整えるためであり、ヒューベンタール人にとって精霊は精霊以外の何者でもない。
はるか太古からこの地に暮らすわたしたちと共にあり続けてきた守り神のような存在なのだ。
かようなありがたい存在の祝福を一身に受けてこの世に誕生したらしいこのわたしだが、これまでの人生で精霊の言葉を聞いたことも精霊の力を感じたこともない。
まあ、当たり前だ。
わたしは特に精霊の祝福なんぞ受けてはいない、たまたま黒髪で生まれただけの女なのだから。
確かに純血のヒューベンタール人の髪色は金髪から精々明るい栗色までで、黒髪が基本的に発現しないのは事実だ。
しかしまあ、どうせフェルンバッハの先祖の誰かが黒髪の異民族に子を産ませたことがあるのだろう。
家系図上は初代から今に至るまで純血を保っていることになっているが、あんなものは家の都合でどうとでも事実を隠蔽できる。
「長旅でお疲れでしょう、母上。客室へご案内します」
「そうね。確かに快適とは言い難い長旅だったわ」
少し顎を上げた母上はツンとした調子で言い放つ。
事実は事実なんだろうが、相変わらずはっきり物を言う人だ。
この世界には自動車も列車も、まして飛行機も存在しない。
大都市以外は道も舗装されていないし、馬車は一応サスペンションを備えているが乗り心地満点とは口が裂けても言えない。
わたしのように身体的に強靭ではない母上にとっては拷問のような旅路だったに違いない。
不満を全部受け止めてくれる父上がいればまだましだったのだろうが、今回はそれもいない。
供をした使用人たちに無茶を言っていなければいいのだが。
「ラウラ、荷を」
わたしやクラリッサと共に母上を出迎えていたこの屋敷唯一のメイドであるラウラに声をかけると、彼女はぎくしゃくとした仕草で頭を下げてから一目散に玄関の外へ駆けて行った。
「いかにもあなたのメイドらしい忙しなさね、エレオノーラ」
「ラウラはよくやってくれていますよ」
「給金を出しているのだから当然です」
ラウラを庇うわたしの言葉を一語の下に斬って捨てた母上は、わたしに案内されて歩き出しながらここでようやく他の者たちへ視線を向けた。
「ブリュンヒルデも息災で何より」
「恐れ入ります、奥様」
わたしの前ではいつも好き勝手に振舞っているブリュンヒルデが借りてきた猫のように縮こまって答えた。
いくら養女になったとはいえ、元の立場を考えれば気まずいのだろう。
こう見えて母上はブリュンヒルデを最大限支援し、実の子と同等とは行かぬまでも愛情をもって接していたようにわたしには思える。
しかし、どうもブリュンヒルデは実の母親の一件以来、わたし以外頼れる人間は誰もいないと思い込んでいる節があった。
「いまだにわたくしを母と呼ぶ気はないのね」
目を伏せたブリュンヒルデを少し悲しそうに見つめた母上は、気を取り直すようにクラリッサの方へ視線を向けた。
「クラリッサ、いつも報告ご苦労様。帝都でのエレオノーラの様子がよく分かって助かっているわ」
報告!?
吃驚したわたしは目を限界まで見開いて後ろへ続くクラリッサを振り返った。
彼女は『あちゃー』という感じの表情を浮かべていた。しかし、一度ぎゅっと目を閉じてからすぐに表情を取り繕ったクラリッサは、完璧な仕草で母上に頭を下げてみせた。
「もったいないお言葉です、奥様」
「次はもう少しこの子の交友関係について詳しくして欲しいわ。特にそう……殿方との関係について」
「善処致します」
ネタにされている本人の目の前で堂々と報告とやらの内容について話し合う二人を見て、ついにわたしは爆発した。
「母上っ! いくら何でも度が過ぎます! わたしにもプライバシーというものが……」
「おだまり、エレオノーラ。わたくしが今のあなたの年齢の頃にはもうあなたを産んでいたわ」
我が母ヘルミーネがフェルンバッハ家当主ゲラルトに嫁いだのが16歳。そしてわたしを産んだのが17歳、つまり今のわたしと同じ年齢の頃だ。
ヒューベンタール神聖帝国では15歳で成人とされるため母の結婚出産は特別早いものではない。しかし一方で前世の記憶があるため17歳といえばまだ高校生の子どもだという感覚もわたしの中にあり、二つの常識がせめぎ合いを起こしている。
「いつまでも子どもではいられないのよ、エレオノーラ。女だてらに一生騎士として剣を振るうわけにも行かないでしょう。何よりあなたには精霊様の恩寵を我が子に受け渡す義務がある。あなた自身重々承知しているはずよ」
ここでも二つの常識のせめぎ合いだ。
義務を果たすか、自由を取るか。
わたしは母上の言葉に答えられなかった。
そんな娘の様子を見て取り、母上が小さくため息を吐き出すのが分かった。
「……この部屋をお使い下さい、母上」
我が邸宅の中でも一番上等な客室の扉を開き、母上を招き入れる。
部屋の中に足を踏み入れた母上はインテリアを一つ一つ検分するように眺めた。
クラリッサとメイドのラウラが母上の好みに合わせて調えてくれた客室は、どうやらお眼鏡に適うことができたようだった。
「感じのいい部屋ね」
「すぐにお茶をご用意します」
「ええ、お願いするわ」
ラウラは荷物を運びに行ってしまっているので、クラリッサに目配せする。
頭を下げてクラリッサが退室し、部屋には母上とわたし、そしてブリュンヒルデが残された。
「……ところでバルタザールはどこにいるのかしら?」
クッションの利いたソファに深く腰掛けた母上は少し疲れた様子だった。
やはり父上抜きの長旅が堪えているのだろう。
「バルタザールならその……フィールドワークに」
バルタザールはクラリッサやブリュンヒルデ同様にわたしの邸宅で暮らしているが、今は不在にしていた。
ありていに言えば母上から逃げたのだ。
「逃げたわね、ろくでなし。あの男はちゃんと働いているの?」
わたし同様付き合いの長い母上にもバルタザールの意図は筒抜けのようだった。
詳しくは知らないが、そもそもバルタザールをフェルンバッハ家に招いたのは母上らしい。
あのひねくれ者がよく招請を受けたものだとは思うが、多分弱みでも握られているに違いない。
でなければ厄介極まりないわたしの護衛など引き受けなかったはずだ。
「働くべき時には」
バルタザールは怠け者だが無能ではない。
普段は何の役にも立たないが、ここぞという時には絶対に必要な男だ。
それはわたしも母上もよく知っていた。
「それならばよいでしょう。今後も上手く使いなさい」
「はい。では我々は一度失礼致します」
母上に頭を下げ、ブリュンヒルデから先に退室する。
後に続いて部屋を出て行こうとしたわたしの背に、母上が言葉を投げかけてきた。
「なぜわたくしがゲラルト抜きで帝都まで来たか、疑問に思っているでしょう」
わたしはゆっくりと振り返って母ヘルミーネを見た。
「正直に言えばその通りです」
「あなたやブリュンヒルデに会いたかったのももちろんあるけれど、今回のことはゲラルトの指示よ。あの人は今領地から身動きが取れないから」
眉をひそめたわたしをじっと見つめ、母上は小さく頷いた。
「帝国の至る所で何か恐ろしいことが進行している。わたくしはそれを報せに来たのよ」
母ヘルミーネの言う恐ろしいことというのは十中八九教会が係わるものに違いない。
先日帝都にイェレミアスが現れたばかりだ。
あの男が他の諸侯領へ足を運んでいないと断言することはできない。
全体の絵を描いているのが誰なのか、まだ不明だ。
教皇なのか、他の誰かなのか。
しかし、物事の中心には必ずレーダー子爵と騎士イェレミアスがいる。
考えに耽りながらエントランスまで戻ると、そこにはうず高く積み上げられた母上の旅の荷物とそれを運ぶ使用人たちの姿があった。
甲斐甲斐しく荷物を抱えて運ぶ使用人たちの中に一際小柄な少年が混ざっているのを見つけ、わたしは思わず注視してしまった。
柔らかそうな栗色の巻き毛に澄んだ青い瞳。素朴で愛らしい顔立ち。
「テオ!」
わたしが声高く名前を呼ぶと、パッと振り向いた少年はひまわりのような笑顔を弾けさせた。
足元に荷物を置いたテオドールは一目散にわたしの元へ駆けよると、そのまま飛びついてこようとしたが寸でのところで思い留まってたたらを踏んだ。
「エル、久しぶりっ……です!」
主君筋であるわたしには敬語を使わねばならぬと教え込まれたのか、テオドールは慣れない口調で改まってみせた。
最後に会ったのはまだフェルンバッハ領にいた頃だから、もう2年以上前のことだ。
とすると今のテオドールは11歳くらいか。
まだまだ子どもらしいが、2年前よりも随分と背が伸びた。
子どもの成長というのは驚くほど早いものだ。
まさか母上がテオドールを連れてきているとは思わなかった。
たまにはあの人も気の利いたことをするものだ。
「大きくなったなぁ!」
テオドールはわたしに飛びつくのを思い留まったが、こちらは思い留まらなかった。
成長したとはいえまだ頭一つ分小さいテオドールの体を真正面から抱き締め、次いで脇の下から高く抱え上げ、一緒になってその場でくるくると回転した。
大喜びしてはしゃいでくれるというわたしの予想に反して、テオドールの反応は喜んではくれているがどこか遠慮がちで恥ずかしそうなものだった。
何故だ。
昔は会うたびに必ずこれをせがんできたのに。
回転を止めたわたしはテオドールの体を真上に放り投げた。
「あっ」
驚いて目を見開いたテオドールをまっすぐに見あげ、わたしは両腕を大きく開いた。
重力に従って落下してきた少年の華奢な体をしっかりと抱き留めた。
目を閉じて柔らかい巻き毛に鼻を埋める。
密着した胸から早鐘のような彼の鼓動が伝わってくる。
「……大きくなった」
再びわたしは告げた。
10年以上前フェルンバッハ家に託された少年は、甘えるように小さく頷いた。
目を開けると、使用人たちがこちらを見て見ぬふりをしながら作業を続けていた。
唯一呆れたような眼差しを隠さないブリュンヒルデに軽く目配せしてから、わたしは大きく開け放たれたエントランスの大扉から外の景色へ視線を向けた。
皇帝陛下の威光に照らされたかのように雲一つない青空を天に頂く帝都。
その遥か彼方に不吉な黒い染みのようなものが生じていた。
まるで忍び寄る悪意そのもののように、少しずつ拡がっていく。
すぐそこまで嵐が近づいていた。
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ここから先は坂道を転がり落ちていきます。
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