どこかで聞いた、
わたしたちに囲まれた毒竜クエレブレが吠えた。
これまでのようなこちらを嘲笑うものではなく、本物の怒りに満ちている。
槍が突き刺さった顔を鬱陶しそうに振った毒竜は、首を縮めたかと思うと恐ろしい速度でこちらに食らいかかってきた。
とっさにテオドールの体を弾き飛ばし、自らも横っ飛びに逃れる。
伸びきった首へ横合いから飛びついたクリストバルがスキルを発動させて槍を叩き込んだ。
クリストバルの攻撃は確かに鱗を砕き肉を傷つけたが、まったく足りていない。
もっと深い傷を負わせなければ、このドラゴンを止めることはできない。
両脚片腕で着地したわたしは、その場で機敏に方向転換すると全身に炎を纏って地面を蹴った。
突進の勢いを殺さぬまま剣を振り抜き、散々こちらを脅かしてくれたクエレブレの片脚を斬り裂く。
両断には至らぬもののあの深さならば片脚の鉤爪はもう使えまい。
両脚を踏ん張って地面を横滑りしながら急停止し、素早く振り返って次の攻撃へ移ろうとする。
怒り狂ってこちらへ顔を向けるクエレブレ。
その顔面にテオドールの斬撃スキルが炸裂し、毒竜の片目を潰した。
敵の注意がテオドールに逸れた刹那、わたしは再び地面を蹴って斬りかかろうとする。
だがそれを予期していたのか、クエレブレはタイミングを合わせるように体を旋回させて痛烈な尾撃を繰り出してきた。
鋭く息を吸い込んだわたしは、折れた肋骨の痛みに耐えながらとっさに体を後ろに倒した。
仰向けに地面に倒れた体勢のまま突進の勢いで進行方向へ滑っていくわたしのすぐ真上を硬い鱗に覆われた太い尾が唸りを上げて通り過ぎた。
間一髪攻撃を避けはしたものの、わたしの体が停止したのはクエレブレのすぐ足元だ。
即座にわたしが跳ね起きるのと、斬り裂かれた傷にも構わずクエレブレが太い脚をこちらに繰り出してきたのはほぼ同時だった。
「危ない!」
死に物狂いで駆けつけたテオドールがわたしの体をほとんどタックルするような勢いで掻っ攫い、わたしたちを庇うように立ち塞がったロルフが刃先が白熱しているハルバードを振りかぶってクエレブレの千切れかけの脚を今度こそ両断した。
我々の思わぬ反撃に対し、クエレブレは忌々しげに歯を打ち鳴らしながら翼を大きく広げた。
周囲に豪風を巻き起こしながら飛翔したクエレブレは、喉元の鱗を広げて鼻面をこちらに向かって突き出した。
「ブレスが来るぞ!」
もはや意味があるかも分からない警告をわたしは叫んだ。
バルタザールたちの守護魔法はまだ生きているはず。
だが本当に耐えられるのか?
あるいは今この状況で散開してブレスの効果範囲から逃れられるか?
一か八か、ブレスを吐く瞬間にこちらからスキル攻撃を叩き込んでやるか?
矢継ぎ早に思考が交錯して纏まらない。
鋭い牙がずらりと並んだクエレブレの口が大きく開かれていく。
やはりスキルを撃ち込もう。
火塵剣の出力を上げるために深く息を吸い込もうとしたその時、けったいな喚き声と共にどたばたした動作で男が走り寄ってきた。
「どぉわああああ~!」
ろくでなしの魔法使いバルタザールは杖をぶんぶんと振り回しながら仲間たちのほぼ中央までやって来て、汗だくの顔に真剣な表情を浮かべて石突を地面に突き立てた。
「星杖よ! 大いなる女神の守りもて……ええい面倒くさい! 星天蓋よ出ろ!」
バルタザールがやけくそ気味に叫ぶと同時に、わたしたちをドーム状の光の天蓋が包み込んだ。
直後、クエレブレの口から毒々しい色の瘴気が放出されたが、天蓋のバリアが全て受け止めていた。
毒竜クエレブレはその名の通り毒のブレスを吐く。
前世に存在したゲームなどでもそうだったが、この世界でもダメージと状態異常を同時に与えてくる攻撃は極めて厄介なものと捉えられている。
「助かったぞ、バルタザール」
わたしが素直に労うと、大粒の汗を流しながら術式の維持に努めるバルタザールは苦しげな声で答えた。
「毒竜めのブレスが切れるまでは星天蓋をもたせます。ブレスが切れたら急いでこの場を離れて下さい。守護はまだ効いていますが、毒を含んだ空気に長く触れるのは危険です」
「……皆、聞いた通りだ。動き出すタイミングを誤るなよ。ロルフ、セベリアノは?」
「俺ならここにいる。すまん、気を失っていた」
上空に掬い上げられて地面に叩きつけられたセベリアノだったが、不幸中の幸いか動きに支障があるほどの怪我は負っていないようだった。
「よし。ロルフ、テオ、バルタザール。クリストバル、セベリアノ、そしてわたし。この場にいるのはこれで全員だな?」
「おうよ」
クリストバルが槍を肩に担ぎながら答える。
「今のところ毒竜に致命傷を与えられるのはわたしかロルフのスキルだけだ。ブレスが切れたら一度散開し、わたしたち二人以外の皆は敵の注意を引き付けてくれ。隙を突いてわたしとロルフが最大火力を食らわせてやる」
「毒を吸い込まぬように注意を」
バルタザールが口を挟んでくる。
「そういうことだ。そろそろブレスが終わりそうだな」
見あげると光の天蓋が受け止めている毒のブレスが徐々に薄まっていくのが分かる。
絶え間なく胸の内側を刺してくる痛みに顔をしかめつつ、走り出す準備を整えた。
「星天蓋が消えます。3、2、1」
バルタザールが三つ数えると同時に光の天蓋が消え去った。
周囲にはまだ濃厚な毒の空気が漂っている。
その中心部からわたしたちは息を止めたまま急いで離れようとした。
だが想像以上にクエレブレの毒が強力で、確かに毒は吸い込んではいないはずなのに足がひどく重くなり思ったように体が前に進まない。
他の皆も状況は同じようだった。
内心罵り声を上げていたわたしだったが、ついに恐れていることが起こった。
わたしとは別方向へ走って逃れようとしていたクリストバルが膝を折り、そのまま倒れ伏してしまったのだ。
クリストバルの一番近くにいたテオドールもそれに気付いていたが、駆けつけようにも彼も体が上手く動かないようだった。
「これはいかん!」
バルタザールの焦った声がぼんやりした反響と共に耳に届く。
目がかすみ、猛烈な頭痛と吐き気に襲われてわたしもその場へ膝を突きそうになったが、そこで何かが爆発したかのような衝撃波が叩きつけてきた。
耐え切れずに地面に転がったわたしは、二、三度ほど頭を振ってから毒による影響がかなり薄らいでいるのを感じ取った。
何だ今のは?
神聖魔法の類か?
不信心者のバルタザールには使えなかったはずだが。
疑問は残るものの急いで体勢を立て直してクリストバルの方を見ると、いまだ起き上がれない彼の体へクエレブレが鋭い牙を剥き出しにして食らいつこうとしており、さらにはそれを阻止しようとテオドールが自分の身をクリストバルと牙との間に割り込ませようとしているところだった。
それを見たわたしは瞬間的に頭が真っ白になってしまった。
何かを叫んでいたと思うが、自分でもよく分からない。
気が付いたら地面を蹴り砕いてテオドールとクリストバルの元へ駆けつけ、二人の体を突き飛ばしていた。
バクン、と牙の並んだ顎が閉じられる。
わたしの腹部から胸部にかけて、灼熱のような痛みが走った。
地面に転がったテオドールが身を起こしてこちらを見る。
絶望に満ちた表情を浮かべる彼に向けて微笑みかけようとして、口から血が溢れ出た。
「嫌だ……嫌だ、エル!」
悲痛な叫びを上げながらこちらへ駆けてくるテオドールに構わず、クエレブレは満足げに身を震わせたかと思うと、牙に引っ掛けたわたしを丸呑みにするために顎を開いて顔を上に向かって勢いよく振った。
突き刺さった牙からすっぽ抜けたわたしの体が空中へ投げ出される。
真下には大口を開けて待ち構える忌々しい毒竜。
大量の血が体から失われていく感覚に凍えながら、わたしはこの期に及んで手放さなかった剣を力の限り握り締めた。
「火塵剣……」
溢れ出る血のせいでほとんど言葉にならない呟きを漏らす。
一瞬だけ業火が全身を包み込み、すぐにそれは剣身に集束して青白く鋭い刃と化した。
落下するわたしと待ち構えるクエレブレ。
交錯の瞬間、必殺の剣を横一文字に振り抜こうとしたわたしの体を硬い皮膜に覆われた翼が横殴りにした。
予想外のカウンターにわたしはなすすべなく吹き飛ばされ、石舞台の上に力なく仰向けに倒れた。
剣はもはやこの手の中から零れ落ちてしまった。
握力がもうない。
立ち上がることもできない。
体が寒くて仕方がない。
ロルフの声が聞こえる。
耳鳴りがひどいが、かろうじて戦闘音も聞こえてくる。
顔を傾けると、片脚だけとなったせいか長い体をのたくるようにしてわたしの元へ近づこうとするクエレブレと、それを阻止しようとするロルフの間で攻防が繰り広げられていた。
しかし冷静さを欠いているのか、一瞬の隙を突かれてロルフの体が弾き飛ばされる。
クリストバルはまだ毒で動けない。セベリアノも同様。
腹の鱗が岩盤を擦る嫌な音を立てながら、クエレブレがわたしの元までやってきた。
覆いかぶさるようにこちらを見下ろす醜悪な顔をじっと眺める。
「腹を下して死ね、クソ竜めが」
ねばつく血の絡む舌を動かして、精一杯の悪態をつく。
クエレブレはわたしの言葉を理解しているかのようにくつくつと喉を鳴らして笑うと、あんぐりと口を開けてわたしを食らおうとした。
しかし、クエレブレは突然わたしに食らいつくのをやめ、首をもたげてあらぬ方向を向いた。
苦労してわたしもそちらへ視線を向けると、わたしの長剣を手にしたテオドールがそこにはいた。
彼は荒い呼吸で肩を上下させながら、両手で大上段に長剣を構えた。
警戒するようにクエレブレが頭を下げて唸り声を上げた。
「エルは死なせない。お前なんかに絶対に殺させない!」
テオドールが叫んだ瞬間、彼の体から眩い光が立ち昇った。
大空洞の天井まで達するのではないかという光の柱を現出させた少年をさしもの毒竜も無視はできないようだった。
翼を広げて一度高く舞い上がると、すぐに方向転換してまっすぐテオドールに向かって直進するコースを取る。
対するテオドールは動かない。
全身から光の柱を立ち昇らせた少年は、片脚だけとなったクエレブレの鋭い鉤爪が自身の体を鷲掴みにする寸前になって、初めて動きを見せた。
「光芒剣!」
目にも留まらぬ斬り下ろし。
同時に眩い閃光が大空洞を上から下まで真っ向に斬り裂いた。
耳が痛くなるような一瞬の静寂の後、二つに分かれたクエレブレの体が石舞台の下へ転がり落ちて行った。
信じられぬような光景を目の当たりにし、急に笑いたくなった。
やはりわたしは間違っていなかったのだ。
テオドールはわたしより強くなる。
たとえこの先わたしがそばにいなくとも。
笑い声を上げるだけの力も残されておらず、ただ口元を震わせながらテオドールの姿を目に焼き付けていると、纏っていた光を失ったテオドールがよろけながらこちらへ駆け寄ってきた。
「エル! エル! ああ、血がこんなに!」
「テオ……」
「喋らないで! 何とか止血を……」
顔面蒼白のテオドールは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、わたしを救おうとしてくれているようだった。
しかし彼に治癒魔法は使えないし、この傷はもはや素人の応急処置でどうにかなるものではない。
だが、もういい。
もういいのだ。
できることを何とか探そうとテオドールが周囲を見回しているところへ、激しい形相で走り込んできたバルタザールが一喝した。
「どきなさい!」
押しのけられたテオドールは体を起こそうとしてそのままその場に崩れ落ちてしまう。
無理なスキルを使った反動だろう。
気を失ったテオドールの体をやって来たロルフが抱きかかえる。
「ロルフ、テオを……」
「分かっている」
力強く頷く戦友にわたしもどうにか頷き返す。
「姫様。この傷の治癒はわたしにはできません。応急処置として傷口を凍結させて塞ぎます。運が良ければ……いえ、必ずクラリッサの元までお連れしますので、それまで安んじてお休みを」
「……よい。お前に任す、バルト」
わたしは信頼するろくでなしに血塗れの口元を歪めて笑いかけた。
バルタザールは一度だけ目元の汗を拭うような仕草をすると、魔法杖の先をわたしの傷口の上に翳した。
すでに意識が途切れかけている。
凍えるような寒さの他は体の感覚も消え失せてきた。
視界の四隅が暗くなり、徐々に狭まって見えなくなっていく。
馴染み深い死の感覚だ。
「やります。姫様、痛いのは我慢して下さいよ」
その言葉にわたしは苦労してくちびるを動かして言い返してやった。
「ふ、ふ……。どこかで聞いた、台詞だ……」
もはやほとんど見えない視界に光が走り、腹部と胸部を鋭い痛みと冷気が貫いた。
鉛のように重いまぶたを閉じる。
眠くてたまらない。
暗闇の奥へ奥へと何もかもが沈んでいく。
やがて意識が黒く塗り潰されてふつりと途絶えた。
その寸前に呟いた言葉が現実だったのか幻だったのか、自分自身分からぬまま。
「……ああ、カレー……食べたいなぁ……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
バルタザールの花火魔法は幼少期の姫様を適当にあしらうために即興で作り出したものですが、思いのほか喜んでもらえたため研鑽が重ねられ、今では洗練の極みに達しています。
以後、フェルンバッハ領の夏至祭にはもじゃもじゃ髪でローブ姿の花火職人の姿が必ずあったという……。
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